復縁する

自分だけが、色のない世界に取り残されているみたいだ。正しい呼吸の仕方も、もう忘れてしまった気がする。
彼女と同じ香りがして、思わず振り返る。そんなことを何度繰り返しただろう。
「……そんなわけ、ないのにな」
頬を撫でる風も、花のにおいも、どこからか聞こえてくる流行りの音楽も、窓を叩く雨の音も、スマホの予測変換も、シーツの冷たさも。
自分を取り囲むすべてのことが、彼女との記憶に繋がっている。何もかもが一緒にいた日々を思い起こさせて、些細な生活の断片が凶器に変わる。もう一緒にいない自分、を責めてくる。誰かと会って話すことも、自分のためになにかすることも、全てが億劫になった。彼女との思い出を引きずって、俺はとりあえず生きている。

猪野さんとばったり会ったのは、そんな状態から二ヶ月が経とうとしていたころだった。
「元気か、……虎杖」
「うん、まあ」
猪野さんは、俺の事情を知っている。だから何も深追いしてこない。その優しさに甘えて、俺からは連絡しなかったし、そもそも連絡がきても返さなかった。でもこの人は責めない。それがありがたかった。
「お前さ、ちゃんと食ってる?」
「……食ってるよ」
「ならいいけどさ、全然顔出さねえから」
「……ごめん」
「いいけどさ、……なあ、虎杖」
「ん」
「それは全然何も食べれてませんって顔だと思うぞ、俺は」
うまく返事ができなかった。それって、どんな顔だ。あいまいに笑って解散した。
ぼんやりしたまま帰宅して洗面台に立って、自分の顔をまじまじと見る。洗面所もリビングも寝室も、この家は時が止まったように静かで冷たい。蛇口から流れる水流音を、ただ黙って聞いていた。
血色のない、やつれた顔。顔の傷は相変わらず痛々しいけれど、傷自体はどうだっていい。ただ、これをやさしく撫でて好きだと言ってくれた手を思い出して、胸が痛んだだけ。
まあ、健康的とは言えない顔だ。そりゃそうだ、ろくに何も食べていないし、冷蔵庫にあるのは飲料水だけ。たまに思い出した時に、栄養ドリンクとか、カロリーメイトとか、そういうもので生きながらえている。寂しさが身体を刺すようで眠れない夜が続いて、身体は倦怠感が強かった。
ちゃんと生きていた時、俺はどんな表情をしてたんだろう。それを考えても、思い出せない。怖くて過去の写真は見られない。
魂の半分を失ったような、喪失感。たぶん俺は、自分の命とか魂とか、そういうものを半分、渡してしまっていたんだと思う。そして彼女も、俺に半分渡してくれた。お互いの魂や命を分け合ってあたためあって生きてきたのに、もう彼女はいない。
俺のもの、全部渡してしまっていればよかった。そしたらここに存在せずに済むのに。

胃が焼けるような感覚がして、冷蔵庫を開ける。食欲はないけれど何か胃に入れておかないと、と思ったのに、そこは見事に空っぽだった。
「……とりあえず、なんか食うもの買うか」
上着を羽織って、外に出た。義務感だけで動く身体は重く、夜の空気は肺に冷たく突き刺さる。近所のコンビニ、馴染みの店は避けたかった。だから遠くのスーパーまで歩くことにした。
どんな道を歩いていても、彼女のシルエットを探してしまう。視界の端に似たような面影を見つけて心臓が縮むような気持ちになる。
街灯の下、ぼんやりと信号を待つ人々の群れ。長く伸びた影たち。その中に、自分と同じように俯いて頼りなく歩くその人影を見つけたとき、俺は夢の中にいるのかと思った。
確かにそこに、彼女が立っていた。
「……悠仁くん?」
俺の名前を呼ぶその声は変わっていなくて、でも少し震えていた。切なそうに笑う青白い頬。どこからどう見ても以前より痩せていて、しあわせを願って別れたはずだったのに、それは全く叶っていないのかもしれないという現実に愕然とした。
「……◯◯」
「ひさしぶり」
「うん、……元気にしてた?」
意味のない質問。彼女の顔を見たら、元気に過ごしてくれていたのかどうかくらい聞かなくてもわかる。でも聞いてしまう。元気だと、大丈夫だと言ってほしかった。でもそう言われるのは寂しい。自分という存在の不要さが確定してしまうから。
「……少しずつ新しい家にも慣れたから」
「……そっか」
「悠仁くんは、大丈夫?」
「……どうだろ」
頷いた方がよかったのだろうか。彼女の瞳が揺れるのを見て後悔した。俺がうまく生きていないことを、この子は自分のせいだと感じるかもしれない。だから別れたのに。でも、そういうやさしいところが大好きだった。彼女の存在すべてが懐かしい甘さを持って、強烈に揺さぶってくる。
夜の風が吹き抜けて、彼女が小さく身震いした。その肩の薄さに、胸の奥が痛いほど軋む。
「……さみいな。ここ、風通るし」
「……うん」
「どっか行く途中だった?」
「ううん、ちょっとコンビニに寄ってただけで」
力なく笑う彼女の濡れたまつ毛。触れたい、と反射的に思ってしまう。
「……さっきね、お店で懐かしい曲が流れて。一緒によく聴いてたやつだったからすごく寂しくなって」
「……うん」
「会いたいなって思ったら会えた。だからうれしい」
消え入りそうな声。胸が潰れそうだ。思わず名前を呼ぶと、彼女は弾かれたように俺を見た。その瞳に溜まった涙が、街灯の光を反射してこぼれ落ちる。それを見た瞬間、俺の中の何かが音を立てて崩れたような気がした。
「おれも、ずっと会いたかったよ」
絞り出した声は、自分でも驚くほど情けなくて、重かった。
「……おれ、◯◯のいないとこでちゃんと生きるとか、全然できんかった」
しあわせを願って離れたはずなのに、彼女を自由にしたかったはずなのに。
結局、俺の魂の半分はこの子が持っていったままで、空っぽのままじゃ息をすることさえままならない、冷たい水の底に沈んでいくような日々。
「こんなこと言うのは都合が良すぎるかもしれんけど、」
「……うん、?」
「……もう一回、そばにいさせてほしい」
ぽろぽろとこぼれ落ちていく涙。拭ってあげたくて抱きしめたくて、でも一度自分の意志で手放したものを手繰り寄せるのが怖くて、ただ肩にぎこちなく手を置くだけで精一杯だった。心臓が潰れそうになるのをなんとか抑えて、一度だけ深呼吸した。
「……おれんち、来る?」
彼女が頷いてくれたとき、ようやくその手を握って、一歩を踏み出した。

繋いだ手は離さなかった。そのまま家に戻って、ソファーに並んで座った。静かで冷たく、時が止まったようだった部屋に、少しだけ明かりが灯ったような気がする。
ふたりの間の、わずかな隙間。埋める資格があるのかどうかがわからなくて、その距離は保たれたまま。
「……最近、眠れてた?」
遠慮がちに俺を見つめて、彼女がぽつりと呟く。
「いや、…あんまり」
過去の記憶や後悔、それらが悪夢になってやってくる夜を、俺は何度彼女に救ってもらっただろう。彼女と出逢ってから、ようやく長い時間眠れるようになった。それをこの子は知っているから、こんな風に聞いてくれるのだろう。
「……でも、いま眠いかも」
彼女の肩に頭を預けると、懐かしい匂いが鼻腔をくすぐった。彼女の体温が伝わってくるだけで、凍りついていた身体がゆっくりと溶け出していくのがわかる。自然にまぶたが下りてくる。伝えたい気持ちはたくさんあるのに、そばにいると言葉が出てこない。
「寝てもいいよ。顔色悪いから、心配」
耳元で聞こえる彼女の声。ちゃんと返事ができていたかどうかわからない。好き、どこにも行かんでほしい、このまま一緒にいてほしい。寂しさが一気に溶け出して、気がつけば本当にひさしぶりに、俺はぐっすり眠ってしまった。

どのくらい眠っていたのだろう。目が覚めたとき、まだ俺は彼女の肩に寄りかかったままだった。微妙に空いていた距離は詰められていて、彼女の手は俺の手を握っている。
「……ごめん、身体痛くねえ?」
「大丈夫だよ、眠ってくれてよかった」
はっとして時計を見ると、もう時刻は真夜中を過ぎていた。終電なんか、とっくに終わっているはずだ。
「……ほんとにごめん、タクシー呼ぶよ」
「ううん、……あのね」
「ん?」
「……お風呂、借りようかな」
彼女はそっと笑った。それって、どういう意味だ。急にドクンと身体が熱くなる。まだ一緒にいてもいいって意味で、今夜は離れなくてもいいって意味で、そして触れてもいいって、意味なんだろうか。
「いいよ、タオルも歯ブラシも……まだあるから」
動揺を抑えて、そう答えた。色違いの歯ブラシも、彼女の好きな柔軟剤の匂いがする、淡い色の部屋着もタオルも。定位置のまま片付けられなくて、全部そのままにしてあった。それ以外のものも、彼女にまつわるものは何一つ捨てられなかった。視界に入るのはつらいのに、処分するのはもっとつらかったから。
洗面所に向かう彼女を見送って、そのままソファーでぼんやりしていた。まだ残る眠気に抵抗するかどうか迷っていたとき、小さくすすり泣く声が聞こえた気がした。反射的に洗面所に駆けつけ、ドアを開けると、彼女はタオルを抱きしめてぽろぽろと泣いていた。
「どした、大丈夫?」
その姿があまりにも切なくて、思わずそっと抱きしめた。小さな彼女の手が、俺の背中をゆっくり包む。
「……やっぱり帰りたかったら、タクシー呼ぶから」
「違うの、悠仁くん」
「…うん?」
「……ぜんぶそのままなの、苦しいくらい懐かしくて」
嗚咽混じりに伝えてくれるその言葉。俺も苦しい。
「……ごめん、なんも捨てられんかった」
「ううん、いいの」
「なんかさ、また来るかも、来てほしいって、思っちゃって」
鼻の奥がつんとする。彼女の腕の力が少し強くなる。
「わたしも、帰ってきたかったよ」
「……うん」
一度は手放してしまった彼女のことを、また取り戻していいのかはわからない。資格はないのかもしれない。
けれど、全部が止まったままのこの部屋を、早く温かい場所に戻したくてたまらなくなった。こんなに震えて泣いている、小さな女の子のために。
「ここさみーから……とりあえず風呂、入ろ」
顔を上げて頷いた彼女の涙を、そっと拭った。

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2026-02-04