スイッチ

俺を見つめるガラス玉みたいな瞳が、一気に涙で満たされる光景を見た。
声を荒げたつもりはなかった。ただ淡々と否定したつもりだった。でも、彼女のその瞳からぽろぽろと涙がこぼれ落ちるのを見た瞬間、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
「……悠仁くん、モテるから。……不安になっちゃうよ」
消え入りそうな声。一瞬、呼吸を忘れた。
「……別にそんなことないって、おれ」
モテるとかモテないとか、そういうものは自分自身には無縁だし、重要なことじゃない。だからいまいちピンとこなかった。
「悠仁くんは自覚ないかもしれないけど」
彼女が小さな声で呟くたび、その振動で涙はぽろぽろと落ちていく。
「でもたくさん、好きって言ってるひと、いるんだよ」
しんと静かなリビングに彼女の嗚咽が響いて、どうしようもない胸の痛みと焦りが広がっていく。
彼女以外の「好き」は俺にとっては重要じゃない。必要なことでもない。だけどこの子にとってはきっと、小さなことも不安要素で、それが気づいてあげられないうちに積み上がってしまったんだろう。
彼女が今目の前で泣いていること、ずっとそんな理由で不安にさせてしまっていたこと。解決するべきことはちゃんと理解できた。焦る心を抑えながら、どうすればいいか考える。
「……ごめんな」
返事をしながらポケットからスマホを取り出した。泣いている彼女の前で操作するのは無粋かもしれないと、思う。でも今は、言葉よりも行動の方が早いと思った。
友人の名前、何かの飲み会で知り合った子、一度もやりとりすらしたことがない子――スクロールして、女子の名前を一つひとつ削除していく。
「え……なにしてるの?」
「連絡先。消してる」
「そ、そんなことしなくていいよ……」
その震える声を制して、短く答える。
「おれがやりたいからやってんの」
トントン、とリズムを刻む指先で、最後まで削除し終える。やってみたら案外時間はかからなかった。画面はすっきりして、そこに残っているのは本当に必要な友人だけになった。それに何の後悔も感じなかった。
そのまま着信履歴を開いて、友人に電話をかける。スピーカーから聞こえてくる音声は背後がなんだかざわざわしていて、たぶんどこかで飲んでいるのだろうとわかった。
「ごめん、来週の飲み会、行けんわ」
手短にそう伝え、相手が理由を聞いてくる前に「またな」と言って通話を切った。理由はテキトーにあとで連絡すればいい。あとそれ以外、なんか誘われてたっけ。ざっと確認して、全部に断りの連絡を入れた。
そこまで一気に作業して、俺は彼女をまっすぐ見つめた。赤くなった目。濡れた睫毛。まだ状況が飲み込めていない表情。
「……なんで、?」
「不安にさせたくないからさ、おれにできること何でもさせて」
「……でも、大切な約束あったんじゃ」
「#name#を不安にさせないことより大事なことなんてないから」
心からの本音だった。
「おれはさ、#name#が泣いてるのが一番嫌なんよ、悲しくなんの」
手を伸ばして、その頬に触れた。冷たい涙の跡を指で拭い取る。拭っても拭っても、どんどん溢れ出る涙。止めるスイッチを探したい。言葉を尽くしたいし、できることは何でもやりたかった。
「不安になったら、おれのスマホなんかいつでも全部見ていい」
パスコードはずっと昔から、彼女の誕生日にしてあった。そのままスマホをテーブルの上に乱雑に置く。カツンとディスプレイがテーブルにぶつかる音だけが、リビングに静かに響いた。
「……こんなの、悠仁くんに迷惑かけちゃうよ」
「そんなこと思わんでいいよ、無理だったら言うって。おれがやりたくてやってるだけだから」
彼女はスマホには触れなかった。
「好きだから、泣いてほしくないし、どんなことしても守りたいって思うんよ」
「……うん、」
俺の言葉に、彼女の目からまた新しい涙が零れていく。でも、それはさっきみたいに悲しさからじゃなく、少しだけ安堵が混じっているように見えた。涙を止めるスイッチを、まだ探す。ぎゅっと抱きしめる。髪の匂い、肩の震え、背中にまわされた小さな手。全部を確かめるみたいに。
「全然気付かなくて、たくさん不安にさせててごめん」
俺の心臓の音を聞くように、彼女は胸元に顔を押し付ける。そのまま静かに背中をさする。彼女の震えがおさまるように。抱きしめた腕の中で、彼女が深く息を吐くのが伝わってくる。
「……悠仁くん、ずるい」
「ん?なんで」
「そういうやさしくてかっこいいとこ、またモテちゃうもん……」
「それは#name#からもっとモテる、ってことでいい?」
こんなこと他の誰にもする気はねーよ、そう呟くと、また彼女の瞳が揺らぐ。
「おれもさ、気持ちすごいわかるから」
「……ほんと?」
「だって#name#が知らん男としゃべってるとき、おれのことだけ見ててくれたらいいのに、って考えてるし」
「……そ、そうなの?」
「言わんだけで、おれの方が無茶なこと考えてるよ、たぶん」
ちょっと過激な気がすっから、言えないこともたくさんあるんよ。それは言わなかったけど。
「……悠仁くん」
「ん?」
「……さっき見えたロック画面、わたしの写真だった」
「あ、これ?」
スマホの液晶が光る。現れたのは深夜一時を指す文字盤と、彼女の写真。ついこのあいだ一緒に海を見に行ったときに撮ったものだ。
「好きな写真、いっぱいあるからさ。見るとすげー元気出るんよ」
そう答えると、彼女の照れたような小さな笑みが胸元に落ちた。思わず、その髪を撫でる。
彼女の不安を完全に消すことは難しいかもしれない。だけど、こうして選んで、示して、伝え続けることはできる。
「もう泣かない。……ごめんね」
「別に泣いていいんよ、不安なことあったらちゃんと教えて。できること全部やるから」
「……ううん、泣かないの」
「なんで?」
「だって、泣いたらぶさいくになっちゃうから……」
「世界一かわいいよ、おれ大好き」
赤く腫れた目尻を撫でたら、彼女は恥ずかしそうに目をそらす。泣いた顔も好きだと思うのは、おかしいだろうか。
「ん、だからかわいい顔おれによく見して」
「……や、やだ」
「だーめ、隠すの禁止」
両手で顔を覆おうとする彼女を遮って、その頬をこちらの両手でそっと包む。
「ほら、かわいい」
そうやって見つめると、彼女は降参したように笑ってくれた。かわいい。
彼女が望むことならなんでもできる、なんでもしたい。きっと彼女が想像する以上のことまで、俺はなんのためらいもなくできてしまうと思う。何だって捨てられるし、何だって手に入れてこれる。そういう俺の過激な部分は秘密だけど。
「……悠仁くん」
「ん?」
返事の代わりに、おでこにそっとキスした。これはきっと、笑顔にできるスイッチだ。

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2026-02-05