ベランダに出ると、あたたかい春の風が火照った肌をなでて通り過ぎた。手元にあるのは、冷蔵庫から発掘してきたビールの冷えた缶。プルタブを引く小さな音さえ、奥のベッドで眠る彼女を起こしてしまいそうで、俺は無意識に息を潜める。
「………っはぁ」
一口飲み干す。喉を焼く刺激と一緒に、身体の芯に残っていたアドレナリンがゆっくりと溶けていく感覚がした。多分もう、大丈夫だ。ほっとした。
任務で長い間術師として行動していると、自分のエネルギーやアドレナリンの扱いに苦労する。下手くそな自覚は、あった。どちらかというと、拳を振るっている間は妙に落ち着いている。余計な感情が湧き起こらない。自分が持つ力や能力を効果的に効率的に使って、ただひたすら目の前の呪霊を倒す。そのことに集中している。問題はそのあとだ。
任務の期間が長ければ長いほど、興奮した状態の脳や身体がなかなか落ち着かなくて、どうしようもなくなってしまう。眠ればどうにかごまかせる気がするのに、興奮状態で眠れない。どうしてもひとりではいられない。感情を殺して動いていた反動が来る。それが怖かった。だから早朝だろうが深夜だろうが、時間に関係なく彼女の元を訪れてしまう。それでも彼女は俺を迎えて、やさしく抱きしめてくれる。要はあの子に、甘えているのだ。
「……だからってさすがに、やりすぎだ」
振り返る。レースカーテンの光の隙間から、ベッドで無防備に眠っている彼女の姿が見える。それだけで安心した。彼女はここにいる。白い肌にうっすら散らばる赤い痕が見える。
悠仁くん、おかえり。……ん、ただいま。
そのやりとりをしたことは、ちゃんと覚えている。あとは驚いて制止する彼女の声を無視して、本能のままにその身体を貪った。無我夢中だった。帰宅できたのは朝の4時で、起きたばかりの彼女の首筋に顔を埋めて、その甘い匂いを吸い込むだけじゃ足りなくて。何度も何度も、自分の痕を残すように唇と歯を寄せた。俺の手の下で赤く染まっていく彼女の肌。柔らかな胸元や、震える内腿。触れるたび、彼女が高い声を漏らして、俺の名前を呼んでくれる。生きていることを実感できる。彼女が触れて、呼んでくれないと、俺は自分の輪郭を確かめられない。
「……悠仁くん?」
寝室の方から微かに、彼女の声がする。俺の名前を呼んでいる。
「ベランダいるよ、こっちおいで」
呼びかけると、すぐに彼女は嬉しそうにカーテンから顔を出した。かわいい。寝起きの顔。俺のTシャツを無造作に被せられた状態で、まだふわふわしている。
「……起きちった?まだ休んでていいのに」
「ううん、…目が覚めたら悠仁くんがいなくて」
眉を下げて笑う彼女に、胸の奥がキュッとなる。
「ごめんな。桜咲いてんなと思って、見てた」
その細い腰を抱き寄せる。ささくれだった自分の手が、彼女とひどく不釣り合いに思えて、反射的に少しだけ力を緩める。
「大丈夫だよ」
何も説明していないのに、彼女はそう言ってやさしく笑った。ちょうど爽やかな風が吹いて、背後に花びらがちらちらと舞う。呼吸を忘れそうになる。風が起こるたびに、数枚の花びらがスローモーションのように視界を横切る。それが本当に綺麗で、鼻の奥がツンとした。
ほら、と指を指す。ベランダの向こうに、ちょうど咲き始めた桜が見えるのだ。
「ほんとだ、咲いてるね」
「もう春なんだな」
柵に置かれたビールの空き缶。そこに付着した水滴が、春の生ぬるい風に撫でられて、音もなくアルミの肌を滑り落ちていく。
「……悠仁くん、大丈夫?」
彼女の、まだ眠気を孕んだ柔らかな声。Tシャツの袖から覗く白い腕が、冷え始めた空気にさらされて、ほんのりピンクに色づいている。それを眺めていると、任務から引きずってきた最後のアドレナリンが、静かに、けれど完全に胸の奥から溶け落ちた気がした。
「ん、……大丈夫。あんまり綺麗だったからさ」
「もうすぐ満開だもんね」
俺が言ったのは、桜の話ではなくて。それは言わずに、吸い寄せられるように彼女の背後に一歩寄り添った。そのままゆっくりと腕を彼女の華奢な肩へと回し、後ろから包み込むように抱きしめる。
「……ちゃんと桜見てる?」
「ん、見てるよ。#name#ちゃん越しに」
「……見てないでしょ」
「桜もいいけど」
「うん?」
「#name#ちゃんの方が綺麗で、いい匂いがするから、おれはすき」
「……もう」
「本気で言ってんだよ」
顎を彼女の肩に乗せ、その首筋に鼻先を寄せた。よく知っている柔軟剤の香り、シャンプーの香り、そして彼女自身の甘くてあたたかい、生きた匂いがする。俺の匂いもかすかに混じっていて、それは早朝のセックスのせいで、だから安心した。
「……おれの匂い、消えてねーわ。……ごめん、うれしい」
この子は俺の腕の中で、確かに生きている。彼女のひと呼吸で、すべてが鮮やかな光で上書きされていく。
「……今朝はごめん。無理矢理起こして」
「ううん、平気」
「でもさ、」
「会えてうれしかったもん」
「……………………はーー…もう」
思わずぎゅっと、抱きしめる力が強くなってしまった。
「たぶん普通はさ、怒るんよ。#name#ちゃん怒んねえの、なんで」
「……怒らないよ、会いたかったから」
「……#name#ちゃん」
「なあに」
「……そんなん言われたらおれ、もう一生離せんくなるよ。いいの?」
真っ先に、耳の付け根が熱くなった。そのまま熱は顔全体に広がり、自分でも顔が真っ赤になっていくのがわかる。彼女を見つめる俺の視界が、じわじわと滲んだ。嬉しくて、情けなくて、いとしい。色んな感情が混ざり合って、胸の奥がぎりぎりと音を立てて軋む。
「うん、いいよ」
ふわっと彼女の手が、俺の頭を撫でる。ほんとに泣きそうになるから苦手で、でも大好きなやつ。
「気づいたら春になってたね」
「……こないだまで冷たい#name#ちゃんの手、あっためんのが日課だったのにな」
「悠仁くんの手、いつもあったかくてすきだよ。だからいつでも触って」
なんでいつも、そんなにかわいいことを言うんだろう。俺は混乱してばっかりだ。かわいすぎる。
「……今も、触っていい?」
「……うん」
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
指を絡め取って、そのまま繋いだ。熱い俺の手と対照的に、少し冷えた小さなそれ。手の甲、指先、全部を確かめるように触る。
「かわいい、全部ちっちゃい」
「悠仁くんに比べたら、そりゃそうだよ」
空を泳ぐ花びらは、俺たちの境界線を曖昧にする。こちらまで届いたそれらは、俺の手のひらや彼女の肩にふんわりと乗る。
「来年も一緒に見ようね」
「……ん、約束な」
繋いだ手に、力がこもる。
季節は巡る。月日は容赦なく過ぎ去る。彼女との日々は、砂時計のように少しずつ減っていく。決して増えることはない。俺はそれが怖い。でもそれは避けられない。だから彼女との時間を、精一杯過ごす。それに命を使う。また来年も、こうして桜が見られるように。
「そろそろ中、入る?身体冷えてねえ?」
手を下に伸ばす。冷たくてすべすべで、気持ちいい太もも。するすると手の甲を滑らせる。…で、気づいたことがあった。
「………ん、なあ、#name#ちゃん」
「うん?」
「もしかして、……下履いてないの」
「パンツは履いてるよ」
「…………パンツしか履いてねえじゃん」
俺のTシャツを着せていたから、油断した。てっきり寝ている時と同じショートパンツを履いてると思ってた。それで、桜はどうでもよくなってしまった。
「だめだ、退散。#name#ちゃんは部屋に戻ります」
「まだ寒くないよ」
「……いつでも触っていいって言ったっしょ」
そのまま持ち上げた。軽い。されるがままの彼女と目が合う。笑いかけられると、本当に自分の全部が溶けたみたいになってしまう。
「……今朝はちゃんと言えなかったから、もっかい、好きって言いながらしたい」
返事の代わりに、彼女はまた笑ってくれる。その髪にひとつ、ピンクの花びらがついていた。ベッドに下ろして、それをそっと掬い上げるように掴む。カーテンから、やさしい風が吹き込んでいる。
彼女はまるで、春みたいだ。

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2026-03-30