その日は夕方から雪予報だった。ちょうど彼女を駅に迎えに出た頃に降り始めたそれは、粉のように静かに舞っている。
「おかえり」
改札を小走りで駆け抜けてくる彼女。返ってくるただいま、はいつものように明るい。この瞬間が好きだ。
街灯の下を通るたび、ふたりの影は長く伸びて、また短くなる。吐く息は白い。彼女の髪にふんわり乗る雪を時々そっと払う。子どもの頃に付き合っていた雪とは全く違う、手で払っただけで消えてしまう儚いその白さ。まるで彼女みたいだと思う。
「雪、積もるかな」
「こんなんじゃ全然積らんよ」
積もってほしかった?そう聞くと、彼女は嬉しそうに笑う。ここでは滅多に降らないから、きっと珍しくて楽しいんだろう。そうやってはしゃぐ姿がかわいいから、少しだけでいいから積もってほしいなんて、ついつい願ってしまう。
「手、冷えるっしょ」
ポケットに誘う。冷たいその指を絡めて、ゆっくりあたためる。
ちょうど、橋に差し掛かかった。川の水面はマンションの光たちを反射して、ゆらゆらと光っていた。欄干に手をかけ、川の向こうをぼんやり眺める彼女の横顔。寒さで頬はほんのり赤い。その髪に積もり始めた雪を、またそっと払う。ここは冷えるから、彼女が風邪を引いてしまわないか勝手にそわそわするけれど、それでも彼女が満足するまで、この雪景色を眺めていようと思った。雪は特別で、手放しに好きと言えるほど楽しい記憶ばかりではないけれど、彼女と暮らす今、結構好き、かもしれない。
「そういえばね」
「…ん?」
「昔、すごい大雪になったことがあって。そのときここから、真っ白になってく景色を眺めてたことがあるの」
今日の雪がかつての記憶を呼び起こしたようで、彼女は懐かしそうに笑った。
「それは、…いつ?」
「うーん、たぶん学生のとき。たしか、そのとき付き合ってた同級生の子と一緒だったから」
その情報は、特に俺に教えたかったわけではなくて、自然と口から出ただけだった。それはちゃんとわかった。理解できた。本当に、ただの思い出話。
「………そっか」
できるだけ自然に返事をした。それでも、静寂の中で彼女の声は俺の耳にはっきりと響いて、こびりついて取れなくなった。
時々ふたりで通る、この橋。ここに彼女だけが持つ別の思い出があるなんて、考えたことがなかった。
「……あんまりいると風邪引く。ほら、帰ろ」
「うん」
再び彼女の手をポケットに招き入れる。冷えた欄干に触れていたその手は、氷みたいに冷たくなっていた。
昔の話だし、今さらだ。
そう思うのに、自分がそこにいなかった時間の輪郭だけが、夜みたいに静かに広がっていく。胸がざわざわする。これは暗い不安と、苛立ちだ。
彼女が悪いわけじゃない。むしろ、何も隠さずに話してくれるのは嬉しいはずで、もうそいつとは何もないから、ただの過去の記憶だから、偶然思い出されただけのことで。
相槌も、歩く速さも、いつもと同じ。ただ、繋いだ指先に、ほんの少しだけ力が入ったのが自分でもわかった。
「……悠仁くん?」
「ん?」
「どうしたの?」
「あー、…ごめん、大丈夫」
マンションに着くまで、どんな話をしたのかあまり思い出せない。彼女の話に相槌をちゃんと打っていたのに、その声は耳に届いていたはずなのに、なんだか暗い膜が張られたようになった。それにどんな名前がついてるのかは、すでにわかっている。
嫉妬、だ。
部屋の前にたどり着く。彼女が鍵をドアノブに刺そうとした瞬間、反射的に腕を掴んでしまった。
「……なあ」
彼女が驚いてこちらを見る。街灯の下、睫毛に影が落ちている。かわいい。目が合うたびに、離したくないと強く思う。一度だけ、深く息を吸った。
「今のほうが……幸せ?」
自分でも驚くくらい、その声は弱かった。なんの説明もない、突然の質問に彼女は一瞬きょとんとして、それから、ふんわりとやさしく笑った。
「うん、今がいちばんしあわせだよ」
当たり前だよ、と彼女は繰り返し答える。なんで俺がこんなことを聞くのか、理由は詮索しない。わかっているからなのか、気にならないからなのか。
「一緒に帰る人がいて、ちゃんとおやすみって言える人がいて、名前呼んでくれる人がいて。だからとってもしあわせ」
いつの間にか繋がれていた手。そのぬくもりを移すように、その小さな手が俺の手の甲を撫でる。
「悠仁くんは?」
胸の奥で、張りつめていた糸がほどけるみたいに、肩の力が抜けていく。再びゆっくり息を吐いた。
「……うん、めちゃくちゃしあわせ」
一度そう言ってしまったら、気持ちがどんどん溢れ落ちていく。
「……どうしようもねえこと、考えるのは嫌いなんだけど」
「うん」
「#name#に、おれといなかった過去があるっていうのが、すげえ嫌で」
「……うん」
「すげえ嫌で寂しくて悔しくて、…んで、腹も立つ」
「……怒ってるの?」
「怒ってないよ」
腹が立つのは、俺より先にこの子と付き合っていたそいつと、また小さなことで嫉妬している俺自身だ。つーかそいつ、付き合ったなら別れるな、傷つけるな。いや、やっぱりそもそも付き合うな。
繋がれた手を解いて、その白い頬を両手で包んだ。こんなめちゃくちゃな感情に巻き込んでいるのに、彼女はまた笑ってくれる。かわいい、大好きだ。
「あのさ」
「うん?」
「キスしていい?」
「……うん、…でもここ、まだ外だよ」
「外だからいいんだよ」
結局返事を聞く前に唇に触れた。一度離して、また触れる。ちゃんと息継ぎできているか時々確認しながら、何度も何度も。もうあたためる必要がないくらい、彼女の頬は熱を持っている。
「……時々さ、どうでもよくなんの」
彼女は俺を見つめたままだ。
「全部さ、世界中の、#name#以外の何もかも」
小さなこの子を守れたら、隣にいられたら、それで。彼女を悲しませる全ての物事を取り除きたいと思うし、一緒にいられない理由は全部潰したい。だから結局、彼女以外どうでもいいと思ってしまう。
「……悪い大人なんよ、おれは」
「……そうなの?」
「そうだよ、だから#name#の記憶、全部おれで塗り替えちゃうから」
額を合わせて、そっと見つめた。そんなセリフを吐く俺の方が、もう全部塗り替えられてしまっている。彼女と出逢う前、ひとりで平気で生きていたはずなのに、もうどうやっていたか思い出せない。時々思い出されるのは過去の、ひとりだった自分や、閉じ込めていた寂しいという感情だけ。それが彼女によってどんどん塗り替えられていく。もうひとりでは生きていけなくなった。たぶん、弱くなった。
視線のすぐ先にいる彼女は、何かを読み取ろうとして懸命にこちらを見つめている。そしてふと何かに気がついて、やさしく笑った。
「悠仁くん、やきもち妬きの世界チャンピオンだもんね」
「………そうだよ、ダントツ優勝だって、前に言ったろ」
彼女の手が、俺の頭を撫でる。そうされると、ますます弱くなってしまう。子どもみたいな自分が、顔を出す。
「あんまり、…撫ですぎんの禁止」
「どうして?」
「……大人のおれがどっか行っちゃうから」
「…悪い大人の、悠仁くん?」
「そう、これから#name#ちゃんを家に連れ込もうとしてる悪い大人」
そのまま抱き上げて、鍵を開けて部屋に入った。一緒に住んでるのに、と楽しそうに笑う声が耳元で聞こえる。かわいい。
「悪い大人は何するか知ってる?」
「うーん、…このままお風呂?」
「正解。一緒にあったまって」
そう誘うと、耳元で嬉しそうに返事をしてくれる。そしてまた、その手が俺の髪を撫でる。こうされるのが世界一好きで、そして苦手だ。弱くて子どものままの自分が顔を出して、あまくやわく溶かされる。もうひとりでは生きていけなくなったのに、それが嬉しくて、それでいいと思ってしまう。
「……一番悪い子は#name#ちゃんか?」
「ふふ、…そうなの?」
答えはもう、どっちだっていい。