きみの手

反転術式を覚えてから、身体の傷が増えた気がする。
「自分で治せる」と理解した途端に、自分の身体や怪我の状態に興味が持てなくなった。もともと痛みに強い自覚はあるから、大抵のことは我慢できる。治す術がわかれば誰かに頼る必要もない。「いつか治せばいい」で自分を誤魔化すことが多くなった。自分には他にやるべきことがあると、いつも急かされていた。
そうして気がつけば自分の手は、小さな切り傷や擦り傷、関節の赤みがかったひびで傷だらけになっている。

任務帰り、手袋を外して気がついた。指の関節に、新しい細い切り傷が複数ある。親指の付け根には、うっすら内出血。たぶん呪霊の爪がかすったか、殴ったついでにどこかにぶつけたか。
……まあ、治るし。
今夜は二週間ぶりの帰宅だった。自宅で待ってくれている彼女を思うと、胸の底があたたかくなる。時刻はとっくに0時を回っていた。とにかく早く会いたかった。
あたりはしんと静かで、自分が白い息を吐く音だけが聞こえる。ようやくマンションが見えてくると、自分の心が少しずつほぐれていくのがわかる。一緒に暮らすその部屋から、カーテン越しにうっすらとリビングの明かりが漏れているのが見えた。
「……まだ起きてんのか」
寝ててもいいと伝えていたけど、彼女は久しぶりに会えるから起きて待っていると言って聞かなかった。いつも待たせている。だからいつか、彼女のいない、がらんとした部屋に帰ることになるかもしれない。頭の片隅で、いつも考えている。
「ただいま」
玄関ドアを開けても、彼女は顔を見せなかった。たぶん、寝てるな。リビングが明るいままなのを確認して、洗面台に立つ。鏡に映る疲れた顔の自分をスルーして、蛇口を捻る。
「……っ、いてえ」
冷たい水が傷口に沁みて、思わず声が出た。排水口へ流れていくそれは、ほんの少し血が滲んでいる。チリチリと痛む指先を、何度も擦って丁寧に洗う。呪霊や瓦礫を触ってきた手を、なんとか彼女に触れてもいい手にしたかった。彼女のやわらかい、白くて滑らかな肌を思い出す。自分の汚れてカサついた肌とは真逆の、天使みたいなその身体。
「……さすがにこの汚ねえ格好じゃな」
先にシャワーも浴びるか、と思った瞬間、背中にやわらかい体温を感じた。
「悠仁くん、おかえり」
ぎゅ、と強い力で後ろから抱きしめられる。
「……ただいま、起こしちった?」
「ごめんね、寝ちゃってた」
「いいんよ、遅くなってごめんな」
振り向いて抱きしめたかったのに、彼女は背中に抱きついたまま離れない。かわいい。鏡越しに目が合った。
「……全然帰って来れんくてごめん」
「うん、…だいじょうぶ」
「明日は休みだから」
「……ほんとう?」
腕の力が強くなる。寂しい思いをさせていた。でも彼女は俺を責めない。
「うん、ほんと。ずっと一緒にいる」
「……うん」
「おれからぎゅーしていい?」
ようやく振り向いて、正面から抱きしめた。二週間も会えなくて、ずっと呪霊とばかり付き合ってカサついた俺の心に、あたたかさとか安心とか、そういう明るいものが流れ込んでくる。本来俺が生きている場所はこちら側だったんだと、ちゃんと思い出せる。
「……会いたかった、めちゃくちゃ」
「うん、」
「ちゃんと顔見して」
俺を見上げる彼女の瞳。会えない間ずっと、世界との繋がりを思い出したいとき、この瞳を思い浮かべていた。好きだと、何度も思う。ゆっくり、その頬に触れる。
「……痛くねえ?大丈夫?」
「大丈夫だよ」
彼女の真っ白な頬と、自分の傷だらけの指は対照的だ。ささくれやかさぶたで傷つけたりしないか、どうしても気になってしまう。そもそも俺が、彼女に触れていいのかどうかすらも、わからなくなる。自信がなくなる。その一瞬の戸惑いが伝わったのか、彼女の手が俺の指先を絡め取って、やさしく撫でた。傷のひとつひとつを、確かめるみたいに。
「……悠仁くん、また治してない」
「いや、……ごめん」
彼女の目は真剣だ。俺、静かにめちゃくちゃ怒られてる。わざと明るく振る舞うのは、今回は逆効果だったみたいだ。
「大したことねえからさ、こんくらいの傷」
「そうじゃなくて、あのね」
するりと俺の手を取って、彼女は自分の頬にそっと押し当てた。やわらかくて、少しひんやりしている。心臓が鳴り始める。
「悠仁くんの手、わたしにとっていちばん大切だから」
「……うん」
「だから、悠仁くん自身が大切にしてないの、悲しくなる」
その言葉に、喉の奥が詰まる。自分の身体なんてどうでもいいと思っていることも、誰かに頼ることを疎かにしていることも、全部この子にバレている。
「悠仁くんは…いつもわたしのこと大切にしてくれてるでしょ」
「そりゃ、…好きだし、世界一大切だから」
「悠仁くんが自分のことを大切にすることは、わたしのことも大切にするってことだよ。わたしも、悠仁くんが好きだから」
「……ごめん」
彼女は頬を膨らませて、まだ怒ったふりをしている。かわいい。触りたすぎる。
「今度ちゃんと治してなかったら、もう触らせてあげない」
「え、それは困る、やだ」
「……じゃあちゃんと治して、ね」
彼女に促され、いつもより丁寧に反転術式を使った。指先や手の甲、傷をひとつずつ見つめながら。
この手で、彼女の手を握りたい。
この手で、彼女の背中を撫でたい。
この指で、彼女の髪を梳きたい。
この指で、彼女の涙を拭いたい。
そう思いながら、丁寧に治していく。彼女はそれをやさしく見つめていた。
「悠仁くんの手、大好き」
「……ありがと」
俺が自分の怪我を治すだけで、彼女はこんなに笑ってくれる。安心した顔で、寄り添ってくれる。
そうか、俺の身体は俺だけのものじゃないのかも、しれない。誰かの役に立つ、役目を果たすための身体じゃない、ただ、彼女と生きていくための、俺の身体。
「……なんか、」
「うん?」
「……疲れたかも、おれ」
「うん、…ゆっくり休もうね」
何かのスイッチが切れたみたいに、堰き止めていた何かが壊れたみたいに、治した途端に疲れがどっと押し寄せる。多分今まで、「治さない」ことで休みたがる自分を許していなかっただけだったのだ。
「……触っていい?」
「…うん」
治したばかりの手で、もう一度そっと彼女の頬に触れる。やわらかくて、触れるたびにどんどん熱くなっていくそこ。かわいい。
「会えない時さ、思い出してることがあって」
「うん?」
「こうやって触った時の感触とか、◯◯の目とか、そういうの。ちゃんと生きて帰ろうって、思えるから」
次は耳。くすぐったそうに笑うのが好きだ。
「赤くなってる」
耳の外側をゆっくりなぞる。
「……◯◯は耳、弱いもんな」
静かに唇を寄せて、そっと咥えた。軽く噛むと、少しだけ震える彼女。自分の心臓の音が、耳元で鳴っているような気になってくる。
次は目尻。長いまつ毛に付いたひと粒を、ゆっくり払う。そしてその輪郭をもう一度撫でて、次は首筋。次は鎖骨。ひとつひとつ確かめる。
「……かわいい、すべすべ」
もっと触れたくなる。肌と肌で直接、触れ合いたくなる。彼女がここにいると、受け入れてくれていると、実感したい。会えない間無理やり蓋をしていた寂しさが、埋めてほしいと顔を出す。
名前を呼ぶと、彼女は真っ直ぐ俺を見つめてくれた。
「おれはさ、すぐ寂しくなる、なっちゃうけど…◯◯の目見てたら、大丈夫だって思える。生きていける。……だから、」
ずっと俺のこと、見ていてほしい。
その願いは吐息みたいな声でしか伝えられなかったけど、彼女は俺の手をそっと握ってくれる。
「……ごめん、わがまま言いすぎた」
「わがままじゃないよ、嬉しいよ」
「……ここで止めんかったら、おれもっとわがまま言っちゃうけど」
「いいよ、なあに?」
「……もっと、触りたい」
それはまあ、そういう意味で。軽くそのブラウスのボタンに指をかけてみても、彼女は何も言わなかった。ただ赤い頬のまま、俺を見つめているだけだ。どうしてそんな、かわいい顔ができるんだろう。
「そのかわいい顔は、いいよって意味?」
「……うん、そうだよ」
彼女の手が伸びて、俺の頬に触れた。手のひらは熱い。俺はこの体温を、ずっと忘れないと思う。会えない時、生きる世界を見失いそうな時、目を閉じて初めに思い出す、彼女と俺の体温。
「……んなあ」
「うん?」
「おれの名前、呼んで」
「……悠仁くん」
彼女が俺の名前を呼ぶ時だけ、世界は静かになる。生きていていいと思える。これ以上好きになったら、と考える癖があるくせに、もっと好きでいたい、と思ってしまう。
「おれ、多分世界で一番弱いよ」
「どうして?」
「……世界で一番好きなひとといるから」
脱がせる前に、ぎゅっと力強く抱きしめた。彼女が耳元でやさしく笑っている。目頭が熱くなるから、キスでごまかした。帰るべき場所はここだと、生きていく場所はここでいいんだと、そう思わせてくれる夜だった。

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2026-02-04