「……んなあ、もうおしまい」
枕元でスマートフォンの画面を眺めていたわたしの視界は、唐突に遮られてしまった。
「わ、どうしたの」
背後から伸びてきた、大きな手のひら。それはびっくりするほど熱かった。わたしの視界は完全に覆われてしまって、感じるのは背中に被さる体温と質量、かすかな石鹸の香り。
思わずスマホを落としそうになると、自由な方の手がわたしの手首をそっと掴む。
「何も見えないよ」
「見えなくしてんの」
「どうして」
「……#name#ちゃんがスマホばっか見てるから」
耳元で響いたその声は、少し掠れていて低かった。そういうときの表情はなんとなく想像がつくから、反射的に心臓が跳ねてしまう。怒らせちゃった、かもしれない。悠仁くんはまだ離してくれなくて、肌に触れる彼の指先の質感とか、その微かな脈動が直に伝わってくる。
「……ごめんね、別に無視してたわけじゃないよ」
「無視だった」
「してない、返事してたもん」
「ちげーの、おれ寂しかったから、あれは無視」
そんな子どもみたいな理論。そう思ったけど黙っていた。でも寂しい気持ちにさせちゃったなら、無視と同じだね。なんだか納得して笑ってしまったら、手のひらの力がちょっとだけ強まった。
「……子どもか、って思ったっしょ」
「ふふ、思ってないよ。謝りたいから、離してくれる?」
悠仁くんは一瞬だけ動きを止める。少しだけ沈黙があって、そのままそっと手を離してくれた。だからといって、解放されたわけではなかったんだけど。サイドテーブルにわたしのスマホを置くと、ゆっくりと上半身を起こして、わたしの真上に覆いかぶさる。こちらを見下ろすその瞳は、なんだか熱かった。怒っているのとは違うけど、切実な視線。
「……ん、離した」
「ありがとう、無視してごめんね」
スマホの明かりも頼れなくなって、寝室は暗闇に包まれている。うっすらと月明かりに照らされた悠仁くんの表情。何か言いたげで、でも迷っている感じ。寂しそうにも見える。飢えた獣みたいな、けれど子どもみたいな、そういうもの。
「……やっとこっち見た」
わたしの右手をそっと取って、そのまま、自分の手のひらの上に重ねる。しばらく見つめ合っていると、わたしの指の隙間に、悠仁くんの太い指がゆっくりと滑り込んできた。一本ずつ、丁寧に、隙間を埋めるように。また心臓が跳ねてしまう。
さっきまで強引だったのに、いまの触れ方はびっくりするほどやさしい。指は完全に絡まり合って、彼の手のひらにわたしの手はそっと包み込まれた。
「……ちっちゃくてかわいいな、いつも」
「悠仁くんと比べたらそりゃそうだよ」
「だっておれが本気でこうやって指絡めたらさ、簡単に隠れちゃうんよ」
「……うん」
「離してって言われたから離したけど。……おれがやだって拒否したら、もう絶対離れらんないよな」
それは、どういう意味なんだろう。
「……意地悪なこと言わないで」
「意地悪じゃなくて、ちゃんとほんとに思ってることだって」
その瞳は少し濁った熱を帯びていて、何も言えなくなってしまった。やさしいのにやさしくなくて、甘いけど苦しくて、動けない。黙ってしまったわたしの指先が、悠仁くんの口元に運ばれていく。一本ずつ、少しずつ。まるで悠仁くん自身の熱をすり込むみたいに、指の腹を吸い上げるようにキスされる。まるでマーキング、みたいだと思った。ほおが熱い。
「おれがよく考えること、なんだけどさ」
「……うん?」
「おれが隣にいられないとき、今、誰かがこの手に触れてんじゃねえかとか、やさしくしたり傷つけたりしてるんじゃねえかとか」
悠仁くんの唇は、わたしの手の甲、手のひら、手首の内側、全ての脈打つ場所に、深く重く押し当てられていく。
「そういうこと考えて、嫌になるんよね」
「……悠仁くん」
「おれが一緒にいられるとき、できるだけやさしく触りたい。こんな汚い手でも、それくらいはできるかもって」
「いつもやさしいよ」
「離したくねえ、離れないでいるにはどうしたらいいんかなって、考えて、でもこの手にそんな資格あんのかな、とも思うし」
そのまま、彼はわたしの手をシーツに押し付けて、さらに覆いかぶさる。その力は強かった。カサリ、とリネンが擦れる音が、静まり返った部屋の中でやけに大きく響く。
「もしこうやって強くさ、離さんようにしたら叶うんかなって。おれ、力だけは強いし」
ぎゅ、と手首に伝わってくる力はたしかにとても強くて、少し痛かった。押し寄せてくる熱をどう受け止めていいかわからなくて、でも目線は逸らせなかった。
「…………痛い?」
「うん、……ちょっと」
「ごめん」
もう離してくれないかと思ったのに、その手は案外すぐに離れていく。たぶん、わたしが一瞬痛みで顔を歪めたからだ。そういうところがやさしくてすき。
「悠仁くん」
「……ん」
「わたし、悠仁くんのことだけ、好きだよ。いちばん好き」
「……うん」
「いちばんっていうか、その下はないんだよ、本当に」
解放された手を伸ばして、悠仁くんのほおをそっと包む。
「悠仁くんの手、汚くないよ。おっきくてやさしくて、大好き」
そう言ったとき、その瞳が不安定に潤んだのを、わたしは見逃さなかった。
「……強く押さえてくれてもいいけど、そうじゃなくても、わたしはどこにもいかないよ」
「うん、……ちゃんとわかってんだけどさ、おれ」
「……確かめないと怖いときも、ある?」
「時々、……いや、毎日かも」
彼の大きな手のひらが、わたしの服の隙間から肌へと滑り込む。油断したから変な声が出た。
「かわいい」
「びっくりしたんだもん」
「ごめん、もっと欲しくなった」
悠仁くんはそのまま勢いよくトレーナーを脱いで、わたしの腰を抱き寄せた。もう片方の手はわたしの後頭部をちゃんと掴んでいて、離れられない。心臓と心臓が合わさっている。首筋や耳の後ろ、鎖骨のくぼみ。露出した肌に、ゆっくり滑っていくその手のひら。
「……好きって言うだけじゃ、足りんよ」
重なる唇は、驚くほど熱かった。彼の胸板とか、太い腕とか、視界はそういうもので埋まってしまって、身体がすぐ熱を帯びる。何かを思い出したみたいに。思わずシーツを掴んだわたしの指先に、彼の大きな手が再び重なって、指を絡められる。鎖みたいに、離れない。
外では何も知らない静寂が続いている。目の前にあるのは、理性が焼き切れる寸前の、悠仁くんの切実な本音。ふたりの肌が汗ばんで重なる音、熱い吐息、そういうものが渦のようになって、ベッドに沈んでいく感覚がした。