海のうた

それは、時には指先が触れるだけだったり、手が繋がれたり、不意に思い切り抱き締められたり。
同じ空間にいるときはいつも、身体のどこかが触れている。そうしてほしいと強くはっきり求められたことはないけれど、それが悠仁くんが安心するやり方なのだと思うから、わたし自身も無意識にそうするようになった。

それは冷たい風が吹き荒ぶ、寒々しくて寂しい夜だった。
わたしたちは身体同士をくっつけて、ぼんやりとテレビを観ていた。ただ眺めていた、と言ったほうが正しいかもしれない。内容は頭に入ってこなくて、なんだか輪郭の掴めない外の出来事を、世界の内側から眺めているようだった。現実味のないニュース、にぎやかなバラエティ番組、そして対比するように思い出される、術師として見てきた風景。
悠仁くんはわたしを後ろから抱き締めて、頭の上に顎を軽く乗せている。いつもそうするように。お互い任務が忙しかったから、ひさしぶりにすれ違わずに過ごせる夜。
寂しかった、というメッセージなのか、悠仁くんの抱き締める力はいつもより強い。時々後ろから名前を呼ばれるから、そのたびに返事をする。でも彼はそれ以上、なにも言わない。ただただそうやって、相槌がほしいというように、ゆっくり静かに、わたしの名前を呼ぶ。まるでわたしの存在を確かめるみたいに。
何度も何度も返事をした。ぎゅうぎゅうと、その力は収まるどころかどんどん強くなっていく。そのうち耳を甘噛みされたり、首筋を軽く吸われたりするから、ついに我慢できなくなって、わたしの方から名前を呼んでみた。
「悠仁くん」
「ん」
「くすぐったい」
「……んなあ、」
「うん?」
「こっち向いて」
「わ、」
それに返事をする前に、悠仁くんはわたしの身体を軽々と持ち上げる。そうして向かい合わせの形で、座り直すことになった。悠仁くんの体温や吐息が余計に近くなったような気がする。
「テレビ観えないよ」
いまそんなことは必要ないとはわかっているけれど、つい恥ずかしくてそう言ってしまう。目を逸らす。すぐに悠仁くんの両手が頰に伸びてきて、緩やかに正面を向かされてしまった。
「なんか悲しい顔してんね」
「……そうかな、」
「時々さ、その顔すんの。どして?」
優しく、その指の腹でわたしの頬を撫でる。こちらを見つめる瞳があまりに真っ直ぐだから、思わずまた目を逸らしてしまう。
わたしの大好きな、彼の瞳や鼻、唇、彼を構成するその全て。それらが確かにここにある。そして、額や口元に刻まれた傷跡も。
傷跡がつけられた経緯については、もうお互い話題にすることはなかった。思い出したくないことが多すぎるから。
それでも、言葉にすることはなくても、彼を見つめるとき、ふと表情を伺うとき、その傷跡が目に入るたび、心がチクリと痛む。そのことを、特に彼に伝えたことはなかった。
「……その、悠仁くんの顔の傷」
「ん?…あ、これね」
「見るといろんなことを思い出すから…ちょっと悲しくなる」
たぶん、伝えない方がよかったのかもしれない。それはどうしようもないことだから。そしてどうやっても忘れられないことだから。悠仁くんは少し驚いた顔をして、でもすぐに穏やかに笑った。
「そんなこと考えてたん?」
「…ごめんね」
「謝らんでよ」
「……うん」
「おれこそ、辛いこと思い出させてごめんな」
そうして目尻を拭われて初めて、涙が無意識に溢れ出ていたことに気づいた。
「ごめんね、こんな話したくなかったのに」
「いいよ、全然悪いことじゃない」
「…うん」
けれどわたしは、悠仁くんに眠れない夜があることを知っている。失った大切な人たちのことがふと思い出されて、胸が詰まる瞬間があることも知っている。それはもう取り消せなくて、これからもその胸の痛みを手放さずに生きていくつもりでいることも、知っている。
きっとわたしの考えていることは伝わっているのだと思う。悠仁くんの唇が、髪やおでこ、まぶた、目尻、色んなところに降りてくる。わたしの不安を溶かすように、体温を移してくれる。
「でもさ、おれの顔よく見て?」
溢れて止まらないわたしの涙を拭いながら、悠仁くんは優しく笑った。
「おれの顔さ、#name#のこと好きーって顔、してない?」
「……うん、してる、かも」
そう答えたら、悠仁くんは本当に嬉しそうに笑った。ああこの人は、わたしのことが本当に好きなんだ、好きでいてくれているんだ、とちゃんとわかる、そういう顔。
嬉しくて幸せで、でも全部がずっと悲しくて寂しくて、色んな感情が混ざってうまく整理できないわたしの心を、悠仁くんは優しく包み、肯定してくれる。
「ね、だからそんな顔せんで」
そう言ってふわりとわたしを抱き寄せ、鼻と鼻をつん、と合わせてくれた。真っ直ぐ見つめてくれるその茶色い瞳は、表面がゆらゆら揺れている。悠仁くん、泣かないで。言葉に出さなくても、見つめ合うだけで伝わるとなんとなくわかっていた。
ありがとう、どこにも行かんでね。
美しい彼の瞳の中の海が、そう言っている。
わたしはゆっくり瞬きをして、ずっと一緒だよ、と返す。

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2026-02-07