ホワイトデー

3月14日。21時を回った頃の空気は、春の予感を裏切るように鋭く冷えている。
都心から少し離れた、街灯がまばらに続くこの場所で、ようやく任務から解放された。
「……あー、クソ。また、これだ」
まだうっすら指先は痺れ、パーカーには自分のものではない、鉄臭い返り血と泥がべったりと張り付いている。どのタイミングでついたのか、正確に思い出せない。思わず漏れ出るため息。緊張が解れて感じるのは、ズキズキと拍動するように痛む頬。どうやら呪霊の爪が掠めてできた、大きめの切り傷がある。これはすぐ治しておいたほうがいい。彼女が気にするから。反転術式を使いながらポケットからスマホを取り出し、壊れていないのを確認した。すぐに電話をかける。
出てくれないことだって、十分ありえた。だって、とっくに約束の時間は過ぎている。内心はめちゃくちゃに焦っていた。スマホを支える指が震える。
今日はホワイトデー。だから待ち合わせて、ちゃんとデートしよう。そう約束していたのに。
頼む、電話出て。そう祈りながら聞いた3コール。
「もしもし、…だいじょうぶ?」
「……ごめん、いま終わって」
電話に出た彼女の声は、少し小さくてぎこちなかったけど、それでも俺を責めるような声色はしていなかった。
「いまから家、帰るからさ、…本当にごめん」
「……あ、あのね」
電話越しに、車が通り過ぎるような音が聞こえてはっとする。
「外?どこにいる?いま」
「待ち合わせ場所にいるよ」
反射的になんで、と聞いてしまった。待ち合わせは19時だった。単純に考えても2時間以上経っているし、万が一来なかったら帰っていい、と伝えていたのに。答えを聞くより前に、勝手に身体は走り出していた。焦りで背中がひやっとする。
「とりあえずすぐ行くから」
「うん、待ってるね」
「もうそこ、暗いんじゃねえの?明るいとこいて」
「だいじょうぶだよ、人通りもあるから」
そういうことじゃなくて、と言いかけて口をつぐんだ。説教するべきタイミングじゃねえし、そもそもそんな資格はないし。とにかく全力で走った。早く会いたかった。
夜風が頬に刺さる。こんな夜に、たったひとりで、いつ来るかわからない相手を待っていたなんて。そう思ったら鼻の奥がつんとする。
数十分走り続けて、ようやく待ち合わせ場所の橋が見えた。その入り口、街灯のオレンジ色の光が丸く落ちるその下に、小さく丸まっている人影が見える。心臓が一度、ドクンと大きく跳ねる。
彼女は冷たい夜風に吹かれて、鼻先を赤くしながら、自分の手をこすり合わせて立っていた。時折、かじかんだ指先にふっと息を吹きかけて。切なくなって、駆け寄る足が止まってしまう。
「……あ、悠仁くん!」
俺を見つけた瞬間の、花が咲いたような笑顔。なんて言われるか、なにを言おうか、走りながら色々考えていたのに、それを見た瞬間、全部忘れてしまった。かわいかった。いつだって天使みたいだ。
「……なんでいんの。帰っていいって言ったよ、おれ」
声が、情けないほど震えた。俺はボロボロで、鉄臭くて、約束も守れない、そういう奴なのに。
「怪我してるの?だいじょうぶ?」
「平気、……これはおれの血じゃねえから」
俺の血の匂いを気にする素振りも見せず、彼女はこの傷だらけの手を、両手でそっと包み込んでくれた。その手はやっぱり冷たかった。
「……すげー冷えてる。ずっといた?」
「だいじょうぶだよ」
「……こんな寒いとこにさ、しかも暗いし、人もあんまいねーし、あぶねーのに」
「いいの。待ちたくて待ってたから」
「そうじゃなくて、」
ぎゅ、と小さな手に力が入る。俺が文句を言いそうになるのを、その力が止める。
「帰っちゃったらデートじゃなくなっちゃうの、いやだったの」
その言葉に、もう何も言えなくなってしまった。抱きしめたかったけど、今の自分はあまりにも汚い。躊躇していたら、彼女の腕がそっと、俺の背中に回った。
「悠仁くんとデートしたかったから。待つのは平気だったよ」
「……ごめん」
「ううん、来てくれてありがとう」
布越しに感じる、彼女の体温。疲労感も罪悪感も、こうしていると少しずつ消えていく。彼女が、溶かしてくれる。ひとつ、深呼吸した。
「……渡したいものがあって」
「うん?」
「バレンタインの、お返し」
緊張のせいで震える手で、懐から小さな包みを取り出す。呪霊の返り血がかからないよう、厳重に奥にしまい込んでいたそれはひとつも汚れていなくて、とりあえず安心した。これを守りたくて負った怪我もあったけど、それはどうでもよかった。彼女の手をそっと取って、小さな手のひらに乗せる。
「……いいの?」
「うん、開けてみて」
その手が包みを開けて、ゆっくり箱を開くまで、心臓がずっと鳴り止まない。永遠かと思うくらい、長かった。
箱の中には、細く繊細なチェーンに通されたシンプルなネックレスが、夜の街灯に照らされてキラキラ光って待っていた。
「こういうの詳しくねえから、正解かわからんけど」
「……きれい、かわいい」
「#name#ちゃんに似合うと思って」
「すっごくうれしい、ありがとう」
彼女が目を潤ませて、本当に嬉しそうに笑うから。だからこれは、たぶん正解だったんだとわかった。
「今つけてもいい?」
「ん、いいよ、…おれがつけたげる」
彼女がマフラーを取って、後ろを向いた。髪をかき上げれば露わになる、真っ白で無防備なうなじ。そのあまりの細さと柔らかさに、喉の奥が熱くなる。煩悩を振り払って、その細い首に鎖をかけた。チェーンを留める手がまだ少し震える。彼女を自分のものにしたような感覚がして、顔が熱くなる。彼女の日常に、勝手に自分の居場所を刻むような儀式。こんな細い首筋の、俺よりずっと弱い女の子に、俺は望んで自分の命を預けている。思わずそのまま、勢いで首筋に唇を合わせると、彼女が驚いて振り返った。
「わ、なに?」
「……ごめん、綺麗でかわいくて。似合ってるよ」
正面に向き直った彼女を思い切り抱きしめる。服に染みついた鉄臭い匂いが気になるけど、仕方ない。彼女からただようふんわりした石鹸のような、花のような甘い香り。それがあるだけで安心した。
「……会えない時さ、おれどうしても寂しくて、ずっと寂しい寂しいって、バカみてえに思ってるんだけど」
「……うん」
「けど、会えない時も#name#ちゃんがこれつけてるって思ったら、ちょっと安心する、…かも」
「ふふ、…うん、わかった」
「…………待てよ、なんか、おれ」
「うん?」
「すげー恥ずかしいこと言ってない?」
「ううん、嬉しいこと言ってくれたよ」
彼女のなめらかで細い指が、チェーンをそっとなぞる。白い鎖骨の上で光るそれは、すごく綺麗だった。
「……わたしもこうやって、悠仁くんのこと考えるね」
腕の中にいる彼女の体温、耳元で聞こえる小さく早い自分の鼓動。
「……めちゃくちゃ緊張した、渡すの」
「そうなの?」
「うん。…今もまだ、ドキドキしてる」
誤魔化したくて、少し屈んでその鎖骨に唇を寄せる。冷たくて、でもやわらかい肌。ちゅ、と音を立てながら、痕がつかない程度に吸った。
「ん、…っ、ここ外だよ、悠仁くん」
「ごめん、ちょっとだけ」
どうせ誰も来ないから。それを言い訳に、あと2回。ぎゅ、と俺の袖を掴む彼女の手を絡め取って、逃がさないように繋ぐ。会えないときも、こうして会ってるときも、彼女の体温は頭から離れない。
「……いまからおれと、デートしてくれる?」
頷いてくれた彼女の、赤くなった頬にキスした。こんな時間で、もう普通のデートはできないのに、それでもこの子は笑ってくれる。そういうことが、俺の人生を底から温めてくれる。苦しいくらい、好きだと思った。

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2026-03-14