「悠仁くんは、甘いもの好き?」
スマホから顔を上げると、彼女が不安そうな目で見つめていた。彼女が聞いてくれることに否定する必要なんて何もない。素直に「好きだよ」と答えた。
「#name#は?甘いの好き?」
「うん、好き」
「じゃあおれも好きだよ、今度食べに行こ」
抱き寄せたら彼女はうれしそうに笑った。かわいい。なんか食べたいものでもあんの?と聞いても、うれしそうに笑うだけ。その頬を撫でて、そのままたわいない話をしたことを覚えている。
確かそれは、2月に入ってすぐのことだった。
ある夜、かすかな物音で目が覚めた。ふと横を見ると、彼女がいない。そんなことはこれまでなかったから、一瞬で目が覚めて反射的に身体が起きる。あたりに目を凝らすとすぐに、ドアの隙間から細い光が漏れていることに気がついた。耳を澄ますと、リビングから聞こえる物音。そして鼻腔をくすぐる甘ったるいにおい。
チョコレートの匂いだ。
それで察してしまった。最近やたらと「甘いもの」について聞いてくる彼女。そういえば視界の端に捉えていた、製菓用チョコレートの袋。それって、そういうことなんじゃないだろうか。
つまり、バレンタインだ。
まだ当日まで日はある。そうなるとこれはきっと、本番までの練習なんだろうと、思う。完璧なものを作って俺を驚かせたいのかも、しれない。そう考えたら胸の奥がきゅっとなる。かわいい、かわいすぎる。今すぐ抱きしめに行きたかったけど、彼女のサプライズを俺から台無しにするわけにはいかなくて、なんとか堪える。
ドアの隙間から聞こえてくる彼女の気配、甘い匂い。ゆっくり味わうように、静かに目を閉じて、彼女を待つ。数時間後、練習を終えた彼女は夜更けにこっそり布団に入ってくる。何も知らないふりをして抱き寄せて、そっと頭を撫でてまた眠る。朝起きたらさりげなくその手に触れて、火傷とか切り傷とか、そういうのがないか確認する。そういう日々が何度か続いた。
で、ちょっと心配なことがある。
一度、彼女が練習を終えて寝静まったあとに喉が渇いて目が覚めて、キッチンに向かったことがあった。寝室を出てすぐにわかる、少しだけ焦げた匂い。そして上手く固まらなかったらしいチョコの残骸が、調理台の隅に申し訳なさそうに残っていたのだ。
「……そういえば、お菓子作ってるとこ見たことあったっけな」
思い返しても、見たことないかも。慣れないお菓子作りに戸惑い、チョコレートを目の前に悪戦苦闘する彼女の姿が目に浮かんだ。かわいくて、いとおしかった。
そして、2月14日。
とっくに日付が変わり、カレンダーの上ではもうバレンタイン当日になってしまった。
今夜もリビングからは、昨日までより一層慌ただしい物音が聞こえてくる。大丈夫か心配になる。つい覗きに行きたくなるけど我慢して、いつものようにそれを聞いていた。
どれぐらい経ったのだろう。少しまどろんでいる間に、その音が途絶えていること気がついた。まだ彼女は隣にいない。
終わったのか、それとも、まだ苦戦しているのか。気になって仕方がない。
「……どうすっかなあ」
ベッドで一人、天井を仰ぎながら考える。驚かせたい、ちゃんとしたい、そういう彼女の願いを叶えてあげたくて、壊したくなくて、今日まで知らないふりをしてきた。でも連夜の寝不足で彼女の目の下に薄く隈ができているのも、ふと眠そうに瞬きをしているのも、全部知っている。
……正直、もう甘やかしたい。頑張ったな、って言いたい。
静かにベッドを抜け出して、リビングへのドアをゆっくり開ける。真っ直ぐキッチンに向かうと、調理台にボウルやヘラ、少しだけ形の崩れたチョコレートが並んでいる。そこに彼女はいない。
頑張り屋さんの女の子は、奥のソファーで、小さな背中を丸めて眠り込んでしまっていた。
ほら、俺の予想、当たった。
「……無理しすぎだって」
彼女のそばに膝をつき、寝顔を覗き込む。まつ毛がわずかに震えている。かわいい。頬には少しだけチョコがついていて、それを指でそっと拭う。この寝相だけで、十分バレンタインのプレゼントをもらった気分だ。
「……ん、ゆ、うじくん……?」
指先の感触に気づいたのか、彼女がゆっくりと目を開けた。焦点の合わない瞳が俺を捉えた瞬間、彼女は弾かれたように起き上がる。
「わ、寝ちゃってた?!」
「うん、おはよ」
「……だめなの、まだ、できてなくて」
「いいんよ、お疲れさま」
焦ってキッチンに向かおうとする彼女の手首を、できるだけやさしく、でも逃げられない強さで掴む。
「なあ、もうそんなに無理しなくてもいいんよ」
なだめるみたいに髪を撫でると、強張っていた身体がゆっくりほどけていくのがわかった。
「……ごめんね」
「ん?」
「頑張ったんだけど、あんまりうまくできなくて……悠仁くんを驚かせたかったのに、失敗ばっかりになっちゃった、ごめんね」
その声はちょっと泣きそうで、震えている。ずっと頑張ってたもんな。俺はそんな顔をさせたくて知らないふりをしてたんじゃないから、泣かんでよ。彼女を抱き寄せ、その柔らかい耳元に呼びかける。
「ちゃんとびっくりしたよ、ずっと。……あんなに毎日、俺のこと考えて頑張ってくれてたん、嬉しかった」
「……気づいてたの?」
「うん、ごめんな、最初から」
腕の中の彼女が、ちょっと膨れた。かわいい。
「じゃあさ、おれと一緒に作ろ」
「……いいの?」
「#name#の苦手な工程もさ、一緒ならできるかもしれんよ」
彼女の顔を覗き込んで、鼻先をちょんと合わせた。
「やりたかったことさ、全部教えて。おれに見せて」
「……でも」
「一緒に作ってさ、思い出にさせてよ」
「……悠仁くんの方が上手かもしれないけど、いいかな」
「……そう?いいよ、じゃあおれが先生になるよ、だめ?」
そう囁くと、彼女はようやく笑ってくれた。
◇
改めて、キッチンに立つ。レシピ通りに再現しようとする彼女を隣で眺める。一生懸命でかわいい。
「いつもね、ここで分離しちゃうの」
「ん、どこ?」
背後からそっと近づくと、彼女の首筋から甘いカカオと、彼女自身のやわらかい匂いが混ざり合った匂いがする。ずるい。我慢できなくなって、そのまま華奢な肩に腕を回して抱き込んだ。
「……ここ、力入れすぎ」
耳元で囁く形になって、彼女の肩が小さく跳ねる。それを見ると、ちょっと意地悪したくなってしまう。わざと逃げ道を塞ぐように密着した。
「もっとゆっくりでいいんじゃん?空気が入んないように……そう、上手」
彼女の小さな手の上に、自分のそれを重ねた。こちらの体温が移って、彼女の指先がわずかに震えるのが伝わってくる。
「……悠仁くん、近いよ」
「ん、離れた方がいい?」
「そんなことないけど……」
「……けど?」
「また失敗しちゃう」
「大丈夫だって。一緒にやってるから」
その首筋は赤い。かわいい。離れられなくて、むしろ体重を預けるようにして彼女の耳たぶに唇を寄せた。
ゴムベラを動かすスピードを落として、彼女の手を導きながら、ふたりの影が調理台に重なり合うのを眺める。
「……よし、そろそろいいかな」
なんとかチョコレートは光沢を帯びて光ってくれた。ボウルから引き抜いたスプーンにそれをすくって、彼女の口元へ運ぶ。
「どう、美味しい?」
「うん、すごく美味しい」
彼女が素直に唇を開いて、チョコを迎え入れてくれる。やわらかそうなそこに、思わず釘付けになる。よくない、これは。食べ終えた彼女の口角にはほんの少しだけ茶色の雫が残っていて、なんかもう、確信犯だと思った。そのまま白い頬に手を添えて、親指でその雫をゆっくりと拭う。
「……あま、すげー甘い」
視線は逸らせない。呟くと、彼女の頬は赤く染まっていく。
「……からかわないで」
「ん、ごめん。でもちゃんとできたじゃん」
逃げられないように、両腕でさらに強く囲った。甘いのも熱いのも、たぶん全部俺だ。
「これ、あとは冷やすだけ?」
「……うん」
もう夜中と呼ぶには夜は更けすぎて、朝方に近かった。でも、こんなにかわいい彼女を放っておくわけにはいかない。バレンタイン、だし。世界一かわいいし。そっと耳元で囁いて、彼女を頷かせる。チョコレートはそっと冷蔵庫にしまって、そのままベッドに向かう。
「いっぱいおれのために、ありがとう」
「……うん」
「嬉しくて、好きすぎてさ、かわいいし、おれはもうだめです」
「……だめなの?」
「うん。だからこっち来て」
ベッドで交わしたキスは、やっぱりチョコレートの味がした。