雨に濡れたコンクリートの、むせ返るような埃っぽさ。呪霊が霧散するときの、鼻の奥を刺すような焼けたゴムに似た悪臭。そして、自分の拳を赤く染めている、拭いきれない鉄臭い血の匂い。自分が日常的に過ごす世界はいつだって、不快な匂いに満ちている。何度鼻を啜っても、この嫌な匂いは脳にこびりついて離れない。
暗い路地裏で一人、拳についた汚れを適当な布で拭いながら、重い溜息が出た。軽い耳鳴りが続いている。呼吸をするたび実感されるのは、生よりも死のほうだ。もう慣れっこだけど。ポケットで、スマホのアラームが震えた。
「……今日はギリギリ間に合ったな」
3月20日、今日は俺の誕生日。
一般的な歳の取り方ができなくなってしまった時点で、自分の誕生日に特になんの価値もないと思ってるけど。でもそんなことを、彼女は許してくれなかった。当日中にちゃんと帰ってこなかったら一緒に寝ない、風呂に入らないと言われた。それは困る。絶対困る。
玄関のドアの前に立って、目を閉じて一度深呼吸する。肺の空気を入れ替えて、自分の「呪術師モード」を解除する。彼女いわく、俺にはそういうものがあるらしい。そうして鍵を開けて、一歩中へ足を踏み入れた。
「悠仁くん、おかえり」
すぐに、パタパタと小走りで駆け寄ってくる足音がする。ふんわり鼻先を掠める、食欲をそそるごはんの匂い。そしてその奥にあるのは、たぶん部屋を温めている加湿器から漂う、清潔な石鹸の匂い。帰ってきた、と自覚する。会えたのは2日ぶりだ。今夜もかわいい。
「ただいま、#name#ちゃん」
吸い寄せられるように、彼女の身体を腕の中に閉じ込めたくなる。でも、一旦止まった。
「いや、さすがに汚れてるわ、おれ。だめだ」
「いいよ、気にしないよ」
「でも」
「お誕生日だから、遠慮するの禁止」
「………えー……」
そんなかわいい顔で言われたら、仕方ない。
「じゃあ、……お願い、ちょっとだけ」
素直に、彼女の細い首筋に顔を埋めた。すぐにわかる、彼女自身の匂い。陽だまりとか、花とか、そういうあたたかくてやさしい、明るい匂いがする。
「……やっと帰ってきた感じがする」
「よかった、おかえりなさい」
ついさっきまで鼻の奥に張り付いていた血の匂いも、呪霊の残り香も、こびりついた苦い記憶たちが一瞬で上書きされていく。泥の中で窒息しかけていた自分が、ちゃんと息ができる感覚。あまりに長いあいだ闇の中にいると、本来の自分の居場所がわからなくなってしまう。彼女は、そんな俺をギリギリのところでいつも救ってくれる。
「……すげーいい匂いする。落ち着く」
「いつもと一緒だよ」
「うん、だからいっつも癒やされてんだよ」
さらに深く鼻先を彼女の髪に押し当てた。くすぐったい、と彼女が笑う。
「おれの好きなシャンプーと、ボディソープと、香水のにおいだ」
「そんなの、ぜんぶわかるの?」
「わかるよ、おれは鼻めっちゃ利くの。知ってるっしょ」
においって不思議だ。彼女の隣で息をするだけで、なんか全部、肯定された気分になる。
「……だめだ、一生こうしてられる」
それに返事をするように、彼女の細い指が俺の髪をそっと撫でた。帰ってきてよかった。それだけで目頭が熱くなる。
「今日はお祝いしなきゃいけないから、一生はだめだよ」
「ん、でもあともうちょいだけ」
思いっきり深呼吸すると、ふと彼女のうなじから、少しだけ混じり気のある匂いがした。
「……ん? ……なんか、薬みてえなにおいがする」
「あ、……バレちゃった。朝ね、アイロンで火傷しちゃって。だから薬塗ったの」
彼女が申し訳なさそうに笑う。
「どこ?見して」
「大したことないからだいじょうぶだよ、朝塗ってもう痛くないし」
「それはおれが決めんの」
彼女が見せたうなじに、ほんの少し赤い痕を見つけた。
「こんなのすぐ治るから、ね」
「そういう問題じゃねえの。#name#ちゃんが痛い思いしたのが嫌なの、おれは」
「……そんなの、悠仁くんのほうがたくさんケガしてるよ」
「おれはいいんだよ」
その痕にそっとキスする。
「……おれが外で頑張っても、おれのいないとこで#name#ちゃんが痛い思いしてんなら意味ねえもん」
彼女の首筋や鎖骨、脈打つ場所に、執拗に鼻先を寄せて深く呼吸する。彼女の香りと俺の吐息が混ざり合って、境界線が曖昧になっていく。 今、俺の脳を支配しているのは、世界で一番大好きな女の子の、甘くてやさしい、生きてる匂いだけ。それが嬉しかった。
「ごめんね、気をつけるね」
「ん、約束して」
彼女の約束が聞けたら、腹が鳴った。
「………そういえば、朝からなんも食べてなかった」
「ごはんにしよう、ね」
頷いて、でも名残惜しくてもう一度だけ首筋に顔を埋める。俺の大好きな、彼女の匂い。彼女に手を引かれて、リビングに向かう。
俺の誕生日は、これからだ。