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「…………い、虎杖くん…?」
「……っ、……つかまえた、」
掴んだ細い腕から伝わる感触。馬鹿みたいに焦がれていた体温。
驚いて振り向く彼女と視線がぶつかった瞬間、周りの雑音も、街頭ビジョンの光も、行き交う人々の存在も、全部が遠のいて、世界に二人だけになる。
ずっと追いかけていた、あまい匂い。見覚えのある、華奢な肩。
俺を見つめる瞳は驚いたように潤んでいて、今にも零れそうだ。長いまつ毛が、瞬きで何度か揺れた。その音すらも、聞こえそうな気がした。
「……ほ、ほんもの……?」
「……うん、本物。……ごめん、腕引っ張って。痛くなかった?」
「う、うん……」
お互いに、うまく言葉が出てこない。心臓がドキドキ鳴って胸が痛いくらいだ。本物の彼女はやっぱりどうしてもかわいくて、目を逸らせない。俺の存在を確かめるみたいに、彼女は何度も瞬きをする。そうやってただ見つめ合っているだけの時間が、永遠に思えるくらいだった。
一歩も動けないでいるうちに、信号はまたあっという間に青へと変わる。それを合図に、一斉に人波が動き出した。その勢いに、小さな彼女は押し流されてしまいそうになる。咄嗟にその身体を引き寄せて、胸元へと庇うように抱き込んだ。
すっぽりと腕の中に収まる、小さな身体。
「……こっち」
手首を掴んでいた指を滑らせ、するりと手のひらを握り直した。指を強く絡め合わせると、冷たくなった彼女の薄い手が、そっと握り返してくれた。
人波を強引に掻き分けて、人通りのない場所を目指して小走りで進んだ。無我夢中で、目に留まった路地裏のビルの隙間へ飛び込む。突然目の前に現れてくれた彼女を、どうしても手放したくなかった。
「ごめん、……大丈夫?」
表通りの喧騒が、少しだけ遠くなる。壁際に彼女の身体をすべり込ませて、繋いだ手は離さないまま、その視界を塞ぐようにして目の前に立ち止まる。
「……ほんと、急にごめん」
一度目を閉じて、荒くなった息を吐き出す。心臓は鳴り止まない。
「……虎杖くん」
名前を呼ばれて、目を開けた。こちらを見上げる彼女の瞳は、大きく揺れている。もう少しで、溢れそうなくらいに。
「これ、夢じゃない……?」
泣き出しそうな、消え入りそうなか細い声。切なくていとおしくて、胸の奥が焼き切れるみたいに痛かった。
「夢じゃない。ちゃんとここにいるよ」
「……うん、……よかった、虎杖くん、無事で、…」
その瞬間、限界まで溜められていた涙はぽろぽろと溢れ落ちて、その白い頬を濡らした。彼女はそれをカーディガンの袖口で拭おうとするけれど、拭っても拭っても新しい涙は溢れて止まらない。真っ赤になっていく目元と鼻先、必死に堪えようと結ばれた唇。思わず手を伸ばしそうになる。
「ごめん、俺、」
「……ほんとに、よかった……っ」
「……っ、なぁ、泣かんで、」
掠れた声でそう答えた時には、もう耐えきれなくなっていた。強引にその肩を引き寄せて、そのまま強い力で腕の中に閉じ込めた。俺の胸に顔を押し当てると、彼女の息が詰まるような音が漏れる。溢れ出した涙たちが、じんわりとパーカーをあたたかく濡らしていく。
「……っ、いたどり、くん、…っ」
「うん、……ごめん」
「わたし勝手に、ひどい怪我してるんじゃないかとか、……もしかしたらって、もっと怖いことも、考えちゃって、…っ」
「ん、……俺は大丈夫だから。ほんとに、大丈夫だから…」
しゃくりあげる声を受け止めながら、ただじっと、その温もりを抱きしめた。背中に手を回し、呼吸に合わせてとんとんとさする。それでも彼女はなかなか泣き止まなかった。手のひらを滑らせて、彼女の後頭部を胸元へ引き寄せる。指先の間から零れる髪のやわらかさと、首筋に触れる彼女の熱い吐息。
「ごめんな……泣かせて、ごめん」
「わ、わたし、……嫌われちゃったかと、思って」
「違う、嫌ってなんかない」
親指の腹で、その赤い目元をそっと拭った。何度も何度も、丁寧に。そのたびに長いまつ毛が小さく揺れた。とにかく涙を止めたかった。
「ごめん、…違うんよ、ちゃんと説明させて」
「……うん、?」
「あの水族館の日さ、……任務でさ、スマホ壊しちゃって。連絡先も全部消えちゃってさ、……で、どうしようもなくなって」
ひとつひとつ、時系列に沿って説明した。ショックでしばらく新しい機種も買いに行けなかったこと、壊れてしまったそれはもうデータ復旧は絶望的だと言われてしまったこと。
「どうにもならなくて……ごめん。きっと傷つけてるってわかってたけど、……本当にごめん」
「ううん、……そんなの仕方ないよ、謝らなくていいよ」
「でも、ごめん。……いや、違うな、……そうじゃなくて、会いたかった」
「……うん」
「ずっと会いたかった。だから今、すげー嬉しい」
見上げる彼女の目は、いつだって綺麗だ。透き通っていて、溢れ出した涙が乱反射して、痛いくらいにきらきらと光っている。その目に見つめられると、心の奥底に隠していた気持ちも、ぜんぶ渡したくなってしまう。どうしてだろう。
「俺、ずっと迷ってた」
「……うん?」
「スマホが壊れたのは本当だけど……でも、そもそも怖かったんだ」
ぎこちない俺の言葉を、彼女は静かに聞いている。
「俺はさ、普通とは違うから。いつどこで死ぬかわかんねぇし、近くにいるだけで#surname#さんのこと、危ない目に遭わせるかもしれない」
「……虎杖くん、」
「……けどさ、一緒に水族館に行った時、すげー楽しかった。こんなにしあわせな時間があるんだってくらい。しあわせすぎて、怖くなったんだ」
握りしめた指先に、ぎゅっと力を込める。
「……俺は、……好きなんだ、#surname#さんのこと」
言った瞬間に、周りの街の雑音も、肌を撫でる冷たい秋風の音も、また全部消え去っていった。一秒が、永遠みたいに長く感じた。
彼女の瞳の縁から、溜めきれなくなった大きな涙の粒が、ぽろりと一滴こぼれ落ちる。それが引き金になって、まるで世界の時間が再び動き出したみたいに、しばらく止まっていたはずの涙が途端に堰を切ったように溢れ出して、彼女の頬を濡らしていく。
「好きだって思ったら、……もっと怖くなった」
「……どうして?」
「こんな俺が、隣にいていいわけないだろって。俺には隣にいる資格なんてねぇから。俺は呪術師だから。……俺と一緒にいたら、不幸になるかもしれない。だから、このまま連絡が取れなくてもいいって、自分に言い訳して逃げてた」
言葉を紡ぐ、その自分の喉の奥がぐっと熱くなっていく。溢れ出しそうになる感情を押し殺したくて、必死に奥歯を噛み締めたけれど、視界がじんわりと滲んでいくのを止められなかった。
「ごめん。俺の勝手な都合押し付けて、傷つけて。……でも結局、こうやって会えて、めちゃくちゃ嬉しいって思ってる。本当に、最低でごめん」
自嘲気味に苦笑いを浮かべる。ゆっくりと手を解こうとした。それを、彼女の手は許してくれなかった。
「……虎杖くんは、……わたしのこと、しあわせにできないって思ってるの?」
震える声。思考が追いつかない俺の胸元に、彼女の小さな拳がぽんと当たった。痛くもなんともない、ぽかぽかとやわらかくて不器用な衝撃。
「勝手にそんなこと言わないで」
まっすぐ俺を射抜く視線。彼女は怒っているように見えた。
「……わたしがしあわせになれるかどうかは、わたしが決めるんだよ」
ビルの隙間に大きく風が吹く。彼女のやわらかい髪がふんわりと舞い上がって、またあまい香りが漂ってくる。
「わたしは……虎杖くんに会えない一ヶ月間、ずっと寂しかった。全然しあわせじゃなかった」
小さな拳は、何度も俺の胸を叩き続ける。閉ざされた扉を叩くみたいに。
「……だからね、虎杖くんと一緒にいたいよ」
泣き腫らした目も鼻も赤いまま、でもふっと、彼女はやさしく笑った。俺に向かって、微笑んだ。
「虎杖くんと、しあわせになりたい」
胸の奥が、どくんと大きく跳ねる。鼻の奥がツンとする。
「……わたしも、虎杖くんが好き」
もうだめだった。目元が熱くなって、視界がどんどん滲んだ。目の前にある彼女の笑顔が、涙の膜の向こうで揺れて、歪んで、よく見えなくなる。
「だから、一緒にいてくれる?」
「……っ、……うん、」
彼女の指が、溢れて止まらない俺のそれをゆっくりと拭ってくれた。泣きたくなんてないのに、どうしても止まらない。視界を遮る涙の粒の背景で、見上げたビルの隙間の空が、いつの間にか群青色に染まっているのが見えた。夕闇が落ちた路地裏に、ふたりの体温だけが確かに響いている。
「……だめだ、ごめん。……止まんねぇ」
「ううん、いいの。嬉しいよ」
その小さな手のひらの温もりがいとしくて、思わず顔を寄せ、擦り寄るように目を閉じる。こんな風に泣いたのはいつだろう。もう思い出せない。
ずっと欲しかった言葉、ずっと埋めて欲しかった気持ち。そういうものを、彼女はやさしく差し出してくれる。自分でさえ扱い方がわからない、心の奥に棲む寂しさを、彼女はあたためてくれる。
もたれかかるように、ゆっくり身体を密着させた。耳元から伝わる、彼女の規則正しい呼吸の音。
「……#surname#さん」
名前を呼ぶと、濡れた瞳はまっすぐに俺を見つめ返してくれる。お互いの息が触れ合うくらいの距離。どうしても好きだと思った。もう二度と、離したくない。
「……していい?」
小さく呟くと、彼女はそっと頷いてくれた。吸い寄せられるように顔を近づける。体温を帯びた、濡れた唇。か細く吐き出される吐息はやさしくて、あまい。
「……ん、」
触れるだけの、全てが溶けていくような、やわらかいキス。それでも、自分の中のスイッチが押されるには十分だった。止まらなくなりそうで、一度そっと唇を離す。彼女の長いまつ毛が小さく揺れて、照れたように見上げてくれた。それがとにかくかわいくて、どうしようもなくて。
「……っ、」
すぐに耐えきれなくなって、今度は彼女の後頭部に手を添えて、もう一度唇を重ねた。
さっきよりも少しだけ深く、確かめるように。
こぼれる小さな吐息を拾い上げながら、何度も何度も角度を変えて唇をはんだ。指先を絡め合わせると、彼女もぎゅっと握り返してくれる。いとしかった。このまま全部、自分のものにしてしまいたいくらいに。好きでたまらない。
ゆっくりと唇を離す。お互いの熱い息が、空中で混ざり合う気がした。
彼女の額に、自分の額をこつんと重ねる。何度か深呼吸して、鼓動を落ち着けた。
「……ごめん、急に」
「ううん、……嬉しかった」
「あのさ、」
「うん?」
「まだ、離れたくない。もっと一緒にいたい」
「……うん」
「……俺の家、来る……?」
掠れた声でそれだけ囁いた。彼女は少しだけ目を見開いて、それから頬を赤くして、小さく頷いてくれた。

2026-09-15