帳が下りる前のオフィス街はまさに地獄だった。
緊急要請を受けて現場に駆けつけた時には、ビルの二階部分が内側から爆破されたように派手に吹き飛んでいた。周囲に響くのは、何が起きているのか理解できていない一般人の絶望的な悲鳴。補助監督が必死に避難させようとしたが、突如顕現した特級呪霊の捕食スピードの方が早かった。帳が下りるより前に、すでに数人の一般人が呪霊の胎内へと引きずり込まれ、消えていったと聞かされる。
「……チッ」
到着があと数分でも、早かったら。
呪力を足の裏に集中させ、爆音と共にビルの亀裂へと跳んだ。この惨状を見ると、明らかに特級案件だ。ただ、自分ひとりの力で片付けられるであろうことは、なんとなく予想がついた。それくらい、数え切れないくらいの呪霊を祓ってきた。
ただ呪いを祓うため、動き続ける。
立ち塞がる呪霊の腕を根元から引きちぎり、脳天へ向けて呪力を込めた拳をストレートに叩き込む。衝撃波でビルの窓ガラスが一斉に粉砕され、肉塊が床に飛び散った。胸の奥にあるのは、怒りでも正義感でもない。ただ、淡々と職務をこなすだけの、ひどく冷え切った特級術師としての思考。
呪霊が完全に消滅し、静まり返った瓦礫の隙間で、自分の荒い呼吸の音だけを聞いていた。
「……終わったか?」
ポケットからスマートフォンを取り出し、手短に事後処理を要請する。いつもの流れのはずだった。
そのとき、視界に何か動く小さなものを捉えた。
視線の先、崩れたコンクリートの陰。目を凝らすと、小さく丸まっている影があった。
一人の、女の子。
「……おい、大丈夫か?」
全員避難できたと聞いていたはずだったのに。すぐに駆け寄った。
他の人間が次々と消えていくのを、その身で間近に見ていたのだろう。恐怖で過呼吸気味に肩を揺らしているその子が、ゆっくりと顔を上げた。涙で濡れたガラスみたいな瞳と、真っ直ぐに視線が交差する。
その瞬間、どくん、と胸の奥が酷く嫌な鳴り方をした。 肋骨の裏側を、内側から拳で強く殴りつけられたみたいな、鈍い衝撃。肺の空気が一気に引き抜かれて、次の呼吸が上手く吸い込めない。特級の攻撃を食らったって、こんな風に身体の芯が強張ることはないのに。
なんとか深く息を吐き出して、胸の奥の変な焦りを無理やり押し殺した。とにかく、目の前にいるこの子を安心させたかった。
「……大丈夫、もう怖くねぇよ」
彼女の視線までしゃがみ込んで姿勢を落とし、努めて低くやわらかい声を絞り出した。崩れ落ちそうな瓦礫を払いのけ、その小さな肩に触れる。触れた瞬間、彼女の身体がビクッと跳ねた。けれど逃げ出そうとはせず、すがるような目で俺を見上げてくる。
「……ちょっと触るけど、ごめんな」
そうして膝の裏と背中に手を回し、ゆっくりと抱え上げた。あまりにも軽くて、少し強く力を込めたら折れてしまいそうな頼りなさ。よっぽど怖かっただろう。
「怪我、あるか? 歩けそうにねぇな……一回、外に出ような」
彼女の細い腕が、俺の首元に必死に回される。その小さな体温が、汚れたパーカー越しにじんわりと伝わってくる。急に背中が熱くなった。
階段を駆け下り、帳が上がり始めた外の世界へ連れ出す。 救急車のサイレンと、補助監督たちが奔走する騒がしい現場。救護スペースを見つけ、片隅に置かれていたパイプ椅子に彼女をそっと降ろして毛布を被せた。彼女は涙で濡れた顔を拭うこともせず、茫然と俺の顔を見つめている。
「よし、ここまで来ればもう安心だから。あとはあっちの人が……」
そこまで言って、言い淀んだ。 彼女の視線が、俺の顔のあちこちを彷徨っている。
「あの……っ、血……」
「え?」
「血が、出てます……怪我、大丈夫ですか……?」
震える声で差し出されたのは、彼女の小さくて華奢な手。その手のひらに握られていたのは、アイロンが綺麗にあてられた、真っ白なハンカチだった。
「……っ、いて」
思わず自分の額に触れる。呪霊の返り血か自分の血かも分からない生暖かいものが、確かにだらりと頬まで伝っていた。気づかなかった。とりあえず裾で、乱暴にそれを拭う。あとで治せばいい。
怪我なんて日常茶飯事だ。傷を負うことにも、痛みに耐えることにも、とっくに慣れきっていた。誰かを助けてお礼を言われることはあっても、生死の境目をくぐり抜けたばかりの一般人に、開口一番で自分の痛む傷を心配されたのはこれが初めてだった。彼女は自分の恐怖を差し置いて、血と泥に塗れた俺を、一人の人間として見つめていた。だから動揺した。
「……あ、これ? いや、俺は全然へーき。いつものことだし」
「でも……すごく、痛そうだから」
涙で濡れた瞳に浮かんでいるのは純粋な心配の色で、その瞳で見つめられるとなんだか心がざわざわした。とにかく安心させたくて、差し出されたハンカチを受け取ろうと手を出した瞬間、指先がかすかに触れ合った。
「……あ、ごめん」
やわらかくて、あたたかい。鼻腔をくすぐる、こんな場所にはそぐわない、花のように淡くて甘い匂い。
手渡されたハンカチを握りしめた瞬間、胸の奥で再び何かがどくんと大きく跳ね上がる音がした。何かっていうか、これは心臓の音だ。なんだこれ。いつもと違う身体の感覚に動悸が余計に速くなる。
アドレナリンが切れていないのかも。喉の奥がカラカラに乾いて、心臓が忙しく鳴っている。
「虎杖くん ! 無事ですか ! 」
駆け寄ってきた伊地知さんの切迫した声で、ハッと意識が現実に引き戻された。
「……あ、伊地知さん。この子、怪我してるから頼む。俺はもう大丈夫だから」
「わかりました、すぐに救護へ……って、虎杖くんも顔の傷を見てもらってください ! 」
「ん、……あー、これ?大丈夫。自分で治せるから」
とにかくさっさと、この場を離れようと思った。自分と彼女の間に、境界線を引くみたいに。俺は呪術師で、彼女はただの一般人。二度と交わることのない別世界の人。それでよかった。
「……じゃあ、……助けるのが遅れてごめん。ちゃんと治してもらって」
短く手を振り、背を向けようとしたその時だった。
「あの……っ、待って、」
ガタッと、パイプ椅子の倒れる音がした。引き止められた声に振り返ると、彼女が毛布を払って立ち上がり、必死の眼差しでこちらを見つめていた。
「助けてもらったお礼……わたし、連絡先を……」
小さな手でバッグを探る彼女を見て、胸の奥がまたチクリと痛む。彼女が何をしようとしているのかわかって苦しくなる。そういうの、ダメだから。巻き込んじゃいけない。ここでちゃんと線を引かなきゃいけない。
だから口から、冷たい言葉が出た。
「……ごめん。俺、そういうのやってないからさ」
そう自分に言い聞かせるみたいに伝えた途端、彼女の顔からは血の気が引いて、泣きだしそうなほど悲しそうに眉が下がった。綺麗に澄んだ瞳が揺れて、小さな肩がぎゅっと縮こまる。胸の奥を激しい罪悪感と苦しさが締め付けた。
それでもう、嘘がつけなくなった。
「あー……うそ、ごめん、やってる」
ポケットからスマートフォンを引っ張り出し、画面を数回タップして連絡先のQRコードを表示させた。急に恥ずかしさと情けなさが押し寄せてきて、視線を逸らしながら差し出した。
「これ、俺の。……読み取って」
彼女はふんわりとした笑顔になって、自分のスマートフォンの画面をかざした。
笑ったところを、初めて見た。
耳の裏が、焼けるように熱い。
◇
嵐のような現場から、数日が過ぎていた。
あのあとすぐ別の任務に駆り出され、ようやく今日、ひさしぶりに自宅に戻った。
泥のように重い身体をベッドに投げ出す。シャワーで血と泥を洗い流しても、あの現場の記憶と胸の奥の変な熱っぽさだけは、一向に消えていない。
気怠さが襲ってきて、目を閉じる。
静まり返った部屋の中にいると、かえってあの甘い匂いや、彼女の華奢な体温が鮮明に蘇ってくる。
思い出したい、でも忘れてしまいたい。
寝返りを打つ。サイドテーブルに置いた、それが目に入った。
彼女から受け取った白いハンカチ。この数日間、お守りみたいにずっとポケットに入れたままにしていた。
「あー……もう」
スマートフォンを取り出して、メッセージアプリを開く。数日前に届いた彼女からのメッセージが、ぽつんと表示される。
『助けてくださって、本当にありがとうございました。怪我が早く治りますように』
そして、その下に灯る「既読」の二文字。返事はしていなかった。
「……どうすんだ、これ」
天井を見上げ、深く息を吐き出す。巻き込むべきじゃない、関わるべきじゃないとわかっていたんだから、連絡先なんて交換するべきじゃなかった。どうせ返信しないのに、こんな風になるべきじゃなかった。
連絡先を渡したときの、彼女の笑顔を思い出す。花がそっと咲いたみたいだった。かわいかった。
既読のまま何日も放置された彼女は、今頃どう思っているだろう。迷惑だったかもとか、本当は嫌だったんじゃないかと思って、心を曇らせてるんじゃないだろうか。
自分の都合で彼女の純粋なやさしさを突っぱね、悲しい思いをさせている気がして胸が痛む。
テーブルの上のハンカチに、もう一度視線を移す。
「……返すだけ、だしな」
そうだ、借りたものを返すだけ。お礼を言って、ハンカチを渡して、それでちゃんと別れればいい。二度と会わなければいい。これで最後にすればいい。
そんな風に、誰にともなく必死で言い訳を重ねながら、また画面をタップする。
『返事遅くなってごめん。怪我はもう大丈夫?ハンカチ洗ったから返したいんだけど、都合いい日教えてほしい』
そんな用件を書くだけなのに、10000回くらい読み返した、気がする。心臓がうるさい。どうにでもなれと、送信ボタンを押した。
そのままスマートフォンをベッドに伏せ、両手で顔を覆う。
また、耳の裏が熱くなった。