職場で彼女と直接会話することは少ない。でも隣の部署だから、働いている様子はわかるし、同じ会議に出るときだってある。真剣にモニターに向かう彼女の横顔を眺めて、何か声をかける用事がなかったか考えて、でも特になくて、いつも、ただそれだけ。
仕事中の彼女は、いつもの俺と一緒にいるときの彼女とは少し違う。それもたまならく好きだ。そしてその違いを知っているのは俺だけなんだと思うと、なんかちょっとした優越感を感じる。そういうことを考えていると何も言葉が出てこなくなる。今日もかわいいし。
つまりまあ、恥ずかしくて上手く話せないのだ。みたいなことを猪野さんに言ったら笑われたけど。
◇
その夜、帰って行く同僚や先輩達を見送りながら残業を続けていた。少し奥で、彼女もまだキーボードを叩いている。
パソコンに向かう横顔、資料に赤を入れている手元。良い眺めではあるけれど、疲れて無理してるのがすぐわかった。すぐにでも声をかけたくなるけど、我慢。周りが帰るまでしばらく様子を見る。もう仕事は手につかなくなった。20時を過ぎると、ほとんどフロアに人はいなくなっている。それでも彼女はまだ仕事を続けていて、切り上げる気配はなさそうだ。どうしようかしばらく迷って、彼女のデスクに向かう。
「……おれもまだ仕事しよっかな」
できるだけさりげなく呟いて隣の席に腰かけると、彼女は顔を上げて微笑んだ。かわいい。ほんとはもう残りの仕事、全部放棄しちゃったんだけど。
「ふふ、サボりにきたの?」
「……うん、まあ」
曖昧に答えると、彼女は見透かしたようにまた笑ってくれる。それはいつも俺が家で見ている表情と近くて、ふわっとした匂いや、前髪をかきあげる仕草に心臓が跳ねる。触りたい、好き。キスしたい。思わず手が出そうになるのをなんとか止める。
「……あのさ」
「うん?」
「今日さ、昼間に話してたメガネのヤツ。どこの部署?」
「……めがね?」
「なんか楽しそうだったからさ、…気になって」
子どもっぽいことを言っている自覚は、ある。ていうかどんだけ見てんだよという恥ずかしさも、ある。だって好きだし。ずっと見てたいし。
「ただ資料もらいに来ただけのひとだよ」
ふーん、とさりげなく返事をしてみたつもりだったけど、たぶんバレてるし、普通に今、俺はふてくされた顔をしてる。彼女は多分全部わかってて、またやさしく笑う。そういうところが好きだ。だから独占したくなって、彼女の視線も感情も何もかも、自分だけのものならいいのにと、思う。どうしたら手に入るのか考えて、シミレーションした通りに振る舞おうとするのに、彼女を前にすると丸腰になってしまう。
「やきもち?」
ほら、全部見透かされている。
「……うん、めちゃくちゃ嫉妬した」
正直に答えたら、彼女の手がそっと俺の手首に触れた。一気に上がる体温。背中に電流が走る感じ。だめだとわかっていても、思わずその手を絡めとる。目が合う。今日もかわいい。いつもかわいい。たまらなくなって、唇を近づけそうになった瞬間、彼女が声を出さずに囁く。
「……だめだよ、」
「……ん、ごめん」
誰もいねーよ、と言い訳したくなったけど、でも無理やり進めることはしたくなかった。名残惜しくて、耳たぶに一瞬、唇を押し付ける。もう仕事なんてどうでもいい。触れたいし、俺のこと意外、何も考えてほしくない。
「……今日さ、家行っていい?」
ほんとは、そんなこと簡単に言うつもりじゃなかった。金曜まで、あと数日ある。もう少しだけ我慢しようって思ってたのに。
でも、あまりにも仕事してる横顔が綺麗で。手首に触れた瞬間、やわらかく笑った顔がいとしくて。すぐ、ただ隣に座ってるだけじゃ足りなくなってしまう。俺はまた丸腰になっている。
「金曜じゃねーけど、…だめ?」
視線を合わせると、彼女の顔がふんわりと赤くなる。それはいいってこと、ですか。すぐに返事はもらえなかったけど、その頬の温度で、たぶんもう答えはわかってた。