補助監督という立場は、呪術師という人種の最も近くにいながら、決して彼らの内側には踏み込めない境界線上の存在だと、常に思う。
任地まで術師を運び、帳を下ろし、負傷した彼らをまた車に乗せて運ぶ。その繰り返しの中で、術師たちの業や孤独を実感せざるを得ないことも、よくある。
「お、今日もよろしくな」
特級術師の、虎杖悠仁。明るい声で送迎車に乗り込む姿はいつもと変わらない。なんというか、俺は彼のファンだ。正しくはファンのうちの1人。
補助監督たちの間で、彼の評判はすこぶる良い。みんな彼のことが好きだ。誰に対しても平等に優しく、任務後の疲労状態でも「お疲れさま、いつも助かってる」と屈託のない笑顔で労いの言葉をくれる。特級という一握りの限られた存在で、まさに雲の上のような強さを持っていても、彼は決して傲慢にならない。昔から彼を知っているけれど、本当に変わらない。人の悪意を必要以上に受け止めなければならないこの仕事において、彼の爽やかで飾らない雰囲気や自己犠牲的な精神性を、とても尊敬している。
「ペアになんの、ちょっと久しぶりじゃん」
「そうですね、今日は結構遠いんですが…よろしくお願いします」
「今日ってさ」
「特級案件ですね」
「……早めに帰れっかな」
車窓にもたれ、ぼんやり外を眺める横顔。そのあどけない表情が、表の顔に過ぎないということも、一緒に仕事をしているとよくわかる。いざ戦場に立って任務を終えた直後の彼は、いつもの親しみやすさを完全に霧散させて、代わりに特級としての凄まじい威圧感を纏っているのだ。
今夜もそうだった。
「ごめん、待たせた」
現場である廃墟ビルから出てきた彼は、返り血を浴びたまま淡々と後部座席に乗り込んできた。鉄臭い血の生々しい匂いと、呪霊の残り香が漂っている。
「……クソ、めちゃくちゃ汚れた」
「……今回は難儀でしたね」
「思ったより時間かかっちまった。もうこんな時間か」
「高専に戻る、でいいですか?」
バックミラー越しに問いかける。射貫くような冷徹な三白眼と目が合ってドキッとする。その瞳には呪霊を完封した直後の、鋭すぎる殺気が宿ったままだ。
「いや」
彼の声は低く掠れていた。スマホを取り出し、画面を俺に差し出す。
「……今日は、こっち寄ってもらっていい?」
提示されたのは、高専とは正反対の方向にある、閑静な住宅街の住所。
それは呪術的に重要な施設でもなければ、関係者の邸宅でもない。地図アプリが示すそこは、どこにでもあるような、平穏な市民が暮らすマンションの一室、のはず。
(……この人は、一体誰に会いに行くつもりなんだ)
なんとなく聞けず、そのまま車を走らせた。ため息と一緒に、深くシートに腰掛ける音がする。
「怪我、大丈夫ですか?」
「んー、大丈夫。いてて」
「ちゃんと治してください」
「……そうだよな。怒られちゃうな」
ん、誰にだ。そう聞こうとして、でも躊躇われた。誰に、怒られるんだ。伏黒さん?釘崎さん?
ゴソゴソ音がして、虎杖さんは着替え始めた。脱いだパーカーの間から見えた、割れた腹筋、そして無数の傷跡。当たり前なのはわかっているけれど、心が痛む。
信号待ちのたび、バックミラーに映る彼の横顔を盗み見た。雑談には応じてくれるけれど、彼はただ窓の外を流れる夜景を、冷ややかな目で見つめている。傷だらけの拳は無造作に膝に置かれたままだ。
「虎杖さん、明日は」
「あー、なんか仙台に呼ばれててさ、…始発なんよね」
常に呪術師不足が叫ばれている中、一級以上の呪霊に対抗できる術師はそういない。文字通り、日本中飛び回っている、という感じだ。
「たぶん数日は帰れないっぽいからさ、…充電しときたい」
そう呟きながら、彼はポケットから何か取り出した。ちらっと見えたのは、その無骨な手に収まるにはあまりに小さく、そしてちょっと不釣り合いな、かわいいキャラクターのキーホルダーがついた一本の鍵。ふわふわしたそのキャラ、見たことがある。なんか最近女の子の間で流行ってるやつ。名前はわからない。
その瞬間、なんとなく、彼の纏う呪力ではないオーラというか、雰囲気が緩まった気がした。バックミラーから見える彼は視線を落とし、たぶんその鍵を指先でいとしそうに弄っている。それは今向かっている場所の、鍵なのだろうか。本人の好みとは思えない、女子向けのかわいいキーホルダー付き。ってことは、そういうこと?
「ごめん、ちょっと電話すんね」
なぜかドギマギしている俺に断って、虎杖さんは電話をかけ始める。コール音が数回鳴る。
「……あ、もしもし?」
びっくりして、俺の鼓動が跳ねた。その声があまりにも優しかったから。その、まるで、恋人に話しかけるような声。
「……ん。もうすぐ着くから。待たせてごめんな」
慈しむような響き。柔らかくて丸い、優しい声。まるで、というか、これは恋人に話しかける声だ。
「……ん? 大丈夫だよ。平気。……ありがと」
電話の向こうの相手が、彼の怪我を心配したのだろう。自分の身体を無関心に扱っていた数十分前とは別人の、穏やかな受け答え。彼は彼女を安心させるためだけに、この世で最も穏やかな、柔らかい声で笑っている。ええ。えーーーー。
虎杖さん、彼女いたんだ。
「うん、明日?早いけど。……会いたいからいいんだよ」
こ、これは俺が聞いていい内容なのだろうか。動揺して事故りそうだ。そんなことになってはいけない。真っ直ぐ前だけに集中する(無理)。
しばらくして、電話が切られる。バックミラー越しに目が合う。その耳はほんのり赤かった。
「…………バレた?」
そうやってはにかむ虎杖さんは少年みたいな笑顔で、男の俺が言うのは変だけど、かわいかった。
「彼女さん、ですか?」
「うん。出張前にさ、会っておきたくて」
「………どんな人かとか、聞いてもいいですか」
「んー、…すげえいい子。俺にはもったいないくらい、ほんとに……」
また、ミラー越しに目が合う。虎杖さん、顔赤い。
「……好きな人がさ、好きって言ってくれるって、いいよな。毎日奇跡みてえ」
だから、俺がドキドキしてどうする。
「今日会えるかわかんねえなって、内心焦ってたんだけど。送ってくれて助かった、ありがとな」
指定された目的地に辿り着く。そのマンションの窓から、リビングのカーテン越しに漏れる薄明かりがいくつか見える。
「……やっと帰って来れた」
それを見つめる彼の表情は、先ほど特級呪霊を殴り殺していた男とは、到底結びつかない。待ってくれている大切なひとの気配を見つけた、一人のしあわせな人間としての表情だ。
「お疲れ、ほんとありがと」
そう言うと、彼はいつもの爽やかな雰囲気に完全に戻って、車を降りていった。
マンションの入り口へ向かって足早に駆けていく彼の後ろ姿。きっとあの部屋で、虎杖さんは特級術師ではなく、ちゃんとひとりの人間に戻るんだろう。小さな合鍵に守られた部屋。そこは彼にとって、聖域のような場所に違いない。
想像もつかないプレッシャーや危険と常に隣り合わせでいる彼に、そういう場所があること。驚くくらい柔らかい声を届けられる人がいること。
そう思うと、自分の心にも、ほんの少しだけ温かな光が灯った気がした。俺は彼のファンなので。