波は夜明けを照らすから

あれからどのくらい時間が経ったのか、正確に思い出せない。ただ淡々と、何度かの夜を過ごした。歩みを止めると余計なことを考えてしまって立っていられない。だからひたすら脚を動かした。夜はちょうど良い。何も考えず、とにかく呪霊を祓うことだけに集中できる。とにかく淡々と祓い続けた。気がつけば視界からは色が消えていた。
肺に流れてくる空気は重く、刺すように冷たかった。正しい呼吸の仕方を、いつかみたいに忘れてしまった。無理やり吸い込むと喉の奥がひりつき、窒息するような感覚がずっと続く。それでも、生きている。俺だけが変わらないまま。
「……はぁ、……はぁ、」
拳の皮が剥け、関節がひび割れても、反転術式は使わなかった。傷ついた俺の拳を、いつも心配そうに触ってくれた彼女の瞳を思い出して、胸が潰れそうになる。それでも、不思議と物理的な痛みは感じなくなっている。もう何も感じない。それが一番、楽だと思った。

今夜も暗闇の中、ただひたすら呪霊を祓い続けていた。どれだけの距離を歩き、どれだけの呪霊をこの拳で肉塊に変えてきたのか、もうわからない。その残穢だけを追い続けて、眠ることなく動き続ける。ここはどこだろう。そんなことすらわからなかった。でもそれでいい。夜の底を這うような冷たい風が、ボロボロになったパーカーの隙間から、熱を帯びた肌を容赦なく撫でていく。
こうやって生きていれば、きっといつか全てを忘れて、呪いを祓い続けるだけの部品に戻れるだろう。それが今、俺が望んでいることだ。そもそも、それでいいと思ってたんじゃないのか。そうやって自分に言い聞かせ続けた。
「……もう帰らないって、決めたんだろ」
ポケットの中、スマホはいつもそんなタイミングで震えた。数日経った今でも、それは鳴り止まなかった。画面を点灯させれば、いつかの彼女の笑顔が映る。もう帰らない、会わない、そう決めたのに、その笑顔はこの決意を簡単に揺らがせる。電源を切れば良いのに、それはできなかった。どうしても電源ボタンを押せなかった。時々襲ってくる過呼吸に対抗できるのは、そこに映る彼女の笑顔だけ。俺に呼吸を促してくれた、あのやさしい声。会いたかった。
ここはどこだ。
アスファルトを叩く無機質な足音が突然、湿り気を帯びた砂を掴む軽い音に変わる。思わず足を止めた。鼻腔を掠めるのは、呪霊の焼けたような悪臭ではなく、重くて冷たい潮の香りと、深い夜の匂い。

かつて彼女と一緒に見た、ここはあの海だった。

視界の先、まだ太陽が顔を出す前の海は、巨大な灰色の質量として横たわっている。打ち寄せる波の音。それは何百年も、何千年も変わらず、これからも永遠に続く。
自分の身体も、こいつと同じ。だったら海に溶けて、このまま消えてしまいたかった。内臓が凍りつくような喪失感。
裸足になって砂浜に立つ。冷たい潮風が、傷だらけの頬をなぞる。
「こんな経験、今までだってしてきただろ。大丈夫なはずだろ」
自分に言い聞かせるように呟いた声は、海鳴りにかき消されていく。失うことには慣れている。俺はそういう人間だ。いつものことだと思って、何も感じずに受け入れればいい。ただそれだけなのに。
「……会いたい」
彼女の匂い、彼女の体温、俺の名前を呼ぶやわらかな声、肌の感触、いつもやさしく見つめてくれた瞳。全部、この波に洗い流してほしかった。無理やり目を閉じて、思考を真っ黒に塗り潰そうとする。それでも、 忘れようと足掻けば足掻くほど、彼女の断片は心に留まり続ける。その繰り返し。
記憶は、永遠には留まれない。こんなふうにありありと思い出せる彼女の記憶も、きっといつか手のひらからこぼれていく。彼女もいつか、俺の声を、俺の体温を、そっと忘れていく。そう考えるだけで、胸の奥は張り裂けそうになるほど痛んだ。
波はただ無慈悲に、俺の足元を濡らしては引いていく。 もう二度と、朝は来ない。来なくていい。それがわかったら、もうここに留まってはいられない。だから立ち去ろうとした、その時。
「……悠仁くん」
背後から届いたのは、やわらかい、でもはっきりとした声だった。
俺の心臓が、一度止まってから激しく跳ねる。
会いたすぎて、ついに幻聴が聞こえるようになった、のか。振り返るのが怖かった。もしこれが幻だったら、本当に俺は、どう生きていいかわからなくなってしまう。
「……#name#」
震える身体を無理やり動かして振り返る。その瞬間、ドミノが倒れるように、朝が広がっていく。その逆光を浴びて、彼女はそこに立っていた。
やわらかい髪を光が透かして、輪郭がぼんやりと光っている。
天使がいる。素直にそう思った。
「……なんで」
彼女は泣きそうな顔で、でもいつものように、やさしく笑った。俺も泣きたくなるくらい、かわいかった。
「なんとなく、ここにいると思ったから」
その小さな歩幅が一歩、こちらに近づく。反射的に後ろに下がる。
「……来ちゃだめだ、」
声を絞り出す。拒絶したくないのに、これしか選択肢がない。どう説明すればいいのかわからなかった。
「もう一緒にいられない」
「どうして」
「……おれにはそんな資格ない、から」
「……それは、悠仁くんが不老だから?」
彼女から出た言葉に、息が止まる。朝日が眩しくて、視界が滲む。直接説明できなくて逃げたのに、知られてしまったことに動揺を隠せなかった。この子の目に、俺はどう映っているんだろう。人間ではない何か。永遠を彷徨う、可哀想な何か。
「聞いたよ、ちゃんと知ってるの。……でも、そんなことどうでもいいよ」
「……よくねえよ」
「悠仁くんがひとりで背負い込もうとしたことの方が、わたしは悲しい」
彼女は一歩ずつ歩み寄ってくれる。その目尻の赤み、潤んだ瞳の茶色、そして彼女を包む朝日の黄金色。彼女と自分のコントラストを突きつけられたみたいだった。
「これがどういうことか、#name#はわかってない」
「わかってるよ」
「……わかってない。おれと一緒にいたら、#name#を不幸にする。おれは人間じゃない。もうわかっただろ」
喉の奥から溢れ出した言葉に、自分が押し潰されそうになる。どうあがいても変えられない事実が、自分の胸を強く刺す。
「だから勝手にいなくなっちゃったの?」
「……もう会わないつもりだった」
彼女の瞳は真っすぐで、変わらない。
「……じゃあどうしてスマホの電源、切らなかったの」
「……」
「離れたくないって、思ってくれてたからなんじゃないの?」
図星だった。喉の奥が熱くなる。
「おれは、」
「……うん」
「出会わなきゃよかったって、思ってた。こんな思いするくらいなら。それぐらい好きだから」
絞り出した声は、潮風に震えて消えそうだった。出会わなきゃよかった。こんなに好きにならなきゃよかった。そうすれば、終わらない永遠に絶望することも、彼女を独り置いていく未来に怯えることもなかったのに。上手く声が出ない。また呼吸の仕方がわからなくなる。吸う息が雑に音を立てたとき、彼女の小さな手が俺の手を握った。
「悠仁くんがいなかったら、わたし寂しいんだよ。不幸になっちゃう」
「……だめだって」
「ずっと一緒にいて。一人じゃ危ないからっていつもみたいに迎えに来て。一緒にお風呂入って。ぎゅってして眠って。ずっと変わらずそばにいてほしいよ」
「……っ、だめだ。やっぱり、だめなんだよ」
彼女の細い腕を、振り払うように自分から引き剥がした。一歩、また一歩と後ずさる。砂を掴む足先が冷たい。
「しあわせにするって、約束した。なのに、おれは一緒に歳をとることもできない」
朝日に照らされた自分の手を見る。呪霊を殴り殺し、返り血を浴びても、反転術式を使えば時が戻ったようになるこの、怪物の手。
「#name#は、いつか……いつか、おれを置いていくんだろ」
想像しただけで、また喉の奥がせり上がるように熱くなる。一番卑怯で、一番醜い本音。
「そんなの……耐えられんよ。これ以上、#name#の時間を呪いたくない」
「……わたしは、悠仁くんが隣にいないと嫌なんだよ」
「……でも」
「わたしの隣にいて。それが悠仁くんの役目だよ」
彼女の腕が再び伸びて、俺の身体をぎゅっと抱きしめた。懐かしいにおい、体温。いつだって彼女は、こうやって俺の呪いを解いてくれた。それはわかってる。なんてことのない生活の断片ややさしさを、いつも並べてくれた。好きで好きで仕方ない。だから一緒にいられないのに、好きだから一緒にいたい。離れられない、離れたくない。そんなこと、できるはずがない。目の奥も喉の奥も、全部が熱くて、流れ出るそれは抑えられなかった。
「……ずりいって、そんなの」
「悠仁くんは、自分を大事にするのがまだ下手だから。だから、一緒に練習しよう」
視界が歪む。彼女はやさしく笑っている。その首筋に顔を埋めて、深く、長く、息を吸い込んだ。
「……好き」
「うん、…わたしも好きだよ」
「……怖い」
「うん、…怖いね」
「……すげえ怖いよ、」
掠れた声で紡がれたその告白は、潮風に混ざって、静かに波間へと溶けていった。 出会わなきゃよかったなんて、そんなの全部嘘だ。この子が好きだ。涙が止まらない。
俺の血と泥に汚れた拳を、彼女は嫌がる素振りも見せず、自分の頬にそっと押し当てた。その肌は滑らかで、あたたかった。俺を縛り付けていた怪物の自意識が、音を立てて解けていく。
「悠仁くん」
彼女が笑う。灰色だった世界に色がつく。怖いくらいに。透けて光る髪、白い肌、潤んだ瞳の、深い琥珀色、俺の手を包み込む彼女の真っ白な指先。やっぱり天使みたいだ。
気がつけばお互いの瞳に姿が映るくらい、その距離は近かった。彼女の目尻はまだ赤い。
「……好きだよ」
触れた唇は柔らかくて、そして熱い。懐かしかった。何度も何度も、確かめるように角度を変えて食む。 鉄臭い戦いの記憶、終わらない夜の恐怖、そういうのを全部かき消すみたいに。彼女の微かな熱は俺の身体の奥深くまで伝わって、ちゃんと生きているのがわかった。
視界の端で、海が目覚め始めている。寄せては返す波。
不安や悲しみ、絶望はきっと、この先もなくなることはない。それはこの波みたいに、時々不意に押し寄せては、無理やり俺を押し潰そうとするだろう。足を取られて、立っていられなくなる日だって、きっとある。でも、隣に#name#がいる。
彼女は夜明けだ。
その光で、絶望の波を眩しく照らしてくれる。好きで好きで仕方ない。大好きだ。それしかない、何も持たない俺の手を、握り返してくれる手がある。それだけで十分なのかもしれない。

いつかひとりで、永遠の先に立つ時がくる。それは決まっていて、変えられない。
その時もきっと、俺はこの光を思い出す。ずっと忘れない。
それだけで、生きていけると思った。
やっと唇を離すと、また彼女はふんわり笑った。

「……おかえり、悠仁くん」
「……ただいま」


波は夜明けを反射して、キラキラと光っている。

2026-04-23