仕事終わりに後輩たちを連れて居酒屋へ向かうのは、もう何度目だったか。
その夜は、春だというのに少し肌寒かった。
「虎杖さん、最近も忙しいんですか?」
「……んーどうかな、ぼちぼちかな」
今年入った新卒の、直接的な教育係ではないものの、人事から何度か色んな協力を頼まれたりすることもあって、何かあるたび(いや、もはや何もなくても)こうして居酒屋へ連れてくることが増えた。
後輩たちの笑い声を聞きながら、ビールを煽る。増えていくジョッキ、空の皿たち。
こういうのは年上から積極的に飲み食いするべしと、かつて猪野さんに教わった。まあ、あの人は今となっては俺に飲ませる方が好きだけど。
時刻はすでに22時を回っている。そろそろ、と店員の呼び出しボタンを押した。それを合図に、みんなが同時に財布を取り出し始めたのでやんわり制止する。
「いいよ、俺が出すから」
「でもいつも悪いですよ」
「俺にはいいから、将来後輩ができたら奢ってあげな」
これも、ほんとは猪野さんの受け売りなんだけど。
ふと窓の外に目をやる。いつの間にか小雨が降り出していた。傘、あったっけ。反射的に考えるけど、すぐ鞄に折りたたみ傘が入っていることを思い出してひとりで嬉しくなる。悠仁くんもちゃんと天気予報見ないとだめだよ。今朝、玄関で手渡してくれたあの表情を思い出して、募っていた感情が余計に深くなる。早く会いたいと、切実に思う。
会計を済ませて店を出ると、後輩の女の子たちが数人、飲み足りない、残りたいと駄々をこねていた。
「ほら、ちゃんと帰んな。明日も朝早いって言ってたっしょ」
こういう状況に慣れてはいる。とにかく終電は逃させないようにとか、個人的な連絡先を交換する流れにならないようにするとか、不用意に触らんとか、気をつけないといけないことはたくさんあって。
「だーめ、電車しんどいなら俺タクシー呼ぶから、な?」
やさしく説得してもなかなか聞いてくれない。まだ終電は残っている時間だけど仕方ない。これ以上預かるわけにはいかなくて、タクシーを呼んでなんとか乗ってもらうことに成功した。
そうして最後まで手を振って見送ったあと、ふぅ、と息をついた。一気にしんと、周囲が静かになる。肩が少しだけ重い。年度初め、何年経ってもいつも忙しいんよな。
「……もう寝てっかな、」
つぶやいた言葉が、夜風に溶けていく。雨を吸って生温い春の風。ポケットからスマホを取り出して、彼女とのトーク画面を開く。
『いま駅出た。もうすぐ帰る』
そんなふうに短文とか、スタンプ一つ送るだけで、疲れていた気持ちが和らぐ。既読がつく、やさしい返事が返ってくる。それだけで嬉しくて、疲れで重かった足取りが少し軽くなる。とにかく早く会いたかった。
マンションのエントランスをくぐって、エレベーターの中でネクタイを緩めた。鏡に映る自分はやっぱり少し疲れていて、でももうすぐ会えるあの子にそれは悟られたくなくて、ひとつ深く、息を吐く。
そうしてゆっくり、玄関のドアを開けた。
「おかえり、悠仁くん」
すぐに聞こえてくるやさしい声と、ただいまと言わずともわかる笑顔。
「……ん、ただいま」
話したいことはたくさんあったはずなのに、それ以上はうまく言葉が出てこなくて、靴も脱がず、そのまま倒れ込むように彼女の胸元に顔を埋めた。
「……もう寝たかと思った」
「ちゃんと起きて待ってたよ」
「……うん、」
いつもこうだ。彼女の体温やにおい、やさしい声に触れると何もできなくなる。不安と安心が混ざり合って、そしてだんだん安心の方が大きくなる。
「………ちょっと、充電していい?ごめん」
深呼吸して、そのままぎゅっと抱きしめる。俺がよく知ってる、柔軟剤の香り。
「ほんとは、飲み会なんていらんからすぐ会いたかった」
小さく告げると、彼女の指がやさしく後ろ髪を撫でた。
「……いい先輩やっちった」
「頑張ったんだね」
「…ほんとはさ、途中で抜けて走って帰りたかったくらいで」
彼女の胸元にぐりぐり頭を押し付けて、すん、と鼻を鳴らす。
「……ちゅーしていい?」
顔を上げると、目が合った。かわいい。頷いてくれるのを待って、少し屈んで、そのまま軽くキスをする。1回、2回。そうやってやっと、呼吸が整う。
「ごめん、こんな玄関で」
「ううん、大丈夫だよ」
その声にまた安心して、今度はちゃんと靴を脱ぐ。鞄も下ろす。スーツの上着を脱がそうと、襟に手をかけてくれた彼女とまた目が合う。キスする。その繰り返し。
「……悠仁くん」
「ん」
「全然進まないよ」
「……うん、ごめん」
でもあと1回、もう1回。なかなか止められない。
「……もうちょっとだけ、充電させて」
そのまままた胸元に顔を埋めた。ずっと会いたかったし、抱きしめたかったし、キスしたかった。肩の力がすっと抜けて、本来の自分に戻っていく感覚。本来の自分はわがままで、寂しがりやで、いつも彼女を困らせる。
「悠仁くん、リビング行こ、ね?」
「………やだ、いま離れたらおれ死ぬ」
「…死なないで」
「あと5分だけ」
彼女の肩に額をくっつけて、首筋に唇を押し当てる。吸うみたいに呼吸して、何度も、何度も。
「疲れちゃったの?」
「……うん。今日は特に、ちゃんと先輩やったし、忙しかったから」
「えらいね」
ぽつりと言われたその言葉、俺の背中を撫でるその手。泣いてもいいよと言われてるみたいで、ほんとに泣きそうになるから、冗談にならない。少しだけ体を起こして、今度は鼻と鼻を擦り合わせる。
「ふふ、…なんかくすぐったい」
そう言って笑ってくれる彼女がかわいくて、いとしくて。心臓はドキドキするのに、だけどなんでこんなに落ち着くんだろう。理由はわからない。ずっとわからないままだ。でもそれでいい。続きはリビングで十分できるのに、この体温が少しでも離れるのが寂しくて、あと少し、もう少しだけ、と唱えながら何度も抱きしめる。
「……悠仁くん」
「ん?」
「お風呂一緒に入ろって言ったら、動けそう?」
「……それは、…めちゃくちゃ動ける」
正直に答えたら彼女はふんわり笑った。だってお風呂は別だからさ。そう呟きながら一度だけ、そのおでこにキスして、手を繋いで洗面所に向かう。
本来の俺はわがままで寂しがりやで、そしてどうしようもなく彼女のことが好きなのだ。
今日の疲れは、彼女のやわらかさとほかほかしたお湯に溶けていってしまった。