hello.


あれから、一ヶ月。
気がつけば、夕方になると少しだけ肌寒い風が吹くようになった。 カーディガンの袖からやわらかく抜けていく冷たい風の感触に、また、いつかの体温を思い出す。
(……虎杖くん、元気かな)
連絡が途絶えた直後は、鳴らない画面を何度も見つめては自分の言動を思い返して、あれがだめだったんじゃないかとかこれが嫌だったんじゃないかとか、そういうことばかり考えて落ち込んだ。
でも、それから少しだけ変わったことがある。
夜、よく映画を観るようになった。虎杖くんとの会話の中でいくつか出てきたそのタイトルたちを、どうにか必死に思い出して、何度も観た。彼がどんな表情で、どんな気持ちで観ていたのかを知りたかったから。
部屋の電気を消し、毛布にくるまってエンドロールまで見届けて、そしてスマートフォンを取り出す。通知のついていない、寂しい画面。メッセージアプリを開いて、トーク画面をタップする。
『この前教えてもらった映画、観てみたよ。虎杖くんが言ってた通り、変な映画だった』
そんなふうに打ち込んで、送信ボタンの上に親指を添える。
勇気が出るのはそこまで。いつも、送れずに終わってしまう。
送信ボタンを押したところで、このメッセージがきっと彼に届くことはない。既読のつかない画面を見つめ続けるだけの夜が増えることも、ちゃんとわかっている。
だからいつも、削除ボタンを押して、書いた文章を一文字ずつ消していく。最後に残ったカーソルが点滅して、やがて真っ白な入力欄だけが取り残される。寂しくなった。スマートフォンを伏せて胸の上に抱きしめ、天井を見上げた。
「……会いたいな」
もう会えないのだとわかって初めて、虎杖くんがいる世界のことについて、ほとんど知らないことに気がついた。彼がどんな危険と隣り合わせで戦っているのかも、どれだけ痛くて怖い思いをしているのかも、安全な場所から想像することしかできない。
一緒にいた短い時間で知った、彼の好きなもの、好きな時間、幼い頃の思い出。忘れたくなくて、宝物を抱きしめるみたいに、何度も心のなかで反芻した。
仕事では移動が多くて、よく車に揺られていること。朝や深夜の首都高から見える、ビルの波たち。眠る前はいつも、目を閉じながら彼が見ている景色を想像した。
会って、声が聴きたかった。元気でいるよ、と教えてもらいたかった。
胸の奥で芽生える欲張りな願いを、そっと蓋をして閉じ込める。
それでも、信号待ちの交差点、改札へ向かう階段の途中、聞き覚えのある声がする気がしたり、背格好の似た後ろ姿を見かけるたびに、心臓が跳ね上がる。
はっとして足を止め、思わず振り返って姿を探してしまう。でも、そこに彼はいない。


「寒くないですか?閉めます?」
「んーん、大丈夫。ありがと」
任務からの帰り道。
軽く開けられた車窓から、冷たい風が流れ込み、戦闘で火照った身体が静かに冷やされていく。それが心地よかった。いつものように後部座席に深く身体を預け、外を流れる夕暮れの街並みをぼんやりと眺める。街を行き交う人々はいつの間にか長袖を羽織り、夏の気配はどこかに消えてしまっていた。
季節は確実に進んでいる。
ただ自分の時間だけが、ずっとどこかで止まったままのような気がする。
「今日は珍しく順調に終わりましたね」
「な。すげー助かった」
この一ヶ月、送迎車と任地と高専を往復するだけの毎日だった。時々着替えを取りに自宅に戻って眠って、また朝になれば車でどこかに向かう。その繰り返しだった。それでよかった。なるべく心に隙間を作りたくなかったから。
それでも、彼女を忘れることは難しかった。
朝日に照らされる水溜まりを見たとき。夕焼けに染まるビルを眺めるとき。高速道路を流れていく街灯を追いかけるとき。眩しさに目を細めるときはいつも、彼女のことを思い出す。笑っていてほしいと思うし、会いたいと思う。もう好きでいることへの罪悪感は薄くなっていたけれど、だからこそ寂しかった。寂しいのが一番苦手だから、ずっと苦しい。
寂しさを誤魔化すために、またよく映画を観るようになった。特にB級と呼ばれるような、めちゃくちゃくだらないやつ。たぶん彼女に見せたらびっくりされるような。でも、彼女ならきっと笑ってくれるような気がする。
そうやってまた、あの子のことを考えている。会いたくなる。
彼女は今、どこにいるんだろう。誰と、何をしているんだろう。よく目を閉じて、彼女の姿や声、匂いを反芻した。大丈夫、まだ思い出せる。そうやって毎日、自分の記憶を繋ぎ止めている。
「……あの、虎杖さん」
「ん?」
「最近特にお忙しそうにされてますけど、大丈夫ですか?食事ちゃんとされてますか」
「え、……うん、大丈夫。どしたん」
「ちょっと痩せられたかなと思ったので。大丈夫なら、いいんですが」
顔を上げると、バックミラー越しに視線が合う。そこで初めて、本気で心配されていることに気がついた。俺、痩せたのか。自覚がなかった。
確かに忙しいと、食事を蔑ろにする傾向はある。それについては自覚があった。部屋に戻ったら、シャワーを浴びてさっさと寝てしまう。誘いも断ることが多くなった。
「そもそも、丸一日お休みされてることがないですよね、最近。なので心配で」
「あー……、忙しいくらいが好きだからさ、全然いいんよ」
「せめて今日は休んでくださいね」
「うん。……ごめん、心配させて。平気だから」
「……そうですか」
「なぁ、ラーメン好き?今度一緒に食いに行こ。俺の奢り」
そうやって誘うと、固かった表情がようやく安心したようにやわらかくなった。
「高専まででいいいですか?」
「うん。……あー、いや。今日はこのへんで降りようかな」
「わかりました。何かお約束ですか?」
「いや、たまたま早く終わったからさ。……ちょっと寄り道して帰るわ。けどちゃんと休むから。送迎ありがとね」
そうして一番近い繁華街で車を降りた。

夕方の肌寒い風が、そっと頬を撫でる。任地ではない場所の清々しい空気を吸うのはひさしぶりだ。深呼吸して、スマートフォンで時刻を確かめる。こんな時間に解放されるのも、かなりひさしぶりだった。
(……映画でも見るか)
たしか近くに映画館があったはずだ。ふと思い立って、駅前の映画館がある通りに向かって歩き出した。何を観ようか、上映リストを眺めながらぼんやり考える。
行き交う人々はみんな、どこか急ぎ足で自分の帰るべき場所へと向かっている。ネオンや街頭ビジョンの賑やかな光が点灯し始めた街並みの中で、自分だけが目的地もなく漂っているような感覚になる。冷え込んできた風を避けるように、パーカーのポケットに両手を突っ込んだ。人波の切れ目を縫うようにして、ゆっくりと歩いていく。
街路沿いの店のガラスに映る自分の姿、すれ違う人々の面影。それらを眺めているうちに、背格好の似た後ろ姿や、彼女が着ていたやわらかい色を無意識に探してしまう。
無駄だって、わかっているのに。
会えるわけがない。頭ではわかっていても、それはもう癖みたいになってしまっていた。
やがて映画館の入っている大きなビルが見えてくる。シアターのあの暗闇の中に入ってさえしまえば、誰にも邪魔されずにただひたすらスクリーンを眺めていられる。
スクランブル交差点の赤信号で、足を止めた。見上げた空はだんだん雲に覆われて、雨が降り出しそうだ。街頭ビジョンから流れる音楽や、誰かの話し声、すぐ目の前を走り去っていく車の排気音。そんな雑音のすべてが、どこか遠くで鳴っているような妙な遠和感があった。
冷え込んできた風が吹き抜けるたび、街路樹の葉が乾いた音を立てる。ポケットに入れた手に、ぎゅっと力を込める。
信号が青に変わり、その場の全員が一斉に歩き出す。
その時。
すれ違う人波の隙間から、風に乗って、甘い匂いが鼻腔をかすめた。とっさに懐かしい、と思った。なんでだ、そう考えてすぐ、答えにたどり着いた。
「……まさか、」
心臓がドクンと、嫌になるくらいに大きく跳ね上がる。身体が思考よりも先に反応して、弾かれたように後ろを振り返った。
視界に、横断歩道を渡っていくその背中が映る。見覚えのある、華奢な後ろ姿。見間違いじゃない。夢の中でずっと追いかけていた、その姿。
「……っ、」
気がつけば、人混みを押し分けるようにして、なりふり構わず走り出していた。
すれ違う人と肩がぶつかっても気にしていられなかった。必死に手を伸ばすように、彼女の背中を追う。
「……っ、待って、」
声にはならなかった。 横断歩道を渡りきった歩道の手前、あと数歩の距離。
逃がさない。もう二度と、自分から手放したりしない。
夢中で手を伸ばし、彼女の細い腕を、強く掴み引き寄せた。
「わっ……?」
驚いたように肩を跳ねさせ、彼女が振り向いた。その大きな瞳に、息を荒らげた自分の姿が映る。
「…………い、虎杖くん…?」
「……っ、……つかまえた、」
それは、まぎれもなく彼女で。
ずっとずっと会いたかった女の子が、今、目の前に立っていた。

2026-09-11