言い放った言葉が空虚に響いて、彼女を傷つけてしまったことを悟る。後悔する。そういうことが、たまにある。
そもそもこの子を傷つけたくなくて、大切にしたくて出る言葉や行動だったはずなのに。俺が不器用で、余裕がなくて、下手くそだから。
「え、一人で行ったの?」
「……うん、別に近所だから大丈夫だよ」
任務を終えて帰宅した夜。少しだけ早く帰れた、というのはいつもの帰宅時間からすれば、ってだけの話で、一般常識的に考えると遅いとは思う。玄関で迎えてくれた彼女がなんとなく口にした、夜道を一人で歩いて買い物に行ってきたという話。
「近所って、どこ」
「……ちょっと橋渡ったとこの、コンビニ」
「危ねーだろ。そういうの、おれが行くって言ってるじゃん」
「……でも」
「何かあったらどうすんだよ」
少し、声が尖りすぎた。それは自分の声を聞いてすぐにわかった。それと同時に彼女の表情が曇っていくのもわかって、心がざわざわした。
「何もないよ、明るい道だし大丈夫」
「そうじゃなくて、何かあってからじゃ遅いから。おれが帰ってくるまで待っててくれたらさ、おれ行くんだって」
「だって、…」
「……だって、なに?」
「……いつ帰ってくるかわからないから」
そこから、言い返せなくなった。
「……それに疲れてる悠仁くんに、また買い物行けなんて言えないよ」
彼女の小さな手が、ぎゅっと強張るのが見えた。すぐに後悔が襲ってくる。俺を休ませたいという彼女のやさしさを、つまらない正論で否定してしまった。背筋が少し寒くなる。一番、やっちゃいけないことだったのに。
「……悠仁くんのばか」
彼女は一度だけ俺の目を見た。その瞳はすでに潤んでいて、俺は反射的に腕を伸ばす。彼女はそれをすり抜けて、そのまま脱衣所へ駆け込んで扉を閉めてしまった。少し強めに響く扉の音。すぐには追いかけられなくて、リビングのソファにひとり沈み込んだ。自然に、深い溜息が出る。目を閉じると、さっきの彼女の涙目が鮮明に思い出された。
「……やらかした」
任務に出れば、それが最後になるかもしれない。もう彼女の笑顔は見られないかもしれない。玄関のドアを閉める朝、いつもぼんやり考える。たぶん、彼女も同じようなことを考えているはずだと、思う。一緒にいられる時間は限られている。その一分も一秒も、ずっとしあわせでいてほしい。笑顔でいてほしい。そう思っているのに。やたらと静かなリビングに響く、秒針が刻まれる音。それが彼女のいない時間を、嫌になるくらい浮き彫りにさせる。
「……だったらここで座ってる理由はねえよな」
立ち上がって、そのまま真っ直ぐ洗面所に向かった。素早く脱いで、迷いなく浴室へ踏み込む。湯気の中にうっすらと見える彼女の輪郭が、驚いたように跳ねた。
「……な、なんで入ってくるの」
「なんでって。一緒に入りたいから」
「……喧嘩中なんだよ、今」
彼女は顔を赤くして、お湯の中に肩まで潜り込む。かわいい。その怒ったような、でもどこか困ったような瞳が、たまらなく好きだと思った。
「喧嘩中でも好きだし。好きな子と一緒に入りたいじゃん」
「……わ、ちょっと」
狭い浴槽。俺が入ったことで溢れ出したお湯が大きな音を立てて床のタイルを叩く。そのまま、逃げ場を失って固まっている彼女の身体を、後ろからそっと、でも逃がさないように強く閉じ込めた。
「……#name#ちゃんは、まだ怒ってる?」
耳元で囁くと、彼女の肩が小さく震えるのがわかる。まだ強張っているその身体を、さらにぎゅっと抱きしめる。
「……うん、怒ってる。悠仁くんが、あんなこと言うから」
「そっか。そうだよな、……ごめんな」
その白いうなじに鼻先を寄せた。バスミルクの匂いと、立ち上る湯気の匂い。その奥にある、彼女自身の柔らかな体温。安心する。まだ怒っていると言うけれど、触れることを許してくれる。触れればこんなに温かくて、やさしい。それがありがたくて、いとおしかった。
「いつもみたいにさ、おれが洗ってもいい?」
「……やだ、自分でできるもん」
「仲直りのチャンス、一回だけでいいからさ、……ちょうだい」
彼女は拒否しなかった。でも頷いてくれるまで、じっとその肩に顔を埋めて待つ。ゆっくり首が縦に振られて、それで一緒に浴槽から出た。そういうやさしいところが、すごく好きだ。
きめ細かな泡が、俺の手を通して彼女の白い肌へと広がっていく。大好きなボディソープの香りが浴室に充満する。しあわせだと思った。
「……っ、あ」
俺の掌が彼女の脇腹からお腹の方へ滑るたびに、彼女の身体は少しだけ震える。かわいい、ずるいよな。
「くすぐったい?」
「……ん、……悠仁くんの手、大きいから」
わざと動きをゆっくりにすると、彼女の頬はさらに赤くなる。ついでに俺の体温も、上がる。泡に包まれた彼女の細い背中を、円を描くように撫でた。そこから肩甲骨、首筋の細いライン。湯気と泡のせいで、視界も感覚も曖昧になる。掌に伝わる彼女の肌の柔らかさ、触れるたびに漏れる彼女の小さな吐息。それだけがこの世界のすべてで、それ以外はどうでもよくなってしまう。
「#name#ちゃんの肌、すげー柔らかい」
「……もう」
「おれのことさ、嫌いになった?」
「……なってないよ。好きだよ」
彼女を纏っていたトゲのようなもの。それが少しずつ溶けていって、俺の体温と混ざり合う。
「おれもさ、喧嘩してても#name#ちゃんが好きだよ。……ずっと、いつも、好き」
彼女が顔を上げると、鏡越しに視線がぶつかった。また泣きそうな顔、してる。
「さっきは言い過ぎた。ごめんな」
「……うん。わたしもごめんなさい」
「いや、…いつも待たせてるおれが悪いのにさ。後ろめたくて八つ当たりした」
「……怒ってないの?」
「怒ってないよ、おれは笑った顔が見たかっただけだから」
鏡越しに真っ直ぐ見つめ返すと、彼女はようやく笑顔をこぼしてくれた。かわいい。
「……悠仁くん、ずるいよ」
「ん、なんで?」
「すぐ上手に仲直りしてくれるから」
そりゃだって、一秒も無駄にしたくないから。ふんわり笑うそのピンク色の頬をゆっくり撫でる。
「……あのね、今日はもう、仲直りできないかなって思ってた。だから一緒に寝れないかなって」
「それはねえよ、…ていうか、仲直りできてなくても一緒に寝るよ」
「……そうなの?」
「だって、大好きだし。同じ家にいるのに別々で寝るなんて選択肢、おれにはねーもん。……寂しいし」
冗談めかして言ったけれど、それは心からの本心だった。白い泡がシャワーと共に流れていく。彼女のやわい身体が露わになる。この身体も、目も声も、心も何ひとつ見逃したくない。心臓がバクバクする。
「……おれ、#name#ちゃんといる時間、一秒も無駄にしたくないからさ。それは本気で思ってるから」
「……ありがとう」
「コンビニ、何買いに行ったの?」
「アイス。一緒に食べられたらうれしいなと思って」
「お、じゃあ一緒に食べよう」
明るく返すと、彼女はほっとしたように笑った。
「……でもさ、あんま夜遅くにひとりで出歩かんで、お願い。心配なんよ」
「うん、…わかった」
「……過保護って思ってるっしょ」
「ふふ、ちょっとだけ」
なんか、猪野さんにも言われたんよな。呟くと彼女は今日一番の笑顔になった。
「うれしいよ、ありがとう」
彼女をこちらに向かせて、もう一度強く抱き寄せる。浴室に満ちた熱気、シャワーの残響。肌を通して伝わるのは、やわらかくてあたたかい、確かな彼女の鼓動だけ。この子の繊細な心の揺れも、全部こうして一つずつ、目の前で知っていく。そういう不器用で、脆いやり取りしかできないけれど、それでも彼女が笑ってくれるなら、それを積み上げたいと思った。
「……いつも好きだけどさ、…今、もっとすげー好き。大好き」
「うん、…わたしも」
「ずっとこのままふたりで風呂入ってたい」
それはのぼせちゃうよ、と笑った彼女の湿った頬にキスした。首筋やつむじにもキスした。このまま一緒に溶けてもいいと、俺は割と本気で思っている。