雨の日

その日の任務は虎杖くんとペアだった。お昼までには終わるだろうと伝えられていた内容だったけど、思った以上に事情がややこしくなって、ようやく終わった頃にはもう日が落ちかけていた。
このまま電車に乗って、急いで帰ろう。そう話していると、ぽつりと頬に冷たい水滴が落ちる。なんだろう、と思った次の瞬間、それは降り始めていた。
「…あ、」
雨だ、と顔を見合わせる。あいにくわたしたちはどちらも傘を持っていなかった。ぽつりぽつり、雨粒がお互いの制服にどんどん染みを作っていく。このまま雨は強くなるに違いない。
どうしよう、そう言おうとして彼の方を見上げると、その透き通った瞳と目が合った。
「#surname#さん、こっち」
そう言ってわたしの腕をやさしく掴んで、彼はゆっくりと走り始めた。初めて触れる彼の体温にどきりとする。冷たい雨粒が顔を打つ。濡れながらも前を見据えて走る虎杖くんの横顔は、なんだかとても綺麗だった。
そうして屋根のある建物の前になんとかたどり着いた。雨はどんどん強くなり、だんだん景色が白く煙ってゆく。
「しばらく止みそうにないね」
「おれ朝全然天気予報見てなかった、ごめんな」
「ううん、わたしも見てなかった」
だってさっきまであんなに晴れていたのだ。汗ばむくらいに熱くて、だから夏服のシャツ一枚で出てきてしまった。今は濡れた肌がひんやりと寒いくらい。そんな状況だけど、それでも彼と一緒にいられる時間が伸びたのはなんだかとてもうれしかった。
「#surname#さん、あのさ」
「うん?」
「いや…冷えるからとりあえずこれ着て」
「…え、でも」
「いいから、ほら」
「…うん」
「おれあそこのコンビニで傘買ってくるから、ちょっと待ってて」
わたしが返事をする前に、虎杖くんはそう言ってパーカーを素早く脱いでわたしに手渡し、走って行ってしまった。パーカーは彼の体温でまだあたたかくて、そしてほんのり柔軟剤のにおいがする。それを着ようとしてやっと気づいた。白いシャツが濡れたせいで、少しだけだけれど下着が透けている。完全に油断していた。たぶんだけど、虎杖くんはそれに気づいて、でも指摘はせず、服を貸してくれたのだと思う。
彼のやさしさって、そういうところがある。わざわざ言わない、というやさしさも、あえて声をかけてくれるやさしさも、どちらもちゃんと持っていて、だから心地が良くて甘えてしまう。もっと一緒にいられたらいいなと思うし、自分も彼にやさしさを与えたいと思ってしまう。
パーカーを頭からかぶると、すぐにあたたかくなった。天気はどんどんひどくなるばかりなのに、なんだかほっとする。そう、虎杖くんは一緒にいるとほっとするのだ。
みんなと一緒にいるときは賑やかなのに、ふたりでいるときの虎杖くんは少し違う、と思う。それがずっと不思議だった。ふたりのときはどちらかというと静かで、でもわたしが不安でいると声をかけてくれるし、穏やかでやさしい。みんなでいるときの彼が太陽だとするなら、後者の彼は今みたいな、静穏な空気感を持っている。月みたいだ。それはなぜなのだろう。
目の前の景色は雨と霧でどんどん白くなっていく。その靄の中から、虎杖くんが傘もささずに走って戻ってくるのが見えた。そしてこちらにたどり着いた彼はびしょ濡れで、髪からぽたぽたとしずくがたれている。
「ごめん、傘一本しか買えんかった」
「傘ささなかったの?」
「…あ、うん、待たせてたしさ、でも大したことないって」
虎杖くんはそう言って笑ったけれど全然大したことはあって、わたしにパーカーを貸してしまったせいで肌着から濡れていて、寒々しいくらいだった。
「だめ、風邪引いちゃうよ」
ポケットには小さなハンカチしかなかったけれど、取り出してずぶ濡れになった彼の肩を拭いた。髪も、と言ったら虎杖くんは軽くしゃがんで、そのピンク色の髪を拭かせてくれた。
「ほんとにごめんね」
「いや…こっちこそごめん、ありがと」
顔を上げた彼と目が合う。お互い何も言わず、数秒間見つめ合った。虎杖くんの目、きれい。そんなふうに思える余裕があるくらいに。
心臓の音も何もかも、激しい雨音にすべてがかき消され、なんだか世界でふたりきりになったような感じがする。海の底に沈んだようなこの場所で、ずっと一緒にいれたらいいのにと思った。それをどう伝えればいいのかはわからない。
「寒くない?」
「うん、虎杖くんの着てるから、大丈夫」
「…そっか、よかった」
「ありがとう」
「……あのさ、#surname#さんが嫌じゃなかったら、だけど」
「うん?」
「もうちょい、雨宿りしてかん?」
わたしが頷くと、虎杖くんははにかんで、そしてほんの少しだけ距離を詰めてくれた。
「なんかかなり不気味な感じだったな、今日のは」
呪術師だから仕方ないとはわかっているけれど、赴く場所は大抵陰湿だし、任務中は明るく楽しいきもちになれることはあまりない。時には痛い目にも遭うし、今日は特に人間の醜い感情を実感せざるを得ない内容の任務だったから、余計に疲れてしまった。どんなに経験を重ねても慣れることはない。怖いものは怖いし、痛いものは痛い。
「たしかにちょっと怖かったけど、虎杖くんがいてくれて安心できたよ」
「ケガせんかった?いや、してたよな」
「大した事ないよ、ここだけ」
そう言って手の甲の擦り傷を見せたら、虎杖くんが自身の大きな手を重ね、労るようにそっと撫でてくれた。彼の手だって、傷だらけなのに。
わたしの心臓はまた鼓動を再開する。どんどん熱くなる体温を知られたくないのに、虎杖くんはその手を離そうとはしなかった。
「ごめん、守れんくて」
「わたしの不注意だったから、気にしないで」
「あん時おれが前に出過ぎんかったらよかったのに」
「ううん、そのおかげで祓えたんだよ」
「……けど、#surname#さんには怖い思いも痛い思いもしてほしくないんよ、おれさ、」
押し問答みたいになって、そこまでは一息だったのに、突然言葉が止まる。見上げた虎杖くんの顔は赤かった。
「ごめん、なんかおれすごい緊張してて」
「…え」
「今もどうしようって、思ってる」
どうしようって、どういうこと、と考えて、ふと熱いのは自分の手だけではないことに気がついた。虎杖くんの手のひらも、すごく熱かったのだ。
「……その、好きな子とふたりきりで、ずっと緊張してんの、今日」
それがどういうことなのかわからないほど鈍感ではないけれど、突然の告白に頭が真っ白になって、心臓が耳元で鳴ってるんじゃないかというほど、ドキドキする。
「好き」
雨音は相変わらず強いまま、周囲の音をかき消すように降っている。でも虎杖くんのその声は、わたしの耳にはっきりと届いた。ほんとうに世界でたったふたりきりになってしまった、そんな感じがする。
「…わたしも、虎杖くんのこと、好き、です」
「え、…ほんとに?」
「ほんと。こんな嘘言わないよ」
わたしを見つめる彼の表情は本当に驚いた、という感じだった。でも次の瞬間、ふわりと抱き寄せられ、その胸に収まる形になる。雨で冷えたはずなのに、虎杖くんの身体はじんわりとあたたかくて、というよりむしろ熱かった。
「……い、虎杖くん」
「いまおれ絶対変な顔してるから、見んで」
「どんな顔?」
「ニヤつくの止まらんのに、なんか泣きそう」
ぎゅ、と抱き締める力が強くなる。こんなふうに誰かと抱きしめ合って、お互いの体温を確かめるなんて初めてなのに、そしてその相手が大好きなひとだなんて奇跡みたいなことなのに、でもそれが当たり前のことのような、もう決まっていたことのような、そんな気もする。それくらい、このひとといるとほっとする。
「……夢じゃない?これ」
「うん、夢じゃないよ」
「好きって言ってくれたんも、現実?」
「うん、現実」
よかった、と呟く虎杖くんの声は少し震えていた。それを聞いたらわたしも胸が苦しくなって、目の奥が熱くなる。
「…正直さ、好きって言ってもらえたときのことあんまり考えてなかった」
「片想いだと思ってたの?」
「なんか、そもそも思いつかんかった、両想いっていうのが」
だっておれはさ、と虎杖くんは続ける。彼の言いたいことはなんとなく理解できた。自分の背負う運命、受け入れた罪と罰。誰かに愛されることを想定して生きていない、虎杖くんのやさしくて寂しいきもち。
「わたし、最初からずっと好きだったよ」
「……もう、これ以上変な顔させんで、ストップ…」
これ以上ないくらいぎゅっと強く抱き締められて、どちらの心臓の音なのかわからなくなる。その広い背中に腕を回して、何度か撫でる。
「ごめん、一回だけしていい?」
やさしい声をした虎杖くんが、抱き締める力を緩めて顔を上げて、そしてゆっくり下りてくる。返事の代わりに目を閉じると、ふわ、と数秒間唇が重なって、離れていく。惜しいような気がしたけれど、でも焦らなくても大丈夫。それがわかっているから、虎杖くんの手をそっと取って、熱いままの体温を握った。
もう少しだけ。そう言いながら、わたしたちはいつまでも雨を眺めていた。

繋がれた手はもう離されることはないと、不思議なくらい確信があった。ずっと探していたパズルの最後のピースが見つかったみたいな、お互いがお互いのために必要な存在なのだと疑いなしに思えたこと、それを知っているのが、世界にわたしたちだけということ。その事実が、不穏で不安定な世界に投げられたふたりの、たったひとつの拠りどころになった。

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2026-02-25