補助監督という仕事は、究極の待ちぼうけ、でもある。術師を現場に放り込んで帳を下ろした後は、彼らがボロボロになって戻ってくるのをひたすら待つ。その間俺たちにできるのは、エンジンの熱を保ちながら、彼らが「帰れる場所」を維持し続けることだけだ。
「……虎杖さん、生きてますか」
「んー……、元気よ、すげー元気」
バックミラー越しに声をかけると、ひらひらと振られる手だけが見えた。後部座席に沈み込んでいる彼は、一週間の地方出張任務を終えたと思ったら呼び出され、その足で都内の緊急案件を片付けてきたばかりだ。あまりの忙しさに、さすがに気の毒になる。殺伐とした威圧感に、疲労感。反転術式を使う気力さえ枯れ果てたのか、袖口から生々しい切り傷がいくつも覗いている。
「……さすがに充電切れする……」
「そりゃそうです、あともう少しで帰れます。寝てても大丈夫ですよ」
「……いや、まだ」
そう言うと虎杖さんはスマホを取り出し高速でフリック入力を始めた。普段、圧倒的な破壊力を繰り出すその拳が、意外なほど器用にスマホの上を滑っている。
しばらく会話もなく車は走り続けた。その間も、彼はスマホでのやりとりをやめなかった。
「…………っ、…あー………」
突然の低く掠れた声。驚いてミラーを見ると、虎杖さんは頭を抱えて悶絶している。何事だ。
「ど、どうしました? 呪力残穢でも感知しましたか?」
「いや……ある意味呪いより強烈なやつ、というか」
「?」
「やっぱさ、こっから高専寄んなきゃダメ?」
「そうですね、報告書があるので」
「……だよな、そうだよな」
「……何かありました?」
ミラー越しに視線を合わせる。歯切れの悪い返答は珍しいから気になってしまう。何か仙台か、さっきの現場にまずいことでも残してきてしまったのだろうか。
「……その、…彼女が、ぷりぷりしてて」
「……ぷりぷり」
特級術師から出た、ひらがな4文字。脳が処理できなくてフリーズした。今この人、ぷりぷりって言った?
「出張中、全然連絡できんくて。帰る日も2回くらい、伸びて」
「……あー…、怒らせちゃったんですか」
「いや、俺が悪いんだけどさ。仙台の山奥、電波ねーし、都内のは長引くし……電話出てくんねーし…」
「なるほど」
「……なあ、別に早く帰ってこなくていいよ、気にしてないもん、っていうのはさ、気にしてる早く帰ってこい、って意味だよな」
「それは……確かにそうですね」
口調はあくまで困った風だ。けれどそう言いながら、彼の口角は、隠しきれず緩んでいる。
「虎杖さん、なんか嬉しそうですけど」
「……え、そう?」
「ニヤニヤしてます」
こんな緩み切った特級術師を、俺は初めて目撃した。
「……俺がいないと寂しいって思ってくれてんだなって、…なんか嬉しくて」
バックミラーに映るその笑顔はあまりにも柔らかい。このまま高専に連れて帰らなければならないのが、本当に申し訳なくなる。
「……また悪いんだけどさ、高専の前にここ寄ってくれん?有名らしいんだわ、ここのシュークリーム」
提示されたのは、都内の繁華街にある、行列の絶えない高級スイーツ店。SNSでもテレビでも話題になっているのを確かに見たことがある。目的をすぐ理解して、カーナビの目的地を設定し直す。
閉店時間間際でも、店の前にはまだ着飾った女性たちの列ができている。そこに、返り血を浴びて鉄臭い匂いを漂わせたままの特級術師が降り立とうというのだ。よく考えたら、それはまずい。
「その格好で並ぶんですか? 俺が代わりに行きましょうか?」
「いや。お詫びは自分で選んで、自分で買ってかなきゃ意味ねーじゃん」
彼はそう言うと、パーカーの泥を雑にパッと払い、車を降りようとする。さすがにそれでは店から追い出されそう(もはや通報されそう)なので無理やり着替えてもらった。心配なので同行することにする。
長期任務の影響が抜け切っていない虎杖さんは、殺伐とした呪術師としての存在感を完全には消し去れていない。というか、そうでなくてもデカいし、威圧感というか、オーラがあるのだ。この女性陣しかいない待機列の中で明らかに浮いている。周囲が若干ざわついているけれど、彼は一切気付かない。
この人、無自覚にモテてるんだよなあ。
「……あの」
「ん?」
「彼女さん、怒ると怖いんですか?」
遠慮がちにそう聞くと、彼の頬がへにゃっと緩んだ。そんな顔も、初めて見た。
「んーん、怒ったって全然怖くねーよ。なんか一生懸命で、……その、かわいい」
あ、最後ごまかした。
「けどさ、それは言っちゃだめだろ?ちゃんとごめんって言って、また笑顔にすんのが俺の役目じゃん」
「………虎杖さんって」
「ん」
「俺、一生応援してます」
「なに、どゆこと?」
そうこうしているうちに、順番が回ってきた。虎杖さんは繊細なピンク色のショーケースを、真剣な目で見つめている。なんだかこちらが気恥ずかしくなってしまう。彼の脳内には今、この色とりどりのスイーツたちを見て喜ぶ「あの子」の笑顔しか存在しない。
「買えました?」
「うん。一番デカくてかわいいのにした」
その手元にある紙袋から溢れる、甘くて香ばしいシュークリームの匂い。ピンク色のリボンもついている。
「じゃあ……高専、向かいますね」
「ん、あとどんぐらいで帰れっかなあ……」
バックミラー越しに見える彼の指先は、戦いの名残で傷だらけだ。さっきからしょっちゅう、スマホを覗いている。自分の体の傷には無関心なくせに、彼女の機嫌一つでここまで右往左往する。そのアンバランスさが、あまりにも尊くて、切なかった。
俺は一度、深く息を吐いてからハンドルを握り直した。
「……虎杖さん」
「ん?」
「高専、寄らなくていいですよ」
「え?」
彼は驚いたように顔を上げた。
「報告書は、俺がなんとかしておきます」
「……なんとかなるか?」
「現場の処理に時間がかかり、虎杖悠仁は極度の疲労により寮で休ませた、とでも書いておけば、上も納得しますよ。極度の疲労なのは事実ですし」
「……いや、でもお前に迷惑かけるだろ」
「いいんです。俺が、そうしたいだけですから。……だから、そのまま彼女さんの家まで送らせてください」
俺がそう告げると、彼は一瞬だけ目を丸くしたあと、ひまわりが咲くような、無防備な笑顔を見せてくれた。
「……マジで?ありがとう」
だから、俺がドギマギしてどうする。
早速、カーナビの目的地を彼女のマンションへ書き換える。ゆっくりと車が走り出す。
「彼女さん、喜んでくれるといいですね」
「な、その前にパンチくらいそうだけど」
「え、パンチですか?」
「うん、……すげえ弱くてかわいいパンチ。けどこれやられたらさ、次は1秒でも早く帰ろって思う」
無防備な耳は隠しようもなく赤く染まっている。最強と言われてしまう彼をこの世に繋ぎ止めているのは、呪力でも使命感でもなく、彼女が放つ痛みもない小さなパンチ。なんというか、それは甘い生命線の在り処。俺はそんな秘密を知ってしまった。虎杖さんも数秒遅れて気づいたらしい。泳がせていた視線を無理やり窓の外へ投げ、大きな手で自分の顔を覆い隠す。
「……待って、今のは忘れて」
「え、なんでですか」
「………言ってて恥ずかしくなった。疲れてる、ってことにして……」
「いえ、素敵だと思いますよ。そんなに大切に想える人がいるのって」
「……まあ、俺にはもったいないくらい、いい子だから」
それも、惚気ですけど。なんてことは言わなかった。
マンションの入り口が見えてくる。そっと車を止める。
「ほんとありがと。色々助かった」
いつもの爽やかな笑顔で軽やかに車を降り、エントランスへ駆けていこうとした彼は、ふと思い出したように立ち止まった。助手席の窓をコンコンと叩かれる。
「あのさ、これ」
手渡されたのは、丁寧に小分けされたシュークリームの紙袋。
「え、……これ」
「一個多めに買っといた。はい、お前も。いつもありがとな」
そう言い残して、颯爽と去っていく虎杖さん。御礼を言う隙もなかった。
俺の手に残された、不釣り合いにかわいくて、甘い香りのするお詫びの品。
「……ほんとあの人、すごいな」
彼は今頃、例の「弱くてかわいいパンチ」をお見舞いされながら、嬉しそうに彼女を抱きしめているのだろうか。そうやって、ボロボロになった身体も心もちゃんと休めているのだろうか。
袋を開けて、シュークリームをかじってみる。驚くほど甘かった。