最近別れたらしいよ。
突然耳に飛び込んできたニュースに、持っているグラスを落としかけた。原因は相手の浮気だったらしいけど。そんな調子であとに続く情報を、ただただ世間話を流すみたいに、聞いているふりをするのに精一杯だった。
別に詳細が聞きたかったわけじゃない。というか、聞いてしまうと余計な感情を生みそうで最初から選択肢になかった。
そうか、だから最近顔出さないのか。そうやってひとりで納得した。いつもにこにこ、俺の映画の話とか、くだらない話題を楽しそうに聞いてくれる女の子。
ずっと、好きだった。
彼氏がいることは最初から知っていた。仲良くなったのも、彼女がデートで観に行ったという洋画について話したからだった。
別れてほしいとか略奪したいとか、そんな気持ちは一切なかった。幸せに生活してくれているならそれでいいと思っていたし、たまにその生活の話を俺にしてくれるだけでよかった。俺と付き合ったほうが絶対幸せなのに、とか、そんなこと俺が言えることではないし。
「虎杖は、どうなの?」
「ん?なにが」
「彼女できたとか、そういう話」
「いや別に、ねえよ」
「じゃあ今度来る?合コン」
「……いや、そういうのマジで興味ねえからいいよ」
またいつものようにテキトーに断って、一次会で抜けた。それ以上飲む気になれなかったのは、彼女の話を聞いてしまったからだ。
すっかり酔いの覚めた頭で夜道を歩く。薄暗い街頭と月あかりだけが足元を照らしている。彼女のことが頭から離れない。聞いてしまった色んなエピソードが脳内を巡って、ぐるぐるする。彼女の表情や感情をいちいち想像してしまって、胸が苦しくなる。
連絡、してみようか。でもなんて連絡するんだ。最近どう?とか、不自然すぎる気がして気が引ける。だいたい恋人と別れたばかりのタイミングで、男友達から連絡くるのって、どうなんだ。完全に狙ってるみたいだろ。そういうことはしたくない。あの子は優しいから、たぶん返事をくれるだろう。でも、俺が連絡したくらいで気分が晴れるとは思えない。そんなことを延々と考えていたら、結局ボタンは押せないままだ。
……でも。
そういえば、観たい映画があるって言ってた。虎杖くんもきっと好きだと思うから、観たら感想言い合おうね。そんな風に言ってくれたっけ。
彼女はおそらくデートで観に行くんだろう。それはわかっていても、そういう約束が嬉しかった。
映画なら、いいかもしれない。気分転換に、なるかもしれない。まだ観てなかったら、一緒に行かん?それだけ打って、ちょっと迷って、ようやく送信ボタンを押す。ドキドキする間もなく、すぐに承諾の返事が来て、スマホを落としかけた。
◇
「虎杖くん、お待たせ」
「お、……久しぶり」
久しぶりに会った彼女は、やっぱりかわいかった。本当にめちゃくちゃ、かわいい。毎日会ってももちろん絶対かわいいんだけど、会えない時間が勝手に育てた破壊力はすごかった。とっさに言葉が、出てこない。色々シュミレーションしたはずなのに。かわいいって、言いたいけど。心の中で深呼吸して、なんとか会話を続ける。
「元気だった?最近顔見んかったから」
「……うん、元気だったよ」
曖昧に笑ってくれたけど、そんなのは嘘だ。顔を見ればわかる。心なしか少し痩せてる。会っていなかった期間、どんな風に過ごしていたのかを想像して胸が痛んだ。どう声をかければいいのだろう。そもそも失恋の話を俺が知っていることも知らないだろうし、もちろん俺から切り出すつもりはない。そして彼女も話すつもりがないのなら、直接寄り添う方法はない。直接的には何かできなくても、今日一日だけでも忘れられるといいと思った。無理に笑顔を作らせるようなことはしたくなかった。
「誘ってくれてありがとうね」
「うん……そういえば観たいって言ってたよなって思い出してさ。おれこそありがと」
あくまでもたまたま思い出した、そんな風に言うのって、ずるいんだろうか。この映画さ、前作全然おもんなかったよな、なんて笑ってごまかしたりして。手を握ったりもできなくて、微妙な距離を保ちながら映画館に入った。
暗闇の中、シートに座る。それだけで心臓がうるさい。ポップコーンを半分こする。手が重なってしまわないかどうか意識しすぎて、全然食べられない。意識してるのは俺だけだろうから、そういうのは悟られたくないと思うのに、心音がコントロールできない。
「映画館で観るの、久しぶりかも」
「……そっか」
「……ねえ、虎杖くん、」
「ん?」
彼女の方に耳を傾けた瞬間、大音量で予告編が始まってしまった。どうした?と目を合わせると、彼女は首を小さく横に振る。何か言いたげな表情。なんだ、どうした?言葉を促したかったのに、ハリウッド映画予告の爆発音に負けて、それ以上は追求できなかった。あっという間に本編が始まる。胸は多少、ざわざわしたまま。
それにしても今回も、前作と同様に笑えるくらいの駄作で。もしこれを仮に「デート」と呼ぶならチョイスとして大失敗だよな、と思ったけれど、隣の彼女は楽しそうに観ている。ほっとした。
スクリーンの光に照らし出されるその横顔。そうだ、俺は映画じゃなくて、この景色を見たかっただけなんだよな、と気づく。ずっとずっと、楽しそうな顔をしててほしい。できれば俺のそばで、と思うけど、そうじゃなくてもよくて、けどもしもそうなったら、もう離してあげられんと思うから、そこまでわがままは言わない。
気づけば二時間そんなことばかり考えていて、映画の内容はあんまり頭に入ってこなかった。
映画を観終わって、自然とそのままご飯を食べようという流れになった。楽しそうに感想を教えてくれるのが嬉しい。
「また続き出たら、一緒に観ようね」
そういう曖昧な約束でも、嬉しいと思ってしまう。それを絶対にする方法はひとつしかないのはよくわかっていた。だけどそこまで踏み込んでいいのかがわからない。しばらく目の前のグラスの泡を見つめていた。
「……虎杖くん」
「ん?どした」
「つまらない?ごめんね、わたしばっかり話してて」
「んなことないよ、楽しいよ」
「……静かだから、大丈夫だったかなと思って」
そりゃあ、好きな女の子の前だから。そんなこと言えんけど。
「聞いてるだけで楽しいんよ、さっきの続き、教えて」
スイッチを入れ直して、一旦この好きの気持ちとか、色んな迷いを置いておいて、会話に集中した。笑顔で頷いてくれる彼女が眩しい。彼女との会話は不思議だ、考えていることがお互いに似ていて、ずっと一緒に生きてきたような気持ちになってしまう。だから、なんで俺のものじゃないんだろう、とすぐに思ってしまう。そもそもこの子は誰かのものになりたいんだっけ、とか。結局、余計なことばかり考える。
終電を気にする時間帯になってきて、肝心なことは何も伝えられずに店を出る。つい最近まで猛暑だったのが嘘みたいに、夜はしんと静かで涼しい風が吹いていて、もう秋が近づいているんだとわかる。その風に、彼女の髪がふんわりと揺れる。
帰らんで、ここにいて。そう言うだけでいいのに。少しの沈黙でも、彼女の表情に悲しみがふと見え隠れするから、そのたびに心がざわつく。ほんとは気づいてた。会話の奥底に、ずっと悲しみや寂しさが流れていたこと。それを俺に悟られないように、できるだけしまっておいてくれていたこと。
別れ、裏切り、浮気。先日耳にしたキーワードが頭をよぎる。
「虎杖くん、あのね」
「ん?」
「わたし、最近悲しいことがあったんだけど…虎杖くんのおかげで元気出た」
「……そ、か」
「また一緒に映画、観てくれる?」
「ん、観るよ」
何本でも何時間でも、いつでも観るよ。映画がなくても、一緒にいるよ。いさせてほしい。俺の隣で笑っていてほしい。
それが言えないのは、なんでなんだろう。酔いの覚めた頭でよく考える。
彼女に気を遣っているからでもなくて、まだ癒え切っていないであろう傷に触れたくないからでもないんじゃないか。うっすら自覚はあった。ただ、自分が傷つきたくないだけなんじゃないか。
そのことがようやく、わかった。
「待って、やっぱ」
思わず彼女の腕を引く。振り返ったその瞳は揺らいでいて、そこから気持ちを読み取ろうとした。答えてほしい。そう思ってしまった。
「……ごめん、終電乗らせたくない」
ほんとはずっと、自分のものにしたかった。
「今から思ってること全部言う」
嫌だったら、ごめん。それでももう止められなくて、俺は一度深呼吸した。
「ずっと好きだった。ほんとにずっと。別れたって聞いて、嬉しくなかったって言えば嘘になる」
「……あ、」
「だからって、今ここで何か決めてほしいわけじゃないんよ」
少しでも正しい言葉で伝えたくて、慎重に選びながら話した。それを彼女は静かに聞いてくれている。心臓がバクバクして、全ての音が遠くなっていく。はっきりと、自分の声がだけが聞こえる。
「おれは…#surname#さんが、誰かのことをまた好きになって、幸せになってくれたらいいなって、そう思ってる。でも、それがおれだったらいいなとも、思う」
「……うん」
「だから……うまく言えんけど、その」
隣にいて、好きだって言うことを、許してほしい。
「別れたってこともおれが勝手に噂で聞いただけだし、そこに付け込んでこういうことするヤツだとか、そんな風に思ってもいいよ、けど、おれは」
「待って、虎杖くん」
今度は彼女が俺の手を掴んだ。ぽろ、とその瞳からひと粒だけ涙が落ちて、それから俺の方を真っ直ぐ見る。
「……虎杖くんの気持ち、すごく嬉しい」
「……うん」
「でも、うまく答えられるかわからなくて」
「答えんでいいよ、おれが勝手に言っただけだから」
「違うの。この先わたしのことを好きって言ってくれる人なんて、もういないって思ってたから、だから嬉しくて」
そんなわけ、ないだろ。いないなんて、そんなわけない。ここにいる。俺がいるよ。全部ちゃんと言葉で説明するつもりだったのに、体が勝手に動いていた。力いっぱい彼女を抱き寄せて、閉じ込めるみたいに抱いていた。拒否は、されなかった。
「そんなこと言わんで」
一度溢れ出したら止まらなくて、こんなことを言うとこの子が困るかもしれんとか、そういうことが考えられなくなっていた。
「おれは、大好き。今までも、これからも」
見返りなんていらんから、そんな悲しいこと言わんでよ。それは本心だ。でも、でも。
「……虎杖くん」
「ん?」
「わたしも帰りたくない、です」
予想していなかった言葉に、思わず腕を解く。見つめた先のその頬は、見たことのないくらい赤くて。
「…え、」
「……だめですか?」
だめなわけない。でも心の準備ができていなくて、これ以上にないくらい心臓がうるさくて、俺は思わずしゃがみ込んだ。
「……ごめん、ちょい待って」
何度も何度も、彼女の言葉を脳内で反芻する。気持ちをどう伝えるか、どうすれば困らせないかを考えるのに夢中になっていて、こんな風に返された時のことを全く考えてなかった。
ずっと好きだった女の子が、今、目の前にいて、一緒にいたいと言っている。バクバクする心臓。
そうだ、これは確かに、現実だ。だったら、できることはひとつしかない。深く深呼吸して、立ち上がる。
「……もう帰さんし、これからずっと離さんけど、それでもいい?」
彼女が小さく頷いてくれるのを確認して、そっと唇を近づける。それは一瞬だったけれど、合わさったそれは柔らかくてやさしくてしあわせで、こんな風に触れ合うために生まれてきたのかもしれない、と思えるほどだった。
好き、大好き。
そう思ったら止まらなくて、そのまま夢中で押し倒してしまいそうになるところを、何とか止める。今日何度目の深呼吸だろう。深く息を吸って、ようやく言葉を吐いた。
「……おれんち来てって、言っていい?」
俺を見つめる彼女の瞳はまだ潤んでいたけれど、その言葉を受け入れてくれたのがわかった。俺はそのまま彼女の手を取る。
ずっとずっと、好きだった女の子の手を。