改札を抜けると、灰色の空が広がっていた。アスファルトが深く息を吸い込んで、湿った土の記憶を吐き出しているような、甘ったるい匂い。雨雲の重みに押しつぶされるような、気怠い感覚。雨の気配だ。
「……なんか、降りそうだな」
ぽつりとつぶやくと、隣を歩く彼女も空を見上げた。雨の匂いがするね、とやさしい声が返ってくる。ポケットの中で繋いでいた手を引いて、自分の方へ寄せた。
「急ご。降り出す前に帰れそうだし」
「うん」
傘はない。思い切って駅を抜ける。数歩進んだところで、世界が音を立てて塗り替えられた。大粒の滴がアスファルトを叩き、瞬く間に白く煙るような土砂降りになる。ほんの数メートル先の景色さえ、激しい雨の飛沫でみるみるかき消されていく。
「……まじか」
反射的に、彼女の細い肩を引き寄せて、自分の身体で覆うように抱きしめた。雨水は頬を伝って、顎のラインから滴り落ちる。髪から滴る水滴のせいで、視界は滲み、呼吸をするたびに鼻腔に水の味が混ざった。
「悠仁くん、余計に濡れちゃうよ」
「おれはいいから。……ほら、こっち」
小さな身体を腕の中にすっぽり閉じ込めて、マンションまでの道を駆け出す。雨は容赦がなかった。逃げ込んだ雨宿り先の軒下は狭く、密着した彼女の体温が冷たい雨粒の感触をいっそう際立たせた。
「……寒くねえ?」
「少しだけ」
彼女が俺の胸元に顔を埋める。花のような、甘い匂いがする。その小さな震えが、特級呪霊のどんな呪力よりも俺の心臓を騒がせる。
「……ごめんな、傘持ってくればよかった。……もうちょっと、あと少しだから」
視界の先、雨のカーテンの向こうに、うっすらと琥珀色の明かりが漏れるマンションが見える。もう少し、もう少しだけど、どうやってもこの子を濡らさないといけない。半分彼女を抱えるように走って、なんとか辿り着く。玄関は照明も点けないまま脱衣所に駆け込んで、大きなバスタオルで彼女を包み込んだ。
窓の外の、暴力的なまでに激しい雨音が、こちらまで微かに聞こえてくる。
「冷てぇな、ごめん。……もっとこっちおいで」
「悠仁くんも拭かなきゃ、」
「おれは平気。それより、#name#ちゃんに風邪引かせたらおれが後悔すっから」
タオル越しに引き寄せた彼女の身体は驚くほど細くて、雨に打たれた肌はひどく冷えていた。彼女の背中を撫でるたび、その冷たさがダイレクトに手のひらへ伝わってきて、胸の奥がキュッと締まるような感覚になる。濡れて肌に張り付いた髪の隙間からは、白いうなじが覗いている。そこを伝う一滴の雫が、部屋の淡い灯りを反射して、そっと光ったように見えた。
それがあまりにも綺麗で、一瞬動けなくなってしまう。
「……悠仁くんも、だいじょうぶ?」
はっとして、その声に応えるように、そっと手を伸ばす。けれど、その自分の手のひらがいつも以上に、やけに無骨で熱っぽく感じられて、触れたら彼女の透明な美しさを壊してしまうんじゃないかと、本気で怖くなった。
「……悠仁くん?」
「……ん、大丈夫。ほんとにごめんな」
「どうして謝るの、悠仁くんは悪くないよ」
「いや、……おれが悪い。ちゃんと傘持ってくるんだった」
彼女の小さくて白い指先を、両手でそっと包み込む。一本ずつ、丁寧に。冷たくなったそこへ、自分の熱を擦り込むみたいに。そうやって、思わず口元へ運んだ。俺の唇を、その指でそっと撫でる。彼女が驚いて、少しだけ震えた。
「……っ、……どうしたの」
目が合う。指先から伝わってくる微かな脈動とその視線が、俺の脳を静かに、けれど確実に焼いていく。
次は、頬。 濡れて肌に張り付いた髪をそっとかき上げる。露わになった肌に、吸い付くように重い熱を落とす。そっと香ってくる、やさしい石鹸の匂い。それが雨の湿った匂いと混ざり合って、いつも以上に甘い匂いになっている。
「……すげーいい匂い」
思わず出た自分の声は掠れていた。おでこ、眉間、鼻先。彼女を濡らしていった雫を追いかけるように、細かなキスを落としていく。窓の外ではまだ雨が激しく鳴っているはずなのに、この部屋は静まり返っている。まるで深い水の底に、ふたりだけで沈んでいるみたいだ。聞こえるのは、彼女の少し速めの呼吸の音と、それにつられるように速度を増していく自分の心音だけ。唇を離すと、また目が合った。その茶色い瞳に溜まった涙が、俺の理性のスイッチを、パキ、と音を立てて焼き切ってしまった気がする。
「…………好きすぎて、どうしようって思うよ」
どうしようもなくて、思わず笑ってしまう。そのまま、顔の角度をゆっくりと変えた。鼻先が触れ、彼女の熱い吐息が唇をくすぐる。吸い寄せられるように、唇を重ねた。あたたかくて、やわらかい。角度の変え方に迷いはない。彼女の華奢な輪郭をそっと包み込む。一番深く重なれる場所を、俺の身体が本能的に見つけ出していく。
「ん、……ふ……、……」
時々漏らされる小さな吐息も、逃したくなかった。何一つ、逃したくない。全てを食べ尽くすようにして唇を動かす。どんどん体温が上がっていく。これから何が起きるのか、そっと、でも確実にこの呼吸で教え込みたかった。だんだんと乱れていく彼女の呼吸のリズム。ほんの数ミリだけ唇を離して、空気を入れ込む。
「……はあ、…っ」
彼女の手がぎゅっと、俺のパーカーの裾を掴んだ。寄せられる身体。かわいい。それを合図に、一気に深部へと侵入した。ぎゅ、と手の力が強くなったのがわかる。でも離さない。舌で彼女の口内を逃げ場をなくすように絡め取る。とろとろと大きく絡め回して、俺の熱で彼女の最深部を塗り替えようと思った。彼女の舌を、自分の舌の先で根元から巻き込む。口内の柔らかな粘膜の輪郭を、隅々までなぞるように乱暴に、執拗に掻き回すたび、 彼女の口内が自分の熱だけで満たされていく感じがする。やわらかくて、熱い。さっきまで雨で冷えていた身体が嘘みたいだ。上顎の敏感なところを、舌の腹でじっくりと撫で上げるように突き入れる。彼女が逃げようと顔を傾けても、顎を掴んだ手のひらに力を込めて固定した。
「ん……っ」
息が上がって、呼吸のサイクルが早くなる。苦しくなるタイミングはだいたい掴んだ。その絶妙なタイミングで隙間を作る。彼女が熱い息を吐き出した瞬間を狙って、再び唇を深く塞ぎにいく。その舌を貪るように、吸い上げるようにして呼吸の主導権を奪う。彼女の酸素が俺の二酸化炭素に替わって、彼女の体内の循環すらも俺が決めるような、そんな錯覚。脳がクラクラする。それが気持ちよかった。細い銀の糸を引いて、わずかに唇が離れた一瞬、彼女は濡れた瞳で、俺を追従するように見上げてくる。
「……苦しい?」
「…う、ん、…」
「……ごめん、でも逃がさんよ。……もう離したくねぇもん」
目の前の肌のぬくもりを前にすると、自分がただの、飢えた獣になっていく感覚がする。なる、というより、戻る、という方が正しいかもしれない。もともと自分の中にいた獣が、彼女のやわらかい身体や体温、甘い匂いで強烈に呼び起こされてしまう。そいつは寂しさとか虚しさとか、そういう普段俺が無理やり心の奥にしまい込んでいる感情を飼っていて、コントロールが難しい。彼女の記憶、感覚、全部を自分で塗り替えてしまいたくなる。どうしても止められない。
その時、お風呂が沸いたことを知らせるメロディが、静かな部屋に空白を作るように鳴り響いた。
「……悠仁くん、……お風呂、沸いた」
彼女が息を弾ませながら、俺の肩を弱々しく押す。
「……ん、でも、まだだめ」
その音は無視して、彼女の下唇を自分の唇で挟んでキュッと吸い上げた。粘膜が離れる音が甘ったるく響く。
「お風呂、……冷めちゃう、よ……」
「沸かし直せばいいから。今は、こっち」
彼女の腰を引き寄せ、バスタオルの隙間から熱を帯びた肌に直接手を滑り込ませた。 彼女の心臓の音が、俺の手のひらを通して激しく鳴り響いている。小さな鼻声を漏らす彼女の唇を貪るように塞いだまま、進める手は止めなかった。濡れて肌にぴったり張り付いた生地を、下からめくり上げるようにして剥ぎ取っていく。首元から頭へと衣服を抜き去る一瞬だけ唇が離れるけれど、すぐに、剥き出しになった鎖骨の窪みへに唇を押し当てた。彼女の身体が跳ねる。かわいい。水分を含んでずっしりと重くなった服たちをすべて床へ沈めると、無防備な彼女の身体だけが残る。綺麗だ。左手は彼女の腕に添えたまま、自分のパーカーの裾へ右手を引っかけた。繋いだ唇を離したくなくて、視界を塞がれたまま、濡れて重くなった生地を自分の頭から乱暴に剥ぎ取る。乱れていく呼吸のなか、服を放り出した勢いのまま、再び彼女の細い腰を抱き寄せる。遮るもののなくなった俺の胸に、彼女の剥き出しの肌がぴたりと合わさった。俺の熱が移ったみたいに、その白い肌はほんのり赤くなっている。たまらなくなって、また彼女の口内をかき回しながら、その腰や背中をなぞった。
「……#name#ちゃんのこと、好きすぎてどうしようもねえの。わかる?」
「……ん、うん」
「わかんなくてもいいんだけど、…ほんとに好きなんよ」
彼女に説明していない感情なんて、山程ある。むしろそっちの方が多いくらいだ。自分でコントロールも言語化もできないほどの感情。胸の奥の、一番暗い場所にずっと溜まっている、熱くてドロドロとした名前のないものたち。それを全部隠すように、ただ貪欲に、彼女のやわらかい肌に歯を立てるようにして唇を押し当てた。かわいい、綺麗、いとおしい、離したくない。そんなありきたりな言葉では、 この破裂しそうなほどの胸の痛みを表現できない。伝えられない。別にそれでもよくて、彼女を傷つけるくらいなら、何も言う必要はないと思った。それでも止まらない。ただ彼女の存在そのものが、俺の一部になってくれたらいいのに。そんなどうしようもなく飢えた感情が身体を駆け巡って、よくわからなくなる。こんなに小さくて脆くて、やさしい女の子を壊したくなるのは、どういう仕組みなんだろう。俺は一体、どうなったら満足できるのだろう。
「……#name#ちゃん」
「……うん?」
「……やっぱり、お風呂行こ。風邪引かれたら、ほんとに嫌だから」
そう言って、彼女の身体をひょいと横抱きに抱え上げた。
「あ、……待って、自分であるく、……っ」
「だーめ。おれが運ぶ。ほら、ちゃんと掴まってて」
運ぶと言っても、風呂場はすぐそこなんだけど。腕のなかで小さくなっている彼女は、やっぱり驚くほど軽かった。
湯気がうっすらと漏れる浴室のドアを蹴り開ける(怒られた)。やわらかい空気が俺たちの肌を包み込む。
「……お風呂、沸かし直さなくてよくなったな」
浴槽の縁に彼女を下ろす。そうして、事態がよくなったわけじゃないことに気がついた。体温よりあたたかい密室で、目の前にはやわらかくて白い肌の天使がいる。俺はまた、彼女の甘い唇を塞ぎにいってしまう。彼女の呼吸すら欲しくなる。やわらかく、そのまぶたが閉じられる。
「……ごめん、やっぱ止まらん」
容奢のない熱が始まろうとしていた。