「……ちょっとアンタ」
釘崎のドスの聞いた低い声に、嫌な予感がして振り返る。避ける暇もなく、高専の廊下に手厳しい一撃が響き渡った。
「いってぇ ! なんだよいきなり」
「アンタいつスマホ買い替える気?」
「……ん?」
「このあいだぶっ壊れたって言ってたけど、そのままでしょ」
「あー……」
その件か。指摘されるのを避けまくっていたのに、ついに捕まってしまった。両手を頭の横まで上げて、苦笑いを浮かべる。これ以上怒らせたら本当に面倒なことになるのは、長い付き合いでよく分かっていた。
「……ごめんって、降参」
スマートフォンは先週の任務で画面がバキバキに割れて、電源がつかなくなった。素人から見てもわかる、機械として寿命が終わってしまったそれは、ただの冷たい板になってしまった。俺はそれをポケットにしまい込んだまま、手放せずにいる。
「でもさ俺、最近高専に寝泊まりするようにしたから。呼び出しならいつでも直接部屋に来てもらえばいいだろ?困んねぇかなーって……」
「こっちが困ってんだっつーの、アンタのその連絡のつかなさのせいで、私がどれだけ補助監督から『虎杖くん連絡取れますか?』って聞かれたと思ってんの ! ?」
「……それはほんとごめんって」
でも、もう特に必要ないと思った。どうせ新しいものを手に入れても、あの子の連絡先は復活しない。もう会わないし、会えない。だからどうでもよかった。今まで通り、呪術師として動ければいい。俺が必要になれば招集が来る。俺はそれに従って、呪霊を祓う。その繰り返し。元に戻るだけだ。
自宅は帰ると色々と思い出してしまうから避けるようになった。ここ数日は高専の部屋に籠もって招集を待っている。呪霊は嫌になるほど湧いてくるから、自分を忙殺できるのはありがたかった。
「……けどさ、ほんとにもう、いいかなって」
目を逸らし続ける俺を、釘崎はジト目で怪訝そうに見つめてきた。
「……アンタなんかあったわけ」
「ん、……なんで」
「最近静かだから」
「……別に、何もねぇよ」
できるだけ平静を装って答える。
「……ふーん。まあいいけど。とりあえず、今から買いに行くわよ」
「だからしばらくいらねぇんだって、」
「私が必要って言ってんのよ。ほら早く」
「……俺、部屋でやることあんだけど」
「はい、嘘。さっさと行く」
「………なんでバレてんの」
結局、釘崎に引きずられるようにして携帯ショップへ連れていかれ、言われるがままに最新機種を買わされた。店員に「データの移行はどうしますか?」と聞かれ、一応壊れたそれを見せたものの、返ってきたのは「……これは復旧が難しいですね」という丁寧で申し訳なさそうな声だった。
◇
高専の自室に戻って、ベッドの上に倒れ込んだ。狭くて硬い。スプリングがギシギシと鳴る。
手の中に収まる新しいスマートフォンは、驚くほど軽くて、傷ひとつなくて、画面は鏡みたいにピカピカに光っている。電源を入れると、無機質な初期設定の画面が立ち上がった。
アプリを落とし、真っ白な連絡先を開く。
さっさと登録して連絡しろと口酸っぱく言われたので、釘崎と伏黒には連絡を入れておく。早速グループに招待され、変なスタンプが送られてくる。
「はは、……なんだこれ」
釘崎が広めてくれたのか、高専関係者から次々と連絡がくる。テキトーにスタンプや絵文字で返信する。これで、以前とほとんど変わらない状態になった。
天井を見上げたまま、それを片手で握りしめる。指先に伝わるのは冷たい金属の感触だけだ。
暗い青色の水槽の前。
人混みに押されて、俺の胸元にすっぽりと収まった小さな身体。
首筋から漂っていた甘い匂い。
何度も何度も、しつこいくらいに思い返す。そんな自分が嫌になって、腕で顔を覆って、深く息を吐き出した。
「……っはぁ、」
このまま眠ってしまいたい。どうせ仕事が入ったら、誰かが起こしに来るはずだ。
気怠い眠気に身を任せて、硬いベッドに丸まっていた。
どれぐらいそうしていたのだろう。ドアをノックする音で目が覚める。
「虎杖ー、いる?」
猪野さんの声だ。
まだ身体が重く、眠気に抗えない。
居留守を使おうか。なんてそんなことを考える暇もなく、ガチャリとドアが開かれた。
「入るぞ」
「……いるって言ってねぇのに」
「いるってわかってなきゃ来ねぇって」
身体を起こすのが面倒で、ベッドの上に寝そべったまま顔だけを向けると、猪野さんは人懐っこい顔で笑った。
「なにお前、スマホ壊れてたの?全然連絡つかねえから心配した」
「……任務で壊れてさ。けどさっき買い替えた」
「お、じゃあちょうどいいわ。週末さ、補助監督の知り合いの女の子たちと飲み会やるんだけどさ、虎杖もどう?」
「俺はいい。パス」
「たまにはいいだろー、可愛い子来るらしいぞ」
「興味ないって」
「前来てくれたじゃん。虎杖に会いたいって子、いるぞ」
「んー、いい。合コン苦手」
「今回は合コンじゃねぇから」
「……え、じゃあ何なん」
「異業種交流会」
「……それ合コンじゃん」
猪野さんは笑いながらズカズカと部屋の奥まで入ってくると、ベッドの端に勝手に腰掛けた。そしてポケットから缶ジュースを取り出すと、ベッドの脇にある小さな机の上にコンと置く。俺は半身を起こしてそれを受け取り、プルタブを開けた。
「……なんかあったのか」
一口飲みかけたところで、不意に投げかけられた声に手が止まる。
「……ん」
「お前、最近ずっと高専に籠もってんだろ。家に帰んねぇの?」
「いや、別に。ここにいた方が、現場にすぐ向かえて都合がいいだけ」
「ふーん」
猪野さんは必要以上には踏み込んでこない。ジュースを一気に飲み干して空の缶を机に置くと、再びベッドに身を投げ、黙って天井を眺めた。殺風景な天井と、蛍光灯の光が眩しくて、思わず目を瞑る。
「………そういえばさ、お前」
「んー?」
「デートはうまくいったか?」
「でっ……? ! な、なんの話」
思わず反射的に起き上がる。またベッドのスプリングが嫌な音を立てた。なんでこのひとがあのときのこと知ってんだ。心臓がバクバクする。けれど同時に、彼女の寂しそうな瞳を思い出して胸が締め付けられるように痛んだ。
「前に任務一緒のとき、あったろ。明らかにお前デート前だったもん。時間気にしてた」
「……あー……」
そっちか。あれはハンカチを返すために待ち合わせしていた日だった。
「……あれは別にデートじゃねぇよ」
「けど女の子と会う予定だったんじゃねぇの」
「いや、……まぁ」
猪野さんって、こういうことに関しては無駄に鋭い。頭をかきむしりながら目を逸らす俺を、猪野さんはニヤニヤと探るような目で見つめてくる。
「え、合コンの子?」
「ちげーよ、……任務で助けた子。ハンカチ借りてたから返しただけ」
「ハンカチ?」
「うん。助けたとき俺が怪我してたから貸してくれた」
「………へぇ」
猪野さんは驚いたみたいに目を丸くして、そのあと口角を上げた。
「んで、好きになっちゃったってわけか」
「は、……」
「ハンカチ返す予定くらいで、あんなにソワソワしないだろ」
「………え、俺そんなにソワソワしてた?」
「自覚なかったのかよ。時計何回も見てさー、『猪野さん、これ何時に終わっかな』とか聞いてきてさ。分かりやすすぎ」
「……いーじゃんそれは」
耳の先端からじわじわと火が点いたみたいに熱くなる。首筋まで温かい熱が広がっていくのが自分でも分かって、余計に焦りが募った。熱くなった耳元を見られたくなくて、急いで視線を背けた。
「んで?ちゃんとデートとかしねぇの?」
「……しねぇ。ってかできねぇし」
「え、なんで」
「スマホ壊れたから。連絡先わからん」
「えー……」
呆れたような猪野さんの声を背に、俺は再びベッドに横たわって目を閉じた。視界を真っ暗にすると、熱を持った耳元と、胸の奥の重苦しい冷たさだけが浮き彫りになる。
「……そもそも別に、それ以上どうとかってなかったから。非術師だし、その子」
「ふーん。術師はやだって、言われた?」
「……別に、そういうことは言われてねぇけど」
「お前が一般人はやだ、って話?」
「やだっていうか、……ダメじゃん」
「え、なんで?」
「………なんで、って」
俺は誰かをしあわせになんてできないから。そう言いかけて、すぐやめた。口に出してしまったら、二度と取り返しがつかないような気がして。
言葉に詰まった俺の横顔を、猪野さんはじっと見つめていた。
「俺はお前が、その子のこと好きそうに見えたけどな。好きじゃないなら知らねぇけど」
「……す、」
「す?」
「………好きだけど、それだけじゃダメだろ」
「え、そうか?」
頭の上に、猪野さんの手がぽんと乗った。そのまま雑に頭を撫でられる。
「好きになっちゃったもんは、しょうがねぇんじゃねぇの。別に悪いことじゃねぇじゃん」
言い返せなかった。
そんな綺麗な理屈で自分を免罪して、また誰かを不幸にしたら、俺は自分を許せるのだろか。自分が誰かを好きになって側にいたいと願うこと自体が、どうしても図々しいエゴのように思えてしまう。自分の感情一つで、大切な人を傷つけてしまうこと、そしてその存在を永遠に失うこと。それが俺は怖い。
「虎杖に好きになってもらえる子は、多分幸せだって。お前いいヤツだし」
「……はは、なんだよそれ」
不器用な笑い声が、自分でも驚くほど低く掠れて漏れる。
「お前さ、そんなに自信ねぇの?」
「……自信っていうか、資格がないだろって話」
「資格ねぇ」
俺の髪の毛を好き放題ぐしゃぐしゃにして、猪野さんはベッドから立ち上がった。
「つーかさ、お前それそろそろやめたら」
「……何を」
「その、すぐひとりになろうとする癖」
急に核心を突かれた気がして、うまく返事ができなかった。大切な人を増やすこと、誰かと約束をすること、自分のしあわせを願うこと。そういうことが、ずっと苦手だ。
「好きなんだろ?多分また会えるって。ちゃんとそう願ってれば。知らんけど」
「知らんのかい」
思わず笑うと、猪野さんは真剣だった顔を崩して満足そうに口角を上げた。
「別にそう願ったくらいじゃ罰当たんねーよ。好きに願え。いつまでもその癖直さねぇなら、俺がしつこく合コン誘うからな」
「げ、いらねぇ」
「じゃあな」
猪野さんは振り返らないまま、最後に片手をひらひらと軽やかに振った。
ドアが、パタンと音を立てて閉まる。
足音が遠ざかり、完全に静寂が戻った部屋で、俺はもう一度ゆっくり目を閉じる。
連絡先は消えた。あの子が今どこで何をしているのかも分からない。 明日になればまた次の現場があって、俺は呪いを祓いに行く。何も状況は変わっていないし、相変わらず手の中の新しいスマートフォンは冷たくて空っぽだ。
「……会いたいんだよなぁ、やっぱ」
必死に蓋をしてきた本音が、ポロリとこぼれ落ちる。腕で両目を覆いながら、深く息を吐き出した。目頭が熱い。泣きそうだ。
俺はあの子が好きだ。しあわせになってほしい。できれば、しあわせにしたい。
彼女を探す術は、今のところない。この広い東京の街で偶然すれ違う確率なんて、限りなく低いだろう。それでも、いつかもし、奇跡みたいにどこかで会えたら。しあわせに暮らしているか、直接聞いてみることができたら。好きだと、伝えることができたら。
そういうことを、願ってみてもいいのだろうか。