前話:smell
リビングのソファーに深く体を預けると、どっと重い疲労が押し寄せてきた。
視界の端で、キッチンのカウンターから楽しそうに今日のこと、ケーキのこと、お祝いの準備のことを話してくれているのが見える。見えるけど、声はうっすらとしか聞こえない。俺の耳に届くのは、膜を何枚も通したような、くぐもった不確かな響きだけ。なんとなくわかってたけど、やっぱり遠いと聞こえにくい。
(……あの時の爆発、まともに聞きすぎたな)
目を閉じると、耳の奥で、キーンと高い音が絶えず鳴り続けているのがはっきりわかる。任務中にかなり間近で爆発音を聞いてしまった。おそらくその影響だ。近くの声は問題なく聞こえるけど、ちょっと遠くなると厳しい。とはいえ、こうなったのは別に初めてじゃない。割と慣れている。それでも、帰宅してもこれが続くのは経験がなかった。
「……悠仁くん、だいじょうぶ?」
不安そうに眉を下げた彼女が、いつの間にか俺の顔を覗き込んでいる。
「あー、…ごめん、……ちょっと今、耳がバカになっててさ」
「え…どうしたの?」
「ちょっとでっかい音聞いちゃって、キーンてなってるだけだから。一時的なやつ」
わざと明るく笑ってみせたけれど、彼女にはあまり効果がなかった。
「……さっきからずっとそうだったの?」
「普通の会話なら問題ないんだって。いまちょっと遠かっただけでさ」
まだ不安そうな顔をしている彼女の頭をそっと撫でて、隣に座らせた。そのまま彼女の膝の上に頭を乗せる。
「この距離だったら#name#ちゃんの声、ちゃんと聞こえるから。ごめんな」
彼女の太ももの柔らかさと、耳に届く衣擦れの音。目を閉じて、細い腰をぎゅっと抱きしめる。まあ別に、彼女の声以外聞こえなくなっても問題ないんじゃねえの、なんて考えてしまう。それ以外、別に必要ねえし。怒られそうなので言わなかった。
「#name#ちゃんといたらすぐ治る」
「……もう」
「んなあ、おれの名前呼んで」
「……悠仁くん」
「……うん、もっかい」
「……悠仁くん」
少し照れたように、吐息混じりに囁かれる俺の名前。その響きが、耳から背筋を通って、心臓の奥をぎゅっと掴むような感覚がする。俺が本当に聴きたかったのは、聴き続けていたいのはこれなんだ、と思う。
「名前呼んでくれるときの声がさ、」
「……うん?」
「かわいくてやさしくて、すげー好き」
「……ありがとう」
「会えない時はさ、できるだけ声を思い出すようにしてんの。人間って、声から忘れていくんよ、知ってた?」
首を振る彼女の、ふっくらした唇を親指でゆっくりとなぞる。
「だから毎日確かめてる。あー、ちゃんと今日も思い出せるな、って」
俺を見下ろす彼女の瞳は少しだけ揺れている。声、表情、匂いの順から、人間は誰かのことをそっと忘れていく。そういうふうに、できているらしい。俺は生きている限り、そのやさしい声も笑った顔も泣いた横顔も身に纏っている匂いも、何一つ忘れたくない。文字通り、何一つ。たとえいつか、彼女を送り出してひとりになることがあっても。だから繰り返し思い出して、その響きを反芻する。そうやって、大切な記憶がこぼれ落ちないように。
起き上がって、今度は彼女の胸元に耳を押し当てる。聞こえてくるのは、力強くてやさしいリズムの心音。冷え切った心の底を、内側からあたためてくれるような音。
「……#name#ちゃん、心臓の音、すげー速い」
「それは……悠仁くんが急に甘えてくるからだよ」
「そっか、…おれのせいか」
自分の存在が、彼女の鼓動に影響を与えている。そういう確かなものだけがほしい。自分の存在を、彼女の心拍数で確かめている。
少しだけ顔を上げて、彼女を見上げた。 耳鳴りはまだ消えない。でもこうして密着していれば、彼女の小さな吐息もちゃんと聞こえる。だから大丈夫だった。
今度は彼女の手が俺の胸元に伸び、そっと触れた。
「悠仁くんも、速いよ」
「……そりゃ好きな子と一緒にいたらドキドキするよ。いつもそうだよ、おれは」
「いつも?」
「……そうだよ、いつもだよ」
ふと笑う彼女の頬にキスした。もう、と怒ってみせるその声が、今日で一番、やさしく響いた。
「……もう、いつになったらごはん食べる気になるの」
「ごめんな、食べよ」
もっとそばで、ずっと近くで声を聞いていたい。キッチンにまでついて行ってべったり張り付いていたら、ついに怒られてしまった。