ミッション

「……虎杖さん、このあと急ぎの予定とかあります?」
思わずそう声をかけてしまうほど、今日の後部座席の彼は落ち着きがなかった。
1分おきにスマホの画面を点灯させ、通知が来ていないか確認し、来ていなければ深くため息をついて膝を叩く。
「あー……。いや、そういうわけじゃねえんだけど」
虎杖さんは伏目がちに、ちょっと気まずそうに笑った。
「……彼女から連絡ねーなって」
「どこかお出かけされてるとか」
「うん、…飲み会。帰るとき連絡してって約束してたんだけど」
そう言いながら、彼はまたスマホを握り直す。傷だらけの指先が、所在なげに画面の縁をなぞったり、手持ち無沙汰に自分の指をパキパキと鳴らしている。車窓を眺める彼を、街灯の明かりが照らしては過ぎ、また照らしては過ぎる。
その時、静かな車内に、待ちわびた着信音が鳴り響いた。
「……あ、きた」
パッと花が咲いたように明るくなった彼の表情。その現金なまでの変化に、ハンドルを握りながら俺まで思わずにこにこしてしまう。よかった。
「……もしもし、大丈夫?ん、こっちは今終わったとこ。…酔ってんな?」
「ふふ、酔ってないよ」
電話越しにもわかるほど、彼女の声は弾んでいる。どうやら美味しいものを食べてご機嫌に過ごされたようだ。酔って楽しそうな彼女の話を、虎杖さんは穏やかに聞いている。
「おれ?……うん、平気だって、ちゃんと治してるから」
やりとりされる言葉、醸し出される空気。どれもがあたたかく、甘かった。
こうして時々、彼女との通話を車内で聞かせてもらえるようになって、どのくらい経っただろう。少しずつ、彼女のことも教えてもらえるようになった。何事にも一生懸命だけど、ちょっとおっちょこちょいなところがあること。いつもにこにこしていてやさしいこと。一緒に暮らそうとしていること。お酒を飲むとすぐ酔って、虎杖さんを困らせてしまうこと。でもそれもかわいいということ。
今回もそんな穏やかな会話をBGMにしながら、彼女のマンションまで彼を送る予定だった…のだけれど。
「……ん、今の誰?」
ふと彼女の後ろから男の笑い声が聞こえた瞬間、状況が一変してしまった。
確かに誰か、そばに男性がいるようだ。
「今どこいんの?まだ店?駅? ……男もいるって言ったっけ、……うん、おれ聞いてねえけど」
その声は決して怒鳴るようなものではなかった。むしろ怖いくらい落ち着いていて、低くて甘く、掠れていた。どちらかというと、無理やり落ち着こうとしているようにも聞こえた。
「………わかった、もういい。今からそこ行くから。動かんで待ってて」
電話が切られる。
「……はあ」
その腕で顔を覆い、ひとつ深いため息をつく。放たれるオーラはあたたかな暖色から、「特級術師」をやっているときの、あの殺伐とした冷たくて透明な雰囲気に切り替わってしまった。
「……ごめん、悪いんだけど」
「◯◯駅ですよね?向かいますね」
「………これってさ、社用車のシテキリュウヨウ、ってことになんのかな」
「どうですかね、緊急の救出任務だと言えばセーフだと思いますよ」
冗談ぽく返すと、虎杖さんもつられて笑った。
「……じゃ、困ったさんを捕獲しねえと」

そんなわけで、虎杖班は酔っ払い捕獲の任に、緊急で赴くことになった。

首都高速をかっ飛ばし、車を駅前のロータリーに滑り込ませる。道が混んでいなくてよかった。渋滞していたら、虎杖さんは走って向かってしまったかもしれない。
居場所を確認するため、彼が電話をかけようとした、そのとき。
「虎杖さん、あそこじゃないですか?」
俺が指差した先、街灯のオレンジ色の光が落ちる歩道の端。彼女さんの顔を知らないけれど、確かに千鳥足気味の女性が、友人の男に肩を支えられそうになっていた。
「………いた」
その風景を彼の視線が捉えると、また一気に車内の空気が凍りついたようになる。特級術師に睨まれた呪霊って、こんな気分なんだろうか。殺気が物理的な重圧になって、俺の背中をそっと叩く。彼は車が完全に止まるのも待たず、音もなくドアを開けて外へ飛び出した。
「……あ、まずい」
任務を終えてそのままの状態の彼は、今回もパーカーに返り血と泥を浴びたままだ。案の定、人混みはモーゼの十戒のように左右に割れた。虎杖さんは脇目も振らず、真っ直ぐに彼女の元へ突き進む。歩く速度が、速すぎる。
……通報されたら、俺が出て行こう。車内から、その光景を固唾を飲んで見守った。
歩道の端、千鳥足の彼女さんの肩に手をかけようとしていた男性。それが虎杖さんの接近に気づいて振り返り、蛇に睨まれた蛙のように硬直するのが見えた。そりゃ、きっと怖いだろう。
ここから彼らの声は一切聞こえない。ただ、どんなやりとりがされているのかは容易に想像がつく。虎杖さんはその男の手首を掴んで、冷酷な速度で払い落とした。本気でないのはわかる。彼が本気でやったら、簡単に成人男性の手くらい折れる。力加減ができるくらいの冷静さが彼に残っていてよかった、と心底安心した。手加減してもらった男性は、何か言いかけたように見えたけれど、彼の三白眼と視線がぶつかってしまったようだ。そのまま逃げるように去って行った。虎杖さんが何を言ったのかは分からない。でも爽やかな挨拶ではなかったはず、だ。
彼の背後に隠れるように引き寄せられていた彼女が、ふらふらと彼の胸元に頭を預ける。あんなに殺気立っていた彼の肩の力はすぐに抜け、そのまま彼女を抱き抱えるようにして、こちらに戻ってきた。
「ごめん、待たせた」
「いえ、何も起きなくてよかったです」
「こんばんは、いつも悠仁くんがお世話になってます」
彼女がこちらに向かって挨拶した。本当に聞いていた通りの、想像していた姿がそのまま出てきたような、かわいい女性だった。酔った頬は赤く、まだ楽しそうににこにこしている。
「脚痛くなっちゃった」
「……ほら言わんこっちゃねえ、そんな靴履くから…ん、帰るからちゃんと乗って」
「うん、ごめんね」
後部座席に二人を迎え入れる。ドアを閉めた瞬間、車内は彼女から漂う甘いお酒の匂いと、石鹸の香りに包まれた。
「悠仁くん、おかえりぃ……」
彼女が甘えた声で虎杖さんの胸元に顔を埋める。ピリッとしていた雰囲気が一気に緩まる。
お酒を飲むとすぐ酔って、虎杖さんを困らせてしまうこと。でもそれもかわいいということ。
そんなふうに教えてもらっていたことを思い出した。
明らかにオーラを緩める虎杖さん。口元がゆるゆるだ。でも、まだ彼は怒るのを諦めていなかった。
「……飲みすぎ。おれがいないとこで飲みすぎんのはあぶねーからだめって言ったよ?おれ」
「……ごめんなさい」
「あと、男いるってのも聞いてなかったし」
「……わたしも知らなかったんだもん」
「触られそうになってた」
「……わざとじゃないもん」
「わざとじゃなくてもだめなもんなだめ、強くねえんだから」
「なんで」
「今説明したよ」
「……だって」
「ん、だって、なに」
「……悠仁くんに会えなくて、すごく寂しかった。ごめんね」
「…………」
虎杖さんがフリーズしたところ、初めて見た。耳が赤くなって、そのあと顔まで赤くなる。こんなところ、俺が目撃してしまっていいのだろうか。
「……そんなかわいいこと言うん、ずりいよ」
そのまま彼の腕が、彼女を強引に抱き寄せた。うおおおお。流石にこれは俺もドギマギしていいと思う。
「……わかった、許す。許すから、…そんな顔、他でせんでよ」
「……どんな顔?」
「このかわいい顔」
虎杖さんの傷だらけの手が、いとしそうに彼女の頬に伸びる。うおおおお(本日2回目)。
「……もう怒ってない?」
「ん、怒ってない。いつも好きだよ」
俺と車がエンストしてしまう前に、ゆっくりとアクセルを踏み、走らせ始める。もうカーナビに頼らなくても、2人を送るべき場所は覚えてしまっていた。
「悠仁くん、明日おやすみ?」
「うん、休み。……いつもごめんな」
「よかった、うれしい」
いいんだよな?と、ミラー越しに確認の視線を感じる。俺はそっと頷いた。お休みです。緊急呼び出しがあっても、なんとか阻止してあげたい。
「着くまでもうちょい時間かかるから、寝てな。疲れたっしょ」
「……悠仁くんは?」
「おれは大丈夫。寝顔見たいから」
そうして彼女の頭を抱き寄せて、自分の肩にもたれかからせる。彼女に向けられる視線は、今まで見たことのない、穏やかでやさしいものだった。大切なひとを見つめるとき、この人はこんなにも、解け落ちる雪のように潤んだ目で、世界で一番やさしい顔をするのか。
それを教えてもらえただけで、十分だ。
2人の邪魔をしないように、車を滑らかに走らせる。気がつけば、彼も眠ってしまったようだ。
車内はしんと静かで、ただただ、深夜の東京の音がする。
少しだけ、遠回りしようか。
俺はハンドルを握り直す。

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2026-03-25