深淵

あー、やっぱりそうか、と腑に落ちた。
その事実を知った瞬間、驚きよりも先に、すとんと何かが胸に落ちた。納得してしまった、のだ。
自分の身体に対する、妙な違和感。
反転術式で傷を治す。元通りになる。それでは説明のつかない、この感覚。肉体が、あまりにも瑞々しすぎる。どれほど泥に濡れて、鉄臭い血を浴び、命を削るような特級任務をこなしても、翌朝の鏡に映る俺は、高専にいた頃と何ひとつ変わらない顔をしている。
指先のタコの位置も、肌の質感も、髪の色も。
自分という存在だけが、世界から切り離されて固定されているような感覚。この違和感に「不老だから」という正しい理由が付け加えられたとき、世界から音が消えて行くような気がした。視界がモノクロになった。
俺は人間じゃない。それは、ずっと前から知っていたことだったはずなのに。
「…………っ、……はは、」
乾いた笑いが漏れる。
今夜は一週間ぶりの帰宅のはずだった。いつもなら、彼女にすぐ連絡して、全速力でマンションに向かっている頃だ。カーテン越しに漏れるリビングの明かりを見つけて、「ただいま」を言う瞬間を心待ちにして、そして玄関で彼女を抱きしめる。そういうことが、たまらなくしあわせだったはずだ。
でも今、俺はスマホを握りしめたまま、まだ動けないでいる。薄暗い橋の上。ここはどこだったっけ。水面は月明かりを反射して、ゆらゆらと光っている。川の流れも、淡い光でさえ、不変ではないのに。
俺の時間だけが、止まってしまった。
「………どう説明しろってんだよ」
宿儺の器、呪胎九相図。彼女に伝えなければならないのは、そういうことじゃない。
ずっと一緒にいると、しあわせにすると約束したのに、それは叶えられそうにないこと。普通のしあわせは俺には作ってあげられないこと。一緒に歳をとることすらできず、彼女の隣にいる自分の不相応さが増していくだけだということ。
口にすれば、それは本当に現実になってしまう。俺は彼女の呪いになってしまう。もうだめだ。足が動かなかった。
振り返る。視線の先には、暗い闇が続いている。気が遠くなった。数十年後訪れる、彼女のいない人生。俺の寿命が、正確にどれくらいなのかはわからない。でも、彼女のいない時間の方が圧倒的に長いのだろうということはわかる。
いつか彼女を永遠に失う。失ったまま、ひとりのまま、終わらない気の遠くなるような永遠を生きていく。
俺の周りだけ酸素が薄くなったみたいに、呼吸が苦しくなる。喉からひゅ、と細い息が漏れる。フードを被り直そうとしたそのとき、ぽつり、と頬に冷たいものが当たった。
雨だ。
瞬く間に強くなる雨が、俺の身体を、服を、鉄臭い記憶を濡らしていく。すぐにパーカーが水を吸って重くなる。それでもその場から動けなかった。
ポケットに手を入れると、カチャリと何かに当たった。彼女と暮らす部屋の鍵だった。
「………こんなんで帰んの?俺」
この鍵を回せば、その向こうにはあの子がいる。石鹸の匂いや、あたたかいごはんの匂いがある。そして「おかえり」と駆け寄ってくる、世界で一番いとしい女の子。それは、こんな自分には全部不相応すぎる。
もう、帰れない。
どんな顔をして会えばいいのかわからない。打ち明けることも、打ち明けないでいることも耐えられない。でも、俺の口から話さなくても、いつか誰かからあの子は真実を知るだろう。その方がマシだとさえ思った。こんな残酷な裏切りに遭う彼女の顔を、俺はどうしても正面から見られない。悲しむ顔を見たくない。嫌われたくない。こんな俺を、あの子はどう思うんだろう。足は、マンションとは逆の方向へ向いていた。
視界が雨で白く煙っていく。俺を呼ぶ彼女の声を、いつもの癖で反芻してしまう。すぐにかき消した。行くあてはない。とにかくあの子のところじゃない、どこか。
スマホが震えた。彼女からだ。「帰れそう?」の文字。通知でそれを確認して、でも開けなかった。雨音に紛れて、自分の心臓の音だけがやけに大きく響く。
ロック画面はすぐ、着信画面へと切り替わる。表示された彼女の名前。心臓が、自分でも嫌になるくらいドクドクと煩く跳ねた。指先が震える。傷だらけのまま、それでも何一つ変化していない、瑞々しすぎる怪物の手。スライドしようとする指が、躊躇われた。それでも、動いてしまった。
「……っ、」
通話が繋がる。スピーカーから、雨音を切り裂いて、微かな吐息が漏れた。
『……もしもし? 悠仁くん?』
いつも何度も反芻してきた、大好きな声。少し不安そうで、けれど俺を待ってくれていることがわかる、あまりにも純粋な響き。
『聞こえてる? もしもし? ……悠仁くん、大丈夫?』
大丈夫なんかじゃない。助けてほしい。俺を人間に戻してほしい。一緒にいてほしい。
喉の奥まで出かかった悲鳴にも似た本音を、奥歯を噛み締めて飲み込んだ。呪いをかけたくなかったから。無言のまま、ただ雨音だけを彼女に聴かせていた。
受話口から聞こえる彼女の、三度目の呼び声。
この声も、いつか忘れてしまうんだろうか。
(………ごめんな)
声にならない告白は、雨の冷たさに混ざって、すぐに消えた。彼女が次に言葉を発する前に、震える指で赤いボタンを押す。通話は断ち切られた。
世界から、また音が消えていく。
もう一度フードを深く被り直す。暗い夜道へと足を進める。


アスファルトを叩く雨が、俺の足跡を消していく。激しい雨に、世界は白んで靄がかかったように見える。
いっそのことそのまま俺のことも、誰の記憶からも消し去ってくれたらいいのにと、思った。

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2026-04-11