夜の終わりを告げる群青色が、ゆっくり白んだ琥珀色へと混ざり合う。刺すような、眩しい朝の光が辺りを照らす。次々と順番に、街は朝になっていく。
呪霊の気配を追い、街も山中も関係なく駆け回って、ようやく帳の外へ出られたのは午前5時を回った頃だった。帳の中は常に薄暗い。だからこうして突然やってきた朝に、身体が全く追いついていなかった。今回は彼女を怒らせるような大きな怪我はなくて(たぶん)、服の汚れも埃を被った程度で済んだ。それでも、神経を削るような特級案件の後で、身体は鉛のように重かった。
「……あー、やっと帰ってこれた」
最後の力でマンションにたどり着く。白い外壁すら、光を反射して眩しい。
そっと、玄関の鍵を開ける。部屋の中はしんと静まり返っていた。この部屋の新しい一日は、まだ始まっていない。なんだかほっとした。玄関からリビングへ一直線に続く廊下は朝日が細長く差し込み、白いラインを作り出している。寝室にいる彼女を起こさないよう、足音を忍ばせて中へ入る。キッチンで水でも飲もうと思った。
リビングの窓、カーテンは大きく開けられたままで、そこから十分すぎるほどの朝日が部屋中を明るく照らしている。思わず目を細めた。
「……ん?」
ソファーの端から、小さな白い足が見えている。彼女の、かわいい足。俺が帰るのを待っているうちに、きっと睡魔に勝てずに寝落ちしてしまったのだろう。時々ある。寝てていいと伝えていても、いつも限界まで待っててくれる。そういうところも好きだ。ここまではよかった。いつもの微笑ましい光景をそっと覗き込もうとしたとき、足元で何かを踏んだ。視線を落とす。それは彼女のパジャマだった。ん、なんで彼女が着ているはずのものを踏んだんだ。俺の心拍数が勝手に速く、激しくなる。
「…………は?」
覗き込んだ先、ソファーの上で、彼女は小さな身体を丸めて、眠り込んでいた。パジャマは着てない。だってそれは俺の足元に落ちているのだ。目の前にいる彼女は、つまり薄い下着一枚の、あまりにも無防備な姿だった。
薄い下着、一枚。
「…………夢?」
昨日の彼女の声を思い出す。悠仁くん、またパンツでうろちょろして、だめ。ちゃんと服着て。そう言って俺に向かってぷりぷりと怒っていた。 かわいかった。
その本人が、今、俺の目の前で、吸い込まれるような白い肌を朝焼けに晒している。
「……はあ」
一旦、手で顔を覆う。力なくしゃがみ込む。深呼吸、だ。 呪いと血の匂いしかしない場所にいた自分の五感が、彼女の気配を猛烈な勢いで感知し始める。鼻先をかすめる、彼女のシャンプーの甘い匂い。呼吸に合わせて上下する、柔らかい胸元の膨らみ。すらりと伸びる、吸い付くような太もものライン。それは陽を浴びて輪郭がうっすら光っているように見える。ぜんぶ俺の、大好きなやつ。天使かと思った。かわいい。
「……だめだ、これは良くない。絶対良くない」
疲労でぼんやりしていた脳が、一気に起き上がる。かわいさの供給過多。抑えたはずのアドレナリンがまた昇ってくる感覚がする。触りたい。かわいすぎる。寝てるだけなのに意味がわからないくらいかわいい。だめだ、このままだとまた彼女を(色んな意味で)泣かせてしまう。見るから悪い、見えるから悪い。
反射的に、ソファーの背もたれにかかっていた大きな厚手の毛布を両手で広げた。 そもそもこんな格好で寝てたら風邪を引く。そう、風邪引くから。その白い肌を一切合切隠すように、足先から肩口まで、何重にもぐるぐる巻きにした。
「………ん、……ゆ、……うじ、くん………?」
「お、……おはよ」
「なにこれ、……なあに」
「もう見てらんねーの。一回包まれてて」
「……なんで…、?」
すっぽり毛布に包まれ、彼女の肌は見えなくなった。毛布の塊になった彼女もかわいい。状況がつかめなくてふわふわしている。かわいい、こんな格好でもかわいい。恐ろしいかわいさ。思わずぎゅっと抱きしめる。
「ごめん、……ちょっと我慢して」
「……?うん」
「……おれが落ち着くまで、このままにさせて」
彼女の首筋に顔を埋めたまま、掠れた声で答える。任務中も、会いたくて仕方なかった。帰ったらどう触れようとか、何を話そうとか、いつもそんなことばかり考えている。今夜だってそうだった。
「……悠仁くん、怒ってる?ごめんね」
彼女が不安そうに見上げる。目が合う。かわいい。この子は、寝落ちしてしまったことを俺が怒っているのだと勘違いしてるんだろう。そういうやさしさがいとおしかった。
「怒ってねえよ。……ちょっと、しにそうなだけで」
「……しにそうなの? 大丈夫?」
彼女は毛布から這い出した小さな手で、俺の頬をそっと撫でてくれる。怪我がないか、痛いところがないか、その手で確かめてくれる。俺にとって、世界でいちばん大切な、その手。
「……………かわいい」
さらに強く抱きしめる。きっと毛布の圧で苦しいはずなのに、彼女は嬉しそうに笑う。
「……悠仁くん」
「ん?」
「だいすき」
耳元で囁かれる、甘い声。不意打ちで顔がカッと熱くなる。こんなふうに包んだって、隠そうとしたって意味がない、降参だ。なんでそんなにかわいいん。
「………布の上からでもかわいいのが漏れてんの、やめて」
どういうこと、と彼女がまた笑う。だから、そういうところだよ。胸がいっぱいで答えられなかった。布越しでも伝わる彼女のあたたかさ、生きている体温。一日の終わりと始まりが混じり合うこの時間に、彼女が目の前にいて、俺に向かって笑いかけている。今日も、奇跡だと思った。
「おかえり、お疲れさま」
「うん、……ただいま」
「待ってられなくてごめんね」
「寝てていいんよ、…待っててくれんのは嬉しいけど」
「寝ちゃわないように、ソファーにいようと思ったの」
「そのソファー見たらさ、服着ずに寝てる子がいるんだもん、すげーびっくりした」
彼女は照れたように毛布の中に顔を沈める。
「……どうしても眠くって、力尽きちゃった」
あーあ、かわいい。
「服着てって、いつもおれに言ってんのにさ」
「そうだよね」
「風邪引くから、#name#ちゃんもちゃんと着て」
「うん、……だから毛布こうしてくれたの?」
うん、まあ、そんな感じ。曖昧にごまかした。陽に照らされていた、あの白い肌たちを思い出す。見ちゃいけないから隠したのに、どうしても見たくなる。触りたくなる。#name#は天使みたいだけど、その身体は怖いくらいに俺を翻弄する。コントロールできない。やっぱり触りたい。かわいいし、好きだから。
毛布をゆっくりと剥がす。されるがままの彼女と、目が合う。
「……かわいい」
「悠仁くん、そればっかり言ってる」
伏し目がちに微笑む彼女の頬に、そっと一度だけキスした。
「……おれがいないときはさ、ちゃんと服着てほしいんだけど」
「うん?」
「………こっからは、ふたりとも何も着ないで過ごすってのも、ありだよな」
「……えっち」
「おれもそう思う」
否定せずに認めると、彼女は唇をかわいく尖らせた。かわいい。無防備なそこを指先でなぞって、そのままキスする。
「ごめんな、パジャマおれが足元で踏んじゃったんよ。埃ついてるかもしんねーから、着る前に洗わないとだろ?」
「……うん」
「だからさ、お風呂。一緒に入ろ」
「……でも」
「だめ?」
「……悠仁くんすぐ変なことするもん」
「しねーよ。……たぶん。……いや、一回くらいは、わからん」
曖昧にごまかしながら、彼女を腕の中に閉じ込めたまま立ち上がる。俺の首に腕を回してくれる。それはやさしい同意だ。
窓の外では、街が動き始める気配がする。明るくてあたたかいこの部屋で、彼女と新しい一日を始められる。
「昨日あったこととかさ、じっくり聞かせてよ」
そっと言うと、彼女はまた嬉しそうに笑った。それがどうしてもかわいくて、反射的にキスしてしまう。キスすると笑ってくれる。だからまたキスする。その繰り返し。
闇夜の中で削られすり減った心は、こうやって毎朝、彼女の体温によって作り替えられる。だから大丈夫。
朝はまだ始まったばかりだ。