それは不可逆なのだと気がついたときには、もう遅かった。自分の気持ちの正体に気がついてしまったら、それより前の自分には戻れない。スイッチが切り替わったように、ドミノが倒されたように、世界が変わってしまった。
改札の前で彼女を見送ったあと、どうやって自宅まで戻ってきたのか、正直記憶が曖昧だ。電車の乗り換えも、駅からの夜道も、どうやら寄ったらしいコンビニも、ほとんど覚えていない。その代わり、どんなに振り払おうとしても、あのとき見た彼女の笑顔、手を振る姿、雨に濡れる首筋、透き通る白い肌。そういうものたちが思い出されて止められない。
んで、気がついたらベッドに倒れ込んでいた。軽く眠ってしまっていたようだ。気怠く目を開け、天井に向かって大きく息を吸って、吐く。何度かそれを繰り返しても、一度上がってしまった体温は戻らない。
「………とりあえず、頭冷やさねぇと」
そう自分に言い聞かせて身体を起こし、着替えを引っ掴んで浴室へ向かった。迷いなく蛇口を捻る。頭上から降り注ぐシャワーの冷水に身を委ねて、そっと目を閉じた。
頭からかぶった水が視界を遮り、耳元で激しい水音だけが打ち鳴らされる。遮断された世界の中で、彼女の手首の余熱だけが、確かな感触として肌に残っているような気がしてくる。彼女についての記憶は流されることなく、むしろこの冷たい水の中で際立ってしまう。
「あー………、だめだ」
水滴が顔を伝うのも構わず、濡れた前髪をぐしゃりと掻き揚げた。浮き出た鎖骨の窪みに水が溜まり、呼吸に合わせて上下するたびに溢れて流れていく。
あんなに近くにいたのに。触れたら壊れてしまいそうで、手を差し出すことすら躊躇ったあの距離感。もう会いたくて、声が聞きたかった。額を濡らす前髪からぽたぽたと滴り落ちる水滴が、足元で弾けて泡を作っては消えていく。
濡れた髪をタオルで雑に拭きながら部屋に戻る。もう少し眠って、焼き付いた記憶を忘れようと思った。ベッドの上に放り投げていたスマートフォンを手に取り、何気なく液晶画面をタップする。
ぽつん、と届いていた新しいメッセージ通知。
そこには、彼女の名前。
無理やり冷やした体温が、再度勢いよく上昇した。
『今日はお話しできてとっても楽しかったです。もしご迷惑じゃなければ、いま少しだけお電話しても大丈夫ですか?』
「っっぶ? ! 」
喉の奥で変な声が出た。静めたはずの血液が一気に逆流して、心臓が跳ね上がる。
「……で、でんわ、でんわってなんだっけ」
電話って、あれか。直接話すやつか。
髪から滴る雫が肩を濡らすのも構わず、部屋の中をウロウロと行き交う。慌てて机のペットボトルの水を煽り、深呼吸を3回した。
『全然大丈夫。いつでもかけて』
震える指先でなんとか返信を打ち込んだ。しばらくすると既読がつく。着信が来るのを、息を止めて待った。
スマートフォンが震える。着信画面に切り替わり、彼女の名前が表示される。
心臓が口から飛び出そうになるのを必死に抑え込み、覚悟を決めて通話ボタンをスライドさせた。
「……っ、もしもし」
『あ……虎杖くん』
耳元からダイレクトに脳へ響く、彼女のやわらかくて、少し緊張した声。
それだけで、耳の裏が一気に火がついたみたいに熱くなった。
「えっと、……どうした?」
『……あ、あの、大したことじゃないんだけど……最後、直接言えなくてごめんなさいって謝りたくて。駅でのこと…』
「あ、……いや、そんなの気にせんで。っていうか、……嬉しかったから」
なんとかそう答えると、電話の向こうの彼女の緊張感が、少し緩んだ気がした。だから、今度は俺の番だと思った。
「あのさ、……また会いたいって、言ってくれたじゃん」
『……うん』
「それは……具体的に決めてもいいやつ?」
『うん、いいやつ、です』
かわいい返事、すぎる。たまらなくなって、空いた手でくしゃくしゃと髪を掻き回した。落ち着きたくて、ベッドの端に腰を下ろす。耳の裏だけじゃなく、顔全体が爆発しそうなくらい熱い。
「……よかった。……なんかさ、行きたいところあるって言ってなかったっけ?」
『え……?』
「カフェで話してるとき。どっか行ってみたい場所があるみたいなこと、言ってた気がして」
思い切ってそう言うと、向こうで彼女が一瞬固まった。
それから、少し迷うように、でも意を決したような控えめな声が聞こえた。
『……あの、もし虎杖くんが嫌じゃなかったら、なんですけど』
「うん」
『……水族館に、行ってみたくて』
「水族館、うん、いいね」
ゆらゆらと揺れる青い光の中、水槽を見上げる彼女の横顔が脳裏に浮かぶ。彼女から出た具体的な施設の名前を、急いで検索する。画面に表示される公式ページのギャラリー。青い光に包まれる幻想的な大水槽、頭上を泳ぐ巨大な魚たちの影、天井に広がるクラゲ水槽の揺らめくグラデーション。画面をスクロールすればするほど、思わず頬が緩む。
「すげえ綺麗。行ってみたい」
「……ほんと?よかった」
正直一緒にいられるなら、どこだっていい。でも彼女が行きたいところが、一番いい。
「虎杖くんは、いつお休みですか?」
「……えっと、どうだったっけ。ちょっと待って」
カレンダーアプリを開いて、困ってしまった。画面に並ぶ月間の日付マス。そのどれもが、不自然なほど真っ白だった。任務が入れば全国どこへでも飛ぶし、呼ばれなければ高専でトレーニングをしているか、自宅で映画を見ているだけ。スケジュールはいつも「上から通知が来たら動く」の行き当たりばったりで、自分で予定を管理するなんて習慣自体が頭になかったのだ。次の休みが、いまいちわからない。
「あー……えっと、ごめん、俺、仕事の予定がちょっと特殊でさ……基本、直前まで分かんないことが多いんだけど……」
「……そうなんですね」
「でも絶対、合わせるから。次、いつ休み?」
そうして彼女の予定に合わせて、休日を確保することにした。
◇
そもそもこれは、なんて呼ぶべきなんだろう。
思いついたとある単語を検索してみる。
“デートとは、交際中や恋愛的な関係を期待する男女などが、事前に日時や場所を決めて2人で会い、一緒に過ごすことです。”
……恥ずかしくて一瞬で閉じた。
その日は休日ということもあって、周りを見渡せば家族連れや、カップルばかりだった。このキラキラした空間から自分が完全に浮いている気がして、なんだかそわそわする。
ポケットの中にあるスマートフォンの存在が、やけに重く感じられる。頼むから、今日だけは鳴らないでほしい。そう願いを込めて一度だけ布の上からさすった。根回ししまくってもぎ取った休日を、なんとか無事に終わらせたかった。
そもそも、彼女は本当に来るのだろうか。本当に、俺に会いに来てくれるのだろうか。疑ってばかりいる。画面をタップして時刻を確認した。約束の時間の10分前。家を出たこととか、電車に乗ったこととか、ちゃんとそういう連絡をくれているのに、いまだにこの状況が信じられていない。心臓の音が、耳の奥まで響いてくるようだった。
スマートフォンが震える。駅に着いたと連絡が来ていた。ゆっくりおいで、と返事をする。
彼女が現れるであろう人混みを眺めていると、数分後にその姿が見えた。本当に来てくれた。すごくかわいい。目が合うと、彼女はぱっと表情を明るくさせて、遠慮がちに小さく手を振った。こちらも振り返す。すると彼女は小走りになった。転ばないか不安になる。走らんでいいのに。ゆっくりでいいよ、と声を張ってみたけれど、聞こえたかどうかはわからない。彼女はそのまま息を切らし駆け寄ってきた。
「ごめんなさい、お待たせしちゃって」
「いや、……大丈夫。走らせちゃってごめん」
目の前に現れた、上気したピンクの頬、揺れる髪、上目遣いでこちらを見つめる瞳。
本当の本当に、めちゃくちゃのめちゃくちゃに、かわいい。
口から心臓が飛び出しそうなのを必死で抑え込んで、努めて平然を装った。
「迷わず来れた?」
「うん、…忙しいのに、ありがとうございます。お仕事、大丈夫ですか?」
「ん、大丈夫。呼び出されなければ、だけど」
もう一度、ポケットで待機しているそれをそっと撫でた。
「……そんなによく、呼び出されちゃうの?」
「んー、……どうかな」
「……じゃあ虎杖くんが呼び出されないように、お祈り」
そう言って彼女は手を合わせ、一瞬だけ目を閉じた。かわいすぎてくらくらする。
伏せられた長いまつ毛、真剣な横顔。合わされた華奢な両手は、俺の手のひらで簡単に包み込めてしまいそうだった。
一瞬なのに、永遠にも感じられそうで、思わず息が詰まる。
「……サンキュ。#surname#さんが祈ってくれたら大丈夫だわ」
そう答えると、彼女は嬉しそうに笑った。直視できなくて、思わず目を逸らす。
「チケット買いに行こ。意外と混んでそうだから」
そうして無事に2人分のチケットを買い、並んで入場ゲートをくぐった。
彼女の歩幅に合わせて、ゆっくりと歩く。
一歩建物に足を踏み入れた瞬間、外の明るい日差しが遠のき、一気に視界が暗くなる。まるで海の底にやってきたように、ゆらゆらと揺れる深くて青い光に、彼女と一緒に沈んでいく。
「……水族館、好きなんだっけ」
さりげなく聞くと、彼女は小さく頷いた。
「好き。でも、……水族館って、ひとりだと寂しくなっちゃうから」
「………それって、」
その真意を聞こうとした途端、質問は人混みに阻止されてしまった。展示エリアへと続く通路はかなり混雑している。
天窓みたいな水槽から、青い波がきらきらと床に降り注いでいた。
「すごい、綺麗だね」
見上げながら、彼女はゆったりと歩いて行く。こけたりしないか不安になって、なるべく後ろをぴったりと着いてまわった。見守りながら、さっきの言葉を思い出す。
あれは、俺と一緒なら寂しくないって、そういう意味だったんだろうか。それとも、誰かと一緒ならそれは俺である必要はないんだろうか。考えるほど、心臓がドキドキと鳴る。
「虎杖くん」
彼女がくるりとこちらを振り返って笑った。心臓が鳴る。その姿はスローモーションのように再生される。
そのとき、横を通り過ぎようとしたグループが彼女の肩に軽くぶつかり、小さな身体が大きく体勢を崩しかけた。
「わ、……っ ! 」
咄嗟に腕を伸ばし、彼女の華奢な腰を引き寄せるようにして自分の胸元へ抱き留める。
「……っと、あぶねぇ。大丈夫?」
「っ、うん……ごめんなさい」
腕の中にすっぽりと収まった小さな肩。記憶に新しい、あまい香り。薄い服越しに伝わってくるやわらかな体温。胸元でこちらを見上げる彼女の視線に耐えきれず、慌てて身体を離す。人波は相変わらず途切れることがなく、とっさに離れた俺たちの隙間からも人が通ろうとする。彼女の瞳が不安そうに揺れる。
反射的に、彼女の手を取った。離れたくなかった。離したくなかった。
「……人すごくて危ねぇから」
指先を滑らせて、その手をぎゅっと握りしめた。抵抗はされなかった。ほら、こっち。彼女が息をのんで驚いたような気がしたけれど、振り返れなかった。彼女を導くようにして、とにかく人波を掻き分けて進んだ。自分の歩幅が大きすぎないか、引っ張りすぎて痛くさせていないか、後ろの気配に全神経を集中させながら。
そうして、淡い光が満ちる大水槽の展示エリアへと足を踏み入れた。
視界いっぱいに広がる、まるで海そのものを小さく閉じ込めたような景色。思わず足を止めた。
「……わ、すごい。本当に、海みたい」
彼女の言う通りだった。
眩しいほどの青い光が、広い空間全体を幻想的に照らしている。頭上を悠々と泳いで行く巨大なエイの影、横切っていく魚たち。まるで深い海の底に二人だけで落ちてきたみたいな錯覚に陥る。
彼女は引き寄せられるように、水槽へと一歩踏み出し、繋いでいない方の手で、そっとガラスに触れた。きらきらと波打つ光が彼女の横顔をやわらかく照らし出す。透き通るような白い肌、少し開いた唇が鮮明に浮かび上がる。それが本当に綺麗だった。ずっと見ていたいと、切実に思った。握りしめた手に、思わず少し力が入る。
「……あのさ」
「うん?」
水槽を見上げていた彼女が、不思議そうにこちらを振り向く。上から覗き込むようにして視線を合わせると、吐息が触れ合いそうなほどの距離で視線が合う。
「……手、このままでいい?」
そう聞くと、彼女の頬が、青い光の中でもはっきりと分かるくらいに赤く染まった。
「……うん。このままで、大丈夫」
その視線は恥ずかしそうに泳いだけれど、彼女の小さな指先は、ぎゅっとこちらを握り返してくれた。だから、もっと深く触れたくなった。握りしめていた力を少しだけ緩め、その華奢な指の隙間に滑り込ませる。指と指がぴったりと隙間なく噛み合って、お互いの手のひらが何一つ隔てるものなく密着する。指先から伝わってくる熱量が、さっきまでの比じゃないくらいに跳ね上がる。
「こっちのほうがさ、……離れずにすむから」
「……っ、うん」
彼女が小さく息をのむ気配がした。 爪の先まで熱を帯びていく感覚に、自分の指先が震えてしまいそうだ。
「痛くねぇ?」
「……うん、大丈夫」
「全部綺麗だよな。……俺、水族館なんて久しぶりだわ。爺ちゃんと来た以来で」
「虎杖くんは、お爺ちゃんとよくお出かけしたの?」
「そう、…俺さ、ずっと爺ちゃんと住んでたんよ」
そのまま指を固く絡め合ったまま、展示の奥へと足を進める。次に入ったクラゲのエリアは通路が狭く、水槽の前に人がぎっしりと密集していた。
「わ……」
小さな丸い水槽の前で、彼女が懸命に背伸びをした。でも、後ろから次々とやってくる人波に押されて、視界が遮られてしまう。
「ちょっとごめん」
彼女の後ろへと回り込んだ。繋いだ手はそのままにして、そのままそっと背中を押して水槽の前まで運んだ。そして、空いている左手を彼女の頭上の壁へと滑らせる。
背後から覆いかぶさるような体勢になって、後ろから押し寄せてくる人波を背中と肩幅で遮断した。
「あ……」
上から覗き込む形になって、俺の身体の影に彼女がすっぽりと包み込まれる。壁と俺の身体の間に作られた、彼女だけの狭い空間。
「……こうしたら、ちゃんと見える?」
周囲の喧騒に消されないよう、耳元に近づいて低く囁いた。その細くて綺麗なうなじはほんのり赤い、ような気がする。
「……う、うん…」
水槽のそこから湧き上がる気泡が光を反射して、まるで繊細な水滴のレースみたいに、彼女の側面を照らし出す。
彼女を守るためだけに置いていたはずの視線が、吸い寄せられるようにその横顔へと落ちていく。
夢中になって水槽を見上げる瞳は、丸いガラス玉みたいに光を綺麗に反射して輝いている。長いまつ毛は影を落とし、彼女が瞬きをするたびにゆっくりと揺れる。その全てがいま、手の届く至近距離にある。
我慢できなくなって、繋いだ指にぎゅっと力を込めた。
「……#surname#さん」
名前を呼ぶ声が、自分でも驚くほど低く震えた。
「……うん?」
背中の温もりがふっと離れ、彼女がゆっくりとこちらを振り向く。
くるりと向き直った彼女の身体が、今度は正面から俺の胸元にすっぽりと収まる形になった。かわいい。
「……あのさ、」
息が止まりそうだ。触れ合いそうなほど近くにある、彼女の顔。
こちらを見上げる瞳には、青い光に包まれた自分の姿が映っている。逃げ場なんてどこにもない。
「……虎杖、くん……?」
戸惑うように俺の名前を呼ぶ、小さく震える唇。言葉が出てこない。言いたいことはたくさんあるのに、喉の奥が熱く焼けてしまって、ただじっと、彼女の瞳を見つめ返すことしかできない。見つめ合う視線が絡み合って、解けない。
キスしたい、もっと触れたい。
周囲の喧騒も、人の話し声も、すべてが遠くの出来事のように消え去っていく。
キスしたい。
濡れたその唇に、思わず吸い寄せられそうになる。
「……なあ、」
その時だった。
ポケットの中で、スマートフォンが激しい振動で暴れ出した。無機質なバイブ音に、ハッと正気に戻る。重なり合いそうだった唇の距離がふっと離れ、彼女が驚いたように小さく身を引いた。
今日だけはって、あんなに祈っていたのに。
スマートフォンを引っ張り出した。液晶画面に浮かび上がる電話番号。高専からだった。本当にタイムリミット、だ。
スイッチが、嫌でも無意識に切り替わる。
「……ごめん」
ゆっくりと、絡めていた指を解いた。指先が離れる瞬間の感覚が、胸を引き裂かれるみたいに痛い。
通話ボタンをスライドさせ、耳元に当てる。
「……はい。……うん、うん。あー……いや、近いよ。大丈夫、すぐ行く。状況はあとで教えて」
短くそれだけ答えて電話を切ると、スマートフォンをポケットに押し込んだ。ため息が漏れそうになるのを、ぐっと抑える。
「……仕事?」
「……うん、ごめん。ほんとに、…ごめん」
彼女は下を向いて、ゆっくりと首を振った。
「ううん、謝らないで。仕方ないよ……急いで行かなきゃ、だよね?」
俺を気遣って、無理に笑ってくれているというのがよくわかった。ひとりは寂しいと打ち明けてくれたのに、俺は結局、彼女をここに置いていってしまう。
こちらを見つめる彼女の瞳は、また不安そうに揺れている。この視線がいとしくて、そして苦手なんだと気がついた。
思わず彼女の髪に軽く触れそうになる。でもできなかった。その手を握り拳にして引っ込めた。これ以上触れたら、本当に走れなくなってしまう。
「気をつけてね、怪我…しないでね」
「……うん、このあいだ約束したじゃん」
そう答えると、また彼女は寂しそうに笑った。
ひとつ深呼吸して、彼女に背を向けた。人混みに逆らって走り出す。もう振り返れない。
自分の意識も身体も嫌になるほど、”呪術師”に切り替わっていく。
任務に向かう道中、謝罪の連絡を入れてみたけれど、それはいつまで経っても既読がつかなかった。