きみは天使

カーテンの隙間から差し込む朝日が、シーツに白いラインを作っている。それをぼんやりとした視界の中で捉える。心地良い倦怠感。隣で微かな寝息を立てている彼女。いつものように抱き寄せようと手を伸ばした瞬間、自分の心臓が、一度止まってから激しく跳ねるのを感じた。
毛布の端から覗く、彼女の白い肩。そこには、赤紫色の歯型が、痛々しいほどくっきり刻まれていた。
「………っ、そうだ、昨日」
思わず口から声が漏れ出る。昨夜の、あの熱くて湿った、理性が焼き切れたような記憶が、濁流みたいに一気に押し寄せてくる。耳が熱くなった。やばい。
そっと、毛布をめくる。肩だけじゃない、首筋も鎖骨のくぼみも、胸元にも、赤い痕が広がっている。見ていられなくて、一度毛布をそっと戻した。
「……力加減が下手すぎるだろ、おれ」
いや、下手だったわけじゃない。そもそも力加減をしなかった。しない選択をした。めちゃくちゃにしたかったから。ずっとこれまで、壊さないように、傷つけないように、それこそ薄いガラスを扱うみたいに触れてきた自分を、自分で否定した。
ごめん、痛かったよな。吸い寄せられるように、その痕に指を伸ばす。指先は自分でも笑えるくらい震えていて、赤くなった肌をそっと、本当にやさしい力でなぞった。やわらかくて、あたたかい。彼女の体温が、指先を通して伝わってくる。こんなに傷ついても、変わらずやわらかくてやさしい感触がする。好きだ。
「……ん、……ゆう、じくん、……?」
小さな声に、俺は弾かれたように指を離した。彼女がゆっくりとまぶたを開ける。昨夜、涙を流して俺だけを見つめていた、あの瞳。
「……おはよ」
「……ん、なあに、どうしたの」
あまりに俺が真剣に覗き込むから、彼女はぼんやりした目のまま、ふわりと笑った。
「いや、…あのさ、その、……どっか、痛むとこ、ねえ?」
「ううん、ちょっと腰が重いけど、へいき」
「それ以外は、痛くねえ?……いや、そんなわけないよな」
肩の痕をそっと親指で撫でて、首筋の赤に触れるだけのキスをする。
「体中さ、……おれがつけた痕あんの。これ、痛いだろ」
「……あ、」
彼女の頬が赤くなる。色々、思い出したんだろう。
「ちょっと痛いけど、だいじょうぶだよ」
「……ほんとにごめん」
そっと、何もかもが痛まないように抱きしめる。細くて小さな身体。乱暴な俺にどんなに翻弄されても、好きだと言ってくれた彼女の、綺麗な身体。
「もうあんなことしねえから、許して」
「………もう、しないの?」
「え」
思わず抱きしめていた腕を緩めて、彼女の顔を見てしまう。恥ずかしそうに、でもいたずらっぽくこちらを見上げる彼女は、なんつーか、しぬほどかわいくて、昨日の加虐的な自分が顔を出しそうになる。
「……昨日、とっても嬉しかったし、悠仁くんはかっこよかったし」
「……え、」
「すてきな夜だったなって、思ってるけど」
この子は俺を煽るのが上手すぎる。かわいい。もっかい言ってほしい。
「んなこと言われたらおれ、反省しねーよ?」
「……それはだめ。反省、して」
楽しそうに笑う彼女をもう一度抱きしめる。胸の奥が、ジリリと焼けるように波立つ。嫌われたかもしれない、とうっすら浮かんでしまっていた疑念を、この子は自然に否定してくれる。そういうところが好きだと、また思う。
「……薬、持ってくる。……これ、あざになるかもしんねえし」
「うん、ありがとう」
「一旦さ、これ着て」
ベッドの脇に置いてあった、昨夜脱ぎ散らかしたままの自分のTシャツを掴んで、彼女に手渡した。とりあえず肌を隠してもらわないと、自分も彼女もベッドから一生出られない、気がする。その白い肌と触れ合い続けたら、また衝動が漏れ出しそうで怖かった。
救急箱を持ってきて、彼女の前に膝立ちになる。冷たい薬を指にとって、肩の歯型にそっと塗る。
「……ほんと、ごめんな」
「もう謝らないで」
指先で、その形を、執拗になぞる行為。薬を塗るためだと言い聞かせても、動きに熱が入ってしまう。彼女がくすぐったそうに、あるいは少しだけ痛そうに肩を震わせるたび、昨日の彼女の潤んだ表情を思い出す。自分の指先が、動きが、この子の感覚をコントロールしている。そう思うと心臓がバクバクする。思わず鼻先を彼女の首筋に近づけて、深く息を吸い込んだ。
「……かわいすぎて、集中できん」
「悠仁くん、……くすぐったいよ」
「……ん、……もうちょっと、ごめん」
昨日は最後、ふたりの境界線が曖昧になって、溶けるように眠りについた。それなのに、もう彼女と俺の間には隔たりがある。触れるだけでは埋まらないもの。それが寂しい。
「……こんなこと言ったら、怒るかもしれんけど」
「うん?」
「……おれ、この痕が消えなければいいのにって、思ってる」
いつだってこの子は、俺のことを好きだと言ってくれる。隣にいてくれる。それはわかっていても、自分でもどうしようもない渇きや飢えみたいなものが、確かに自分自身の中に存在する。彼女の身体についた赤い痕は、自分でもコントロールできないその欲たちを、なんとかなだめてくれる。
「……傷つけたいって意味じゃねえんだけど、ごめん」
「だいじょうぶ、ちゃんとわかってるよ」
「ちゃんと薬、塗るから」
そうやって肩以外も、指でそっと薬を塗った。問題は、敏感な胸元や内腿に塗るときだ。
「……ゆ、うじくん、そこは塗らなくてもいいよ」
「けどここ、めちゃくちゃ赤いから」
「そうだけど……この体勢、恥ずかしいから、やだ…」
「……………たしかに、めちゃくちゃえろい」
「んもう」
おでこを小突かれて、脚を閉じられてしまった。今日は無理やりこじ開けるなんてことはしなかった。ごめん、と謝ってキスすると、彼女は楽しそうに笑ってくれる。世界で一番、かわいい。
「……今日は、これ着てて。おれの服」
薬を塗り終えた彼女の身体を自分のパーカーにすっぽり収めて、ほんの少しだけ独占欲を落ち着かせる。彼女の細い首筋に顔を埋めて、ゆっくり呼吸する。彼女のにおいと、自分自身のにおいが混じり合っている。それに心底安心した。
「……おれさ、やっぱりやさしくねえよ」
「どうして?」
「……#name#ちゃんのこと、こんなにめちゃくちゃにしたのにさ」
「……うん」
「それでも、まだ足りねえって思ってるんよ」
彼女の指が、俺の頭をやさしく撫でた。この子は痛みを、痛みで返さない。そんなのずりいよ、と思う。
「……悠仁くんがわたしにくれるものは、ぜんぶ好きってきもちでしょ?」
「うん、…そうだよ」
「だからいいよ、うれしい」
「………天使じゃん、そんなん」
「ふふ、そうかなあ」
朝の光の中で、彼女を壊さないように、でも二度と離したくなくて、強い力でその身体を抱きしめた。しあわせで、それが苦しくて、いとしくてたまらない。その全部が、彼女の肌に残った、この痕に刻まれている。

← back

2026-03-08