額から眉間にかけて、顔を両断するように存在するそれと、左口元のそれ。
いつかの戦いでできた生々しい傷跡は反転術式でも上手く消えず、あれから数年経った今でも当時のままはっきりと残り続けている。特にそれを邪魔だと思ったことも、消したいと思ったこともない。だだそこにあるそれらを時々なぞって、過去のことを思い出すだけ。昔はそんな夜も多かったけど、今は随分減った。彼女と暮らすようになったからだ。
その日は空気が冷たく肌寒い夜だった。ぼんやりとあたりを照らす街灯の下を、彼女と並んで自宅を目指して歩いていた。
交わされるのはたわいない会話。このあとは何食べようかとか、冷蔵庫には何が残ってたっけ、スーパーに寄った方がいいかもとか、今日は何が一番楽しかった?とか、晩御飯を食べながらどんな映画を見ようかとか。
そんなことを話していたとき、すれ違った通行人がちらりと俺の顔を見て、ギョッとしたように二度見した。
――あぁ、またか。
そう思ってスルーした。
そういう反応には慣れている。特段怒りも悲しみも感じない。むしろ普通の反応だと思うから。呪霊や呪術師の存在が世界的にオープンになった今でも、普段生活している中では一般人が俺たちのような存在に交わることはそうない。だから仕方がない。それが現実というだけだ。そういえば一回、銭湯入ろうとしたら断られそうになったっけ。刺青でもねえのに。身分証出したらなんとかなったけど。
反射的に、彼女の方を見た。
こんな顔の傷なんて、気にならない。それは半分正しくて、半分は嘘だ。
「あんな物騒な男と一緒にいて、あの女の子可哀想だな」と周りから思われてるんじゃないか。もしかしたら、知らず知らずのうちに彼女に嫌な思いをさせてるんじゃないか。この子はやさしいからそれを打ち明けないだけかもしれない。そんなことを考えてしまう。しあわせにする、泣かせない、そう決めているのに、自分にはどうしようもないことで彼女を傷つけているんだとしたら。
もしそうなんだとしたら、俺には何ができるんだろう。そういう疑問に、「一緒にいない」という選択肢しか思い浮かばなくて、だから怖くて聞くことができない。弱いから。
普通の人間じゃない、普通のしあわせを享受できない自分自身の存在を、突きつけてくるのはいつも赤の他人だ。
黙って俯いて、そのままフードを被った。顔を上げた彼女と、目が合った。無理やり笑った。
「……いや、さみいなと思って。#name#ちゃんは平気?」
そんな嘘をついた。
「うん、……大丈夫だよ」
彼女は何か言いたげな表情で立ち止まる。
「……悠仁くん、ちょっとストップ」
小さな手が、俺のパーカーの袖をそっと引っ張る。俺も歩みを止めた。
「ん、どした?歩くの疲れた?」
「ううん、そうじゃなくて……」
「……ん?」
いつもの癖で、彼女の視線まで膝を落とした。俺を見つめたまま、まばたきを2回。かわいい。そして彼女の腕が伸ばされたかと思うと、左頬に手のひらがそっと添えられた。思わずドキッとする。
ひんやりとした夕気の中で、触れ合った肌から伝わる確かな体温。 親指が傷に触れた瞬間、息をのんだ。あんまり丁寧に、撫でるから。
「……っ、どした」
「悠仁くん、また顔の傷のこと気にしてた」
「……別に、そんなことねえよ」
「隠さないで。全部ばれてるもん」
まっすぐに見上げてくる彼女の瞳。ああ、やっぱり俺はこれに弱い。何も言えなくなった。彼女は悲しんでも戸惑ってもいなくて、その表情はただやさしかった。彼女の細い指が、傷のラインをなぞるようにやさしく滑る。くすぐったくて、いとおしい。
「……ごめん、そんな顔に出てた?」
「顔に出てたのは見てきたサラリーマンのほうだよ。すっごく失礼」
そう言いながらぷりぷりと怒る彼女はとてもかわいい。
「……これは、悠仁くんがどれだけ大切なものを守って、必死に生きてきたかの証拠でしょ」
「……うん」
「痛かったことも、怖かったことも、全部抱えてここまで来て、わたしに出会ってくれたんだよね」
「……うん、」
「悠仁くんのこの傷も、ぜんぶ含めて、世界で一番大好きだよ」
この子は本当にずるい。
いつもは外で俺がキスしたり抱きしめたり好きだと言ったり、そういうことをするとかわいく怒るのに。鼻の奥がツンと熱く熱を帯びる。目頭が熱くて、喉の奥がキュッと締め付けられた。溢れ出しそうになる感情を必死に堪えようと歯を食いしばったのに、彼女が追い討ちをかけてくる。
「悠仁くん、……もうちょっとしゃがんで」
「ん、……こんくらい?」
さらにしゃがんで、視線は彼女より下になる。次の瞬間、彼女のやわらかい唇が、俺の額に触れた。ちゅ、とやさしく傷跡を労るみたいに、2回。
「悠仁くん、……好き」
そっと囁かれる声に、本当に心臓が止まりそうになる。また、目頭の熱さが押し寄せてくる。
「…………さ、さすがにさ、」
「うん?」
「………かわいすぎるし、……ごめん、…おれも好き」
こぼれ落ちそうになったそれを隠したくて、彼女を力いっぱい強く引き寄せた。
「……マジで……ずるい、#name#ちゃん」
「……ごめんね」
「ここ外なのにさ、……いつもダメって言うのにさ」
「悠仁くんが悲しそうな顔してるから、そういうときは特別」
「はは、……そんなサービスあんの?」
笑って返した自分の声は、まだ震えていた。必死に彼女の肩に顔をうずめたまま、子供みたいに涙を堪える。彼女の手が背中に回され、とんとんとやさしくリズムを刻む。泣かないで、とそっと言われているようだった。
「……ごめん、嬉しすぎて」
「ううん、謝らないで」
「……ちなみに、これはまだ泣いてねえから」
「そうなの?」
「すげえ耐えてるから」
「ふふ。……ねえ、おうち帰って、あったかいもの食べようね」
「ん、……あともうちょっと」
背中に回した腕に、ぎゅっと力を込める。吹き抜ける冷たい風から、お互いを守るみたいに。重なり合う胸のあたりが、ぽかぽかとあたたかかった。
「あー……好き」
「うん、わたしも好きだよ」
「めちゃくちゃキスしたい」
「だめだよ、人いるもん」
「なんで、特別サービスじゃなかったん」
「だって今、悠仁くん悲しい顔してないでしょ」
「そんなことねえよ」
「……ほんとう?」
「ん、ほんと」
顔を上げると、まだ視界はじんわりと滲んでいたけれど、かわいい彼女と目が合った。彼女は指で、俺の目尻に溜まったそれをそっと掬い上げながら、やさしく笑い返してくれる。
「ふふ、鼻赤い」
「誰のせいだよ」
彼女の額に、全部込めるようにそっと唇を寄せる。キスしたい、ダメかな、さっきもうジロジロ見られたからさ、どうだっていいんよ。
そうやってわがままを言ってみたら、今回は許された。
この女の子よりやさしい人間を、俺は知らない。