数日ぶりに浴びる自宅のシャワー。熱いお湯と一緒に、身体中にこびりついた呪霊の不快な残穢が、ゆっくり足元へ流れていく。
「……い、…っ」
排水口へと吸い込まれていく赤く濁った水を見つめながら、壁に片手をついて深く息を吐き出す。反転術式で急ぎ塞いだはずの脇腹が、お湯の熱を吸って内側からズキズキと鈍い痛みを主張し始めた。治し方が雑だと、よく言われる。でも自分の治療にあまり興味がないから仕方ない。五体満足で動ければ無傷みてーなもん。この程度の痛み、寝たら忘れる。
濡れた手で棚にあるボトルをプッシュする。手のひらで泡立てたシャンプーからふんわりと広がったのは、彼女がいつも使っているのと同じやさしい石鹸の匂い。色んな思い出のつまった匂い。頭の奥でキーンと鳴り続けていた戦場の残響が、ようやく遠ざかっていくのが分かる。髪を洗い、顔を容赦なくお湯で流して、タオルで雑に水分を拭き取る。
浴室のドアを開け、リビングへと戻る。キッチンに立つ彼女が振り返って、頬を膨らませた。
「悠仁くん、服着てっ」
「ごめん、Tシャツなかったんよ」
服なんてどうだっていい、そのまま後ろからそっと腰に腕を回して、その小さな肩に顎を乗せる。彼女はもう、と怒ったけど、でもそれ以上は何も言わなかった。
「なに作ってんの」
「えっとね、ハンバーグ。悠仁くんが好きって言ってくれてたやつだよ」
「お、おれが世界一好きなやつだ」
トントンとリズムよく響くまな板の音。細かく刻まれていく玉ねぎ。ボウルの中でひき肉を捏ねる、白くて小さな彼女の手。
「……手、ちっちゃい」
自分の大きな手なら簡単に包み込めてしまうサイズの、傷ひとつない綺麗な指先。捏ねる手を止めて不思議そうに振り返った彼女の、薄力粉や肉の脂でほんのり汚れた右手を、自分の大きな手のひらで下からそっと掬い上げた。一本ずつ、丁寧に指の隙間を埋めるように指を絡めていく。
「……何日ぶりだっけ、会ったの」
「1週間ぶり、だよ」
その声にちゃんと寂しさがはらんでいたこと、聞き逃さなかった。
俺の仕事は不規則で突発的で理不尽で、そして命の危険がある。誰かが代わりにできるものでもない。そういうことを、事細かに説明したことはなかったのに、彼女はいつの間にかわかっていた。常習化する急な呼び出しにも、何日も家を空ける戦いにも、何も言わない。「いってらっしゃい」も「おかえり」も、いつも穏やかでやさしいのだ。
彼女の白い首筋に、甘えるようにそっと鼻先を寄せる。ふんわりと広がるあの石鹸の匂いと、確かな心臓の音。この体温が、いつも俺を日常に呼び戻してくれる。
「……そんなにくっついたら、作れないよ」
「んー、…やだ。離れたくねえもん」
半分は本気で、半分は甘え。さらに力を込めて、指の隙間をぴったりと埋めていく。首筋から鼻先を離して、今度は小さくて赤い耳たぶに唇を寄せる。くすぐったそうな彼女の声が、キッチンにあまく響く。振り返った彼女は捏ねるのを諦めて、ぬるりとした手のひらを器用に避けて、手の甲で俺の頬をそっと撫でてくれた。その指先のあたたかさに、胸の奥がそっとほどけていく。
「……会いたかった」
「うん、わたしも」
目の前のやわらかそうな唇に、思わず吸い込まれそうになった、その時。
リビングのソファーの上に放り出してあったスマホのバイブレーションが、激しく、理不尽に鳴り響いた。
「……まじか」
思わずため息が出る。帰宅してから2時間しか経っていない。
彼女の身体からゆっくりと腕を離し、キッチンから数歩下がる。ソファーで震えるスマホを取り上げた。画面に表示されるのは、見慣れた補助監督の名前。俺の意識スイッチは強制的に切り替わり、「呪術師」としての冷酷で透明なそれになる。
「……もしもし」
思ったより自分の声は低く、掠れていた。電話の向こうから聞こえてくるのは、緊急の特級案件、すぐに向かってほしいという緊迫した声。誰かが代わりにできるものでもない、命の危険を伴う現場への呼び出しだ。あと10分もしたら、このマンションまで到着するという。断る余地はない。短く返事をして、電話を切った。
「……呼び出し?」
気がつけば彼女はすぐ後ろにいて、心配そうな瞳でこっちを見つめている。
「……ごめん」
「ううん、大丈夫。もう行くの?」
「……うん、すぐ来るらしい」
「そっか、準備手伝うね」
彼女は寂しそうな色をほんの一瞬だけ瞳に浮かべたけれど、すぐに笑顔になった。というより、笑顔を作った、と言うべきなのか。出張の用意を手伝ってくれるその手際があまりにもよくて、それが切ない。でも謝れば余計に、彼女を困らせることになるとわかっている。謝ったって、仕事に行かなくてよくなるわけじゃない。そんな顔させたくないのに。
玄関に立って、いつものように仕事用のパーカーを羽織った。最後に強く、抱きしめようと思った。
「じゃあ、行ってくるな。なるべく早く帰るから」
「……うん」
「……#name#?」
「……悠仁くん」
俺を呼ぶ小さな声が聞こえたかと思うと、パーカーの裾が、ぎゅっと強い力で引っ張られた。今までにない強い力。驚いて動きを止めると、彼女がそのまま、俺の胸元に顔を埋めるようにして、正面からしがみついてきた。細い腕が、俺の腰を折れそうなくらいの力で抱きしめている。
「ど、どうした?急に」
突然のことに心臓が跳ねる。戸惑いながらも、そっとその腕をほどこうとした。ちらりと時計を見る。補助監督の車が下で待っているはずの時間。彼女は頑なに俺の胸に顔を埋めたまま、小さな頭を左右に振って、腕の力をさらに強めた。こんなことは初めてだった。
「……やだ」
「え、……」
「やだ。……行かないで」
鼓膜に届いたのは、今にも消えてしまいそうな、掠れた、泣き出しそうな声。心臓が、ドクドクと不規則に暴れ始める。いつも笑顔で送り出してくれる彼女の、子どもみたいな引き止め方。
「……#name#ちゃん」
「……見えたの」
「ん、?」
「……いま、着替えるとき、お腹の傷が見えたの。まだ、治ってないの……?」
掠れた声で、彼女は俺の胸に顔を埋めたまま、堰を切ったように言葉を溢れさせた。
「あんなに、あんなに酷い怪我、まだ治ってないのに……またすぐ、危ないところに行くの? なんで……?」
誰かが代わってくれないの、そんな声が消えるように聞こえた。小さな肩が激しく上下して、俺の胸元があっという間に彼女の涙で濡れていく。胸の奥がキリキリと音を立てて軋んだ。確かにまだ痛む、脇腹の傷。
「こんな怪我くらい、平気だから。な?おれ、これでも結構強いし、すぐ治せるから。だから大丈夫なんよ」
そんな言い訳は、彼女には届かなかった。涙は止められない。それでも安心させたくて、必死にそう言葉を紡いだ。治るんだから、問題ない。痛いのは一瞬だけだから、心配いらない。呪術界では当たり前のロジック。
「……違うの」
「ん?」
「治せるからいいとかじゃないの……悠仁くんが、痛い思いするのが嫌なの」
その言葉に、ぎゅっと、胸が潰れそうになる。鼻の奥がツンとなる。かわいい。かわいくて、いとしい。
「……そんな風に思ってくれてたん?」
そっと腕を回して、その小さな背中をとんとんする。それに押し出されるように、彼女の言葉は続いた。
「……ほんとはぜんぶ、いやなの」
「……うん?」
「また怪我しちゃうのかな、とか、強いから暗いところでずっとひとりで頑張らなきゃいけないのかな、とか、いつも考えちゃうの。行ってほしくない。ひとりなのも、ぜんぶいやなの」
そんなん、ずるい。
俺の中で、何かが確実に音を立てて砕け散る。 呪術師として、強いからとか、治せるからとか、そんな適当な理由で切り捨ててきた自分の痛みや孤独。後回しにして軽視してきた、そういうもの。それを、彼女は自分自身の痛みとして受け止めて、今目の前で、涙を流してくれている。
「……あー、もう」
彼女の細い身体を、壊れないように、でもこれ以上ないくらい強く抱きしめ込んだ。
「……いやだよなあ、そうだよな。いっつも我慢してくれてたんだもんな。やだよなあ、……うん、ごめんな」
彼女の涙はパーカーの胸元にどんどん染み込んで、その熱は直接肌に伝わってくる。
「でも、#name#ちゃんがそんなふうに思ってくれてるから、おれはどこにいたってひとりじゃねえよ」
「……でも」
「怪我はさ、…するときもあるけど、ちゃんと治す。すぐ治すって、約束する」
「……うん」
「……#name#ちゃんは、やさしいな」
ふと笑うと、彼女は目を赤くしたまま、顔を上げた。
「やさしくないよ、…こんなのぜんぶ、わがままだよ」
「別にわがままなんかじゃねえよ」
親指の腹で、そっとその涙を拭う。世界で一番、しあわせだと思った。
「……こんなときに、わがまま言ってごめんね」
その瞳から、また大粒の涙がぽろぽろこぼれていく。かわいい、好き。ぐっと胸の奥から感情がせり上がってくる。視界が熱くなるのを隠すように、彼女の目元やおでこに、おまじないみたいに何度もキスを落とした。
「なんで謝んの、謝らんでいいよ、……おれ、嬉しいんよ」
彼女はまだ、不安そうにじっと見つめてくれている。かわいかった。
「わがまま言われたいっていうのが、おれのわがまま。 だから、もっとおれのこと困らせて」
「……そんなの、変だよ」
「うん、変かも。…でもさ、好きだから。変でもいい」
俺は、この子のこういうところが大好きなんだよなあ。
「いやって言ってくれたの、嬉しかった。…いつも待っててくれて、ありがとう」
「……うん」
「いつだって、#name#ちゃんのこと考えてる。絶対生きて帰るって、思える」
「……うん」
「泣いてる顔もかわいいけど、…今は笑った顔が見たいからさ」
そう言うと、彼女は恥ずかしそうに、でも安心したように少しだけ柔らかく笑った。泣きたくなるくらい、かわいい。
ピピ、とスマホが通知を鳴らす。たぶん、補助監督が下に着いた合図。 そろそろ、本当に行かなきゃならない。抱きしめていた腕を解き、その頬を両手で包んで、真っ直ぐ瞳を見つめた。
「約束する。#name#ちゃんが泣くような痛い思い、絶対にもうしねえから。ちゃんと帰ってくるから」
「……うん」
「んでさ、帰ったらおれがわがまま言う番。な?」
手のひらにぐっと熱を込めて、ゆっくりと顔を近づける。お互いの鼻先が触れる距離。彼女の小さな吐息が俺の唇をくすぐる。そのまま、吸い寄せられるように、でも確かな意志を込めて、そのやわらかな唇を塞いだ。あまい。 指でその輪郭を撫でながら、彼女が息をしやすいように首を傾けて角度を変える。一番深く、苦しいところまで溶け合いたかった。
「ん、っ……、……」
彼女が小さく息を呑む。そして漏らされる吐息。その変化が、唇越しにちゃんとわかる。苦しそうに息が揺れ動いたら、一瞬だけそっと力を抜いて、隙間からあたたかい空気をあげる。そうやって息ができたら、そのあまい吐息ごと吸い上げるみたいに、またもっと深く、重く、彼女の唇を食む。腰を引き寄せて、背中を優しく撫で上げる。止められなくなるギリギリのところまできてしまう。
「…………っ、……ん、」
ゆっくりと唇を離すと、静まり返った玄関に、粘膜が離れる甘い音が響く。 彼女の耳は赤かった。潤んだ瞳、かわいく濡れている唇。
「……いまの、お守りな」
「……ずるい、悠仁くん」
「帰ったら、続き」
彼女の潤んだ唇をもう一度だけ、指先でそっとなぞる。今度こそ、彼女の温かい手を離す。
「ちゃんと帰ってくる。待ってて」
「うん、……待ってるね」
ドアが静かに閉まる。
エレベーターに乗り込み、エントランスを出ると、初夏の生ぬるい夜風が容赦なく頬を撫でた。車に乗り込む。
遠ざかっていくマンションの明かりを見上げながら、パーカーのフードを深く被る。まだ彼女の甘い匂いが残る唇を、そっと舌でなぞった。