ガチャリ、と玄関のドアが開いた。閉まる音はいつもよりも大きい。
夜風がふわりと室内に流れ込み、少し冷たい空気に混じって、甘いお酒の匂いが鼻をくすぐる。
ドアの向こうで足音がふらふら揺れている。
「ただいま」
その声は低くて、心なしかゆっくり聞こえた。
振り向いた瞬間、あ、と思う。ネクタイは緩められていて、その茶色い瞳は少しだけ潤んでいる。
「おかえりなさい」
そう言うと、悠仁くんは何も答えずに近づいてきて、私の背中にそっと額を預けた。何も言わずに、ただ離れない。こんなことはあまりないからわたしは動けなくて、しばらくその息遣いを聞いていた。
「………#name#ちゃん」
なんだか呼ばれ方が、いつもより近い気がする。
「なあに」
「……なんもない」
「悠仁くん、酔ってる?」
「酔ってない、だいじょーぶ。#name#に会ったら元気でた」
じゃあ帰って来るまで元気なかったってこと?そう聞こうとしたのに、さらにぐりぐりと額を押し付けてくるから何も言えなくなる。悠仁くんの、人よりずっと高い体温が、お酒でもっと熱くなっている。思わず心が揺れる。
「寂しかった、顔もっとちゃんと見して」
「……うん」
そのままソファーに座ると、悠仁くんは当たり前みたいに膝に頭を乗せてきた。いつもと、逆。大人の男の人なのに、今日は甘え方が子どもみたいだ。腕を顔に乗せたまま、ゆっくり深呼吸する姿は、やっぱり疲れて見える。
「疲れた?おふとん行く?」
「……いや、無理。今日はここ」
珍しいくらいのはっきりとしたわがまま。だけど、その声は弱くて。ずっと忙しいのは知っているから、少しでも休んでほしいと思った。
そのやわらかい、ピンク色の髪を撫でる。いつもわたしがしてもらっているみたいに。触れた部分から伝わる体温は、まだまだ熱い。
どれくらいそうしていたのだろう。しばらくして、悠仁くんは深い溜め息をついたあと、口を開いた。
「………んなあ」
「うん?」
「今日さ」
腕を上げた彼と目が合う。その視線は熱かった。
「#name#ちゃんが、会社で楽しそうに笑ってんの見かけて。かわいかった」
「うん」
「……でもその相手が男で、すげー嫌だった」
その声はかすれていて低くて、思わずわたしの心臓はきゅっと鳴る。
「別に、悪いって言ってるわけじゃないんよ。なんも悪くない」
わたしが自分を責めないように、ちゃんと先にそう言ってから、悠仁くんは少しだけ眉を寄せた。
「でもさ」
また、腕を顔に乗せるから表情が見えない。
「……ああいうの、ちょっと嫌なんよね」
まるで、自分の気持ちを叱るみたいに、その声はだんだんしぼんでいく。
「おれ以外に向ける顔ってあるんだな、って」
そんなこと、当たり前なのにな。自嘲するみたいに、息を吐く。
「……あとさ」
「……うん」
「これ言うの、ほんとに嫌なんだけど」
そう前置きする時点で、きっと相当飲み込んできたやつなんだってわかる。だからそっと手を握って、その声が始まるのを待つ。
「#name#ちゃんの名前」
「名前?」
「これもさ、会社で普通に呼んでるやついるっしょ」
思い出そうとして、首をかしげる。そんなひといたかな。
「名字じゃなくて、下の名前呼んでるやついんの、おれ聞いたから」
そこで彼の指先が、わたしの服を強く掴む。
「……あれもおれ、めちゃくちゃ嫌い」
悠仁くんが「嫌い」だなんて断定するのは珍しい。いつも穏やかで、自分勝手に感情を決めつけたりしない性格なのは知っているから、だから胸が苦しくなる。悠仁くんの感情は、波みたいにどんどん溢れ出してきて、リビングをゆっくり満たしていく。
「呼び方とか、距離感とかさ、別に失礼でもないし、普通ってわかるけど」
それでも、喉の奥で何かを噛み砕くみたいに続ける。
「……でもさ、#name#ちゃんの名前をおれが呼ぶの、勝手に特別と思ってるから」
「……そうなの?」
「そうだよ。おれ、#name#ちゃんの名前呼ぶとき、ちゃんと大事にしてるつもりなんよ」
「…………うん」
「だから軽く呼ばれるのは耐えられんよ」
しばらく沈黙が続く。そっと指を絡めると、そのままゆっくりと指を撫でてくれる。そしてそのまま口元まで持っていって、わたしの手の甲は悠仁くんの唇にそっと触れた。
「………………#name#ちゃん」
「なあに?」
「今おれが言ったこと、全部忘れて」
「え、どうして?」
「……こんなこと言うつもりなかったんよ」
「言ってくれて嬉しかったよ」
「いや、めんどくさすぎんじゃん、おれ…………」
その顔が赤いのは、酔ってるからだけじゃない気がする。はあ、と今日一番大きなため息が出て、わたしを見つめるその瞳はまだ潤んでいる。
「#name#ちゃんがおれの世界の中心すぎて、なんかもう、無理」
「……無理なの?」
「好きすぎるんよ」
そう言って、また顔を隠すから。こんなに照れている悠仁くんを見るのも初めてで、きっと言ったら怒るかもしれないけれど、かわいかった。
「嬉しかったから、覚えてていい?」
「……だめだって」
「めんどくさいなんて思わないよ、嬉しい」
「……うん」
「悠仁くんはやさしいから嫉妬とかしないのかなって、ちょっと思ってたから」
「……あのな」
ため息混じりにそう言って、そのまま起き上がる悠仁くん。近い。視線が噛み合って、じっと見つめられる。
「世界大会あったらダントツ優勝、おれが」
「なんの大会?」
「嫉妬」
そう言い放って、前置きなく唇が重なる。熱かった。その酔いがわたしにも移ったみたいに、だんだんくらくらしてくる。いつもはそんなことないのに、今日は息継ぎするのをあまり許してくれなくて。柔軟剤の香りと、お酒の匂いと、シャンプーの匂い。苦しくなって軽くその胸を押さえると、ようやくそっと離してくれた。
「もう今日はなんでも思ったこと言うけど」
「うん」
「……その顔すげーかわいいから、一緒に風呂入って」
どういう理屈かわからないけど、なんだか今日はそのわがままをぜんぶ叶えてあげたくなって、わたしは頷いた。
「おれが脱がせておれが洗うから、じっとしてて。何もせんでよ、わかった?」
「……うん、わかった」
まだまだその体温は下がらない。それはすぐにわたしにも伝染して、悠仁くんが打ち明けてくれた気持ちや熱に溺れることになった。