弱点について

「女の子の扱い方」が上手いとか下手とか、そういう話が苦手だ。苦手というか、そういう型に当てはめて誰かを扱うことが好きじゃない、ということかも知れない。
今日は朝から曇天で、アスファルトを叩く雨の匂いが、窓の隙間から微かに忍び込んでいる。
なんとなく、良くない予感がしたのだ。だから雨が酷くなる前になんとか任務から戻って、玄関のドアを開けた。いつもなら花が咲いたような笑顔でリビングから出てくる彼女が、今日はいない。ちゃんと靴は(乱雑だけど)置いてあって、帰ってきてはいるみたいなのに。その靴は右足だけ少し、外を向いて放り出されている。
予感はちゃんと、当たってしまった。
「ただいま」
靴を脱ぎ、リビングへ足を向ける。そこには、ソファの上で毛布を頭まですっぽりと被り、丸まっている小さな背中があった。動物みたいでかわいい、とは言わなかった。その背中はピクリとも動かなくて、俺に背を向けたままだ。
「……#name#ちゃん、生きてる?」
返事はない。そんな反応は予想できたことだから平気だった。俺がそっと隣に腰を下ろすと、毛布の塊がビクッと跳ねる。かわいい。
「お腹いてーの?頭?大丈夫?」
もう一度声をかけると中から現れたのは、涙で赤くなった目をした、なんだか今にも噛み付いてきそうな、いわゆる野獣モードの彼女だった。普通にそれもかわいいけど、刺激しては良くないので黙っていた。
「てきとうに慰めないでっ」
おお、ぷりぷりしている。かわいい。どうやらやっぱり体調が悪いらしい。たぶん、お腹のほう。生理、なのかも。
「……帰ってくるの遅いよ」
「ん、ごめんな」
ぐるぐる巻きの毛布をなんとかほどいて、真っ直ぐ彼女の目を見つめる。怒ってるし、しんどそうだ。
「ずっといい子でいるん、疲れるよな。気づくの遅れてごめんな」
「……ずっと待ってたのに」
「そうだよな、ごめん。ちゃんとあったかくして待っててえらいよ」
「……子ども扱いしないで」
あーあ、トゲトゲしてる。彼女の警戒心を溶かしたくて笑ってみたけど、いつものようなかわいい笑顔は返ってこない。彼女の指先は、毛布をぎゅっと握りしめたままだ。本当は甘えたくても、どうしてもトゲが出てしまう。きっとそんな感じなのだと、思う。かわいい。でもまだ言わない。
「ひとりになりたかったら、おれコンビニ行くけど。……なんか、甘いもんでも買ってくる?それとも、温かい飲み物の方がいい?」
「…………なんで」
「ん?」
「なんで、ひとりにするの、ひとりにしないで」
予想外のところでぷりぷりがやってきた。
生理の前はそういうことがよくある、自分でもコントロールができない。そんなふうに言ってたっけ。
ああこれだ、と思いながら、その理不尽なぷりぷりっぷりに、思わず口角が上がりそうになってしまうけど、かわいいなんて言ってはいけない、今は。
「ごめんな、おれが悪かった。行かんよ、どこにも。ここにいるから」
彼女の小さな拳が、遠慮がちに俺の胸を叩いた。理不尽だって、自分でもわかってるんだろう。さっきまで「あっち行け」と言わんばかりだったのに、今度は「離れるな」と泣きそうな顔をする。迷わず彼女を毛布ごと抱き寄せた。腕の中に収まる彼女は、小さくて、そして少し震えていた。
「……わたしの気持ちなんて、悠仁くんは全然わかってないんだもん」
なるほど、そうきたか。胸元に顔を埋めて、ポカポカと力なく俺を叩く拳。かわいいぞ。その感触を一つひとつ受け止めながら、その細い背中を、手のひらでゆっくりとなだめるように撫でた。
パーカーの胸元が、じんわりと熱を帯びていく。彼女の涙だ。呪いの血を浴びるのとは違う、心臓の奥が溶かされるような熱。思わず彼女の髪に鼻先を寄せた。石鹸の匂いと、少しだけ混じる彼女自身の甘い匂い。
「そうだよな、おれ、全然わかってなかった。だから、教えてくれん?」
「……うん」
「#name#ちゃんが今、どんなふうに苦しいかとか、何してほしいとか。おれ、ぜんぶ知りたいよ」
俺の言葉に、彼女の嗚咽が少しずつ静まっていく。
雨音だけが響く部屋。心臓の鼓動が彼女に伝わるように、強く、でもなるべくやさしく抱きしめ続けた。俺だって、不安でどうしようもなくなる夜は同じようにしてもらっている。だから何も苦じゃない。むしろ嬉しいとさえ思う。
しばらくして、彼女が顔を上げた。目尻が赤い。かわいい。
「……こんな、わがままばっかり言う彼女、きらいでしょ」
「え、なんで?好きだよ」
「悠仁くんはやさしいからそう言ってくれるけど、でもいつかきっと愛想尽かされちゃうかも」
「んー、残念。……おれは#name#ちゃんがどんなときでも大好きなんだよなあ」
彼女の頬を両手で挟んで、至近距離で見つめ返す。
「わがままでもぷりぷりしてても、かわいいし。おれ大好き」
「……ずるい」
「え、そう?」
「なに言ってもやさしくて怒らないし。……弱点がない、悠仁くんは」
彼女は拗ねたようにほおを膨らませる。また、ぷりぷりしてる。かわいくて仕方ない。彼女の額にコツン、と自分の額をぶつける。
「弱点ならあるよ。……おれは#name#ちゃんに弱いんだよって、いつも言ってんじゃん」
嘘じゃない。もう大抵のことには揺らがない、と外では思える俺の心が、彼女の表情、涙、機嫌ひとつで大袈裟なくらい、揺れ動くこと。彼女が笑えば世界は明るく光るし、彼女が泣けば世界は闇に沈むような気持ちになる。
「なんか飲む?甘やかさせてよ」
そう言って笑うと、彼女はようやく、雨上がりの空みたいな、小さな笑顔を見せてくれた。
「……ココア、飲みたい」
「了解。とびきり甘いヤツ、淹れてくるわ」
キッチンへ向かう。
カチッ、という音と共に青い炎が揺れる。牛乳が温まる甘い香りが、さっきまでの張り詰めた空気を解かしていく。
外の雨は、まだ止みそうにないけれど。
俺の弱点は、弱点のままでいい。少し前までは、弱さを抱えて生きていくことが嫌だった。それがひとつでもあるだけで自分の命が、心がぐらりと揺れてしまうのが怖かったから。でも今はもう、このままでいいのだと、思う。マニュアルにも載っていない彼女の繊細な心の揺れを、一つずつ目の前で知っていく。その不器用で、ひどく脆いやり取りの積み重ねだけが、正解なのだと思う。この弱点があるから、俺は生きていける。

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2026-02-23