sight

前話:taste

お湯に浸かった瞬間、傷口がチリチリと焼けるように沁みた。油断した。つい顔に出てしまった。
「……だいじょうぶ?痛いの?」
「んーん、平気。ごめんな」
浴室のやわらかな明かりに照らされた彼女の輪郭は、湿った空気の中に溶け出して、境界線が曖昧になっている。油断したら消えてしまいそうな、陽だまりに透ける羽みたいに儚い。かわいくて、綺麗で、自分と正反対のその弱い存在に、くらくらする。浴槽の縁に置かれた、俺の傷だらけの指先と、そのすぐ隣にある、傷一つない彼女の細い指。
「……悠仁くん、見すぎ」
「ひさしぶりに会ったから」
「2日だけだよ?」
「#name#ちゃんと風呂入るために頑張ったおれにそんなこと言わんで」
「そうなの?ごめんね」
「……うん、すげー頑張った」
彼女の手が伸びて、俺の髪を指でそっと梳かしてくれる。目を閉じて、その弱くてやさしい力に委ねる。心地良かった。傷跡にお湯が当たるたび、焼けるような痛みが走っても。別に普段は治すほどでもないと忘れているはずの痛みが、浴室の中で主張してくる。それでも、このあたたかくて狭い空間で、彼女の素肌と密着しながら過ごせることが何より嬉しかった。
「⋯⋯また、傷増えてる」
「ん、そう?昨日のかも」
「ちゃんと治してねって言ってるのに」
む、と彼女は頬を膨らませた。かわいい。ごめんな。
「きりがないから全部治してないだけで、痛いのは全部ちゃんと治してるから」
「⋯⋯でもさっき、痛いって顔してた」
「⋯⋯⋯まあ、たまには痛いこともある」
「こら」
「ごめん、ちゃんと治すから」
「大切な身体だって、言ってるでしょ」
「うん、ありがと。……好きだよ」
浴槽からお湯が溢れ出るみたいに、それは自然とこぼれ出た。わたしも、と返してくれる彼女の身体をじっと見つめる。
湯気で濡れた長いまつ毛の先に、小さなしずくが宿っているのが見える。瞬きをするたびそのしずくはこぼれて、潤んだ瞳が真っ直ぐ俺を見つめてくれる。
「#name#ちゃんの目、綺麗でかわいくて、おれ大好き」
「…うん」
それから、俺の名前を呼ぶとき小さく震える、かわいい唇。さっきのケーキの味がまだ残っているような気がして、視線が吸い寄せられる。思わずキスしてしまう。驚いて少し跳ねた彼女の身体。浮き出た細い鎖骨のラインに水滴が溜まり、彼女の呼吸に合わせてきらきらと揺れている。俺の汚れた手が触れるたび、そこだけが鮮やかな熱を持って浮き上がるのが、たまらなく綺麗で、怖かった。俺が力を込めたら簡単に壊れてしまいそうで、視界に入るたび、胸の奥がジリリと焼ける。
ひとりのとき、よく目を閉じて思い出すのは、この子が俺を呼ぶ声。そしてこの、触れたら壊れてしまいそうなほど繊細で、でもやわらかい身体。
「……悠仁くん」
「ん?」
「⋯⋯急に静かになるから。まだ怪我、痛い?」
心配そうに伸ばされた彼女の手が、俺の頬に触れる。その手を自分の手で重ねて、彼女の瞳を真っ直ぐに見返した。
「……ううん。もう治った。たださ、ずっとこうやって、#name#ちゃんのこと見てたいなって思っただけ」
もっと身体を寄せた。世界にはふたりだけしかいない。
「おれの目にはさ、普段ロクなもんが映んないから」
「⋯⋯うん」
「でも#name#ちゃんを見ると、色んな汚いもん全部、おれの世界から消えていく気がする」
濡れた彼女の髪をそっと耳にかける。彼女は俺にかける言葉に迷っている。何も言わなくても、その切実な瞳を見ただけで、それだけでよかった。
「だからここにいられて、すげーしあわせ。ありがとう」
「わたしもしあわせだよ。しあわせにしてくれて、ありがとう」
「それはおれのセリフ」
俺の視線に、彼女はさらに顔を赤くして、でも逃げずにじっと見つめ返してくれた。視界が彼女一色に染まって、心臓の鼓動が早まっていく。見てるだけじゃ、だんだん足りなくなってくる。触れたくなってしまう。のぼせそうになっている彼女と一緒に浴槽を出た。
「#name#ちゃんの背中、洗っていい?」
「⋯⋯うん」
背後に座って、その白い背中を見つめる。ゴクリ、と無意識に喉が鳴る。泡だらけの俺の手は、鉄臭い血を洗い流したはずなのに、まだ赤黒い記憶を纏っているような気がする。だから一瞬、触れるのがためらわれた。いつもそうだ。いざ触れるとき、無意識に躊躇してしまう。顔を上げると、鏡越しに目が合った。触っていいよと、彼女は伏し目がちに笑ってくれた。
「⋯⋯ほんと、すべすべ」
その背中にそっと、手を這わせた。俺の汚れは彼女の純白に溶かされて、一瞬で消えていく。
これからも俺は何度も何度も汚れて、傷ついて、そうやって生きていく。自分で選んだことだから、仕方ない。受け入れている。それでいい。何度傷ついてもいい。そのたびにこの子が俺のことを大切だと言って、怒って、泣いて、笑ってくれるから。
ゆっくり石鹸の泡が流されて、彼女の肌が露わになる。白かった肌が、熱を帯びてじわじわとピンクに染まっていく。かわいい。本当に、すべてがかわいい。
「……だめだ、もう。見てるだけなんて無理だわ」
濡れた髪をかき上げて、彼女の白いうなじに深く顔を埋めた。目を閉じる。しずくがぽたぽたと落ちる音、自分の心臓がバクバク跳ねる音、彼女のゆったりとした吐息。ひとつひとつ丁寧に聞いて、深呼吸する。顔を上げると、また鏡の中で目が合った。やさしいけど、切実な視線。背中がぞくぞくした。
「……あがったら、もっとちゃんと触らせて」
「⋯⋯うん」
彼女が頷いたのを確認して、抱きかかえるようにして浴室を出た。一度服を着せてしまうのが惜しいくらい、すぐにでも触れたかった。

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2026-03-20