帰り道、電車の窓に映る自分の顔と目が合った。なんだかひどく疲れて見えて、嫌になってしまう。このままこの表情で帰宅するのはよくないとわかっているから、無理やり一度目を閉じて、気持ちを切り替えようと思った。
世界は人間同士の関係性で形作られている。仕事だって、ほとんどが誰かとのやりとりで構成されていて、だから他人からの言葉や感情に傷ついてしまうことも、よくある。
よくあることだとわかっているのに、ちゃんと傷ついてしまう自分が嫌なのだ。悠仁くんのことを思い浮かべる。
弱ったままの自分を乗せて、電車は最寄り駅に着いてしまった。
◇
「ただいま」
ドアを開ける前に一度立ち止まって深呼吸をする。元気いっぱい、とまではいかないけれど、通常のトーンでそう唱えながら玄関のドアを開けると、すでに彼の靴が綺麗に揃えられた状態で並んでいた。
珍しく、今日は彼のほうが帰ってくるのが早かったらしい。
「おかえり」
わたしの帰宅した音を聞き、笑顔の彼がリビングから顔をのぞかせた。なんだか美味しいごはんの匂いも漂ってくる。
「おれもいま帰ってきたとこ」
「うん」
いつもならそのままぎゅっと抱き合って、今日あったことをたくさん話したりするのだけれど、今回はそんな雰囲気ではないことを、悠仁くんはすぐに察してしまった。
「……忙しかったん?今日」
「ちょっとだけ、…あの、先にお風呂入っちゃっていい?」
やさしい彼はきっと、わたしの暗い表情の理由を聞こうとしたと思う。でも、わたしは目を合わせることができずに洗面所に入ってしまった。
ちゃんと笑顔で返せればよかったのに、どうしてもできなかった。暗い顔のまま、だったと思う。それでもこのままお風呂に入ってひとりになる、という選択ができたことはよかったのかもしれない。
そういえばお風呂を沸かしてあるかどうかも確かめなかったな、と思いつつ浴室のドアを開けたら、ちゃんとお湯がはられていてほかほかしていた。帰ってきてすぐ、悠仁くんがやってくれていたのだろう。今日は冷えるから。
きゅ、と蛇口をひねり、頭からお湯を被った。じんわりと、傷口にしみるようにお湯は全身に巡っていく。しばらくの間お湯に打たれ、ぼんやりとその音を聞いていた。でも、あまりにシャワーの音が長いと余計に心配させてしまうような気がして、ようやく湯船に入る。
あたたかいお湯につかると少しだけホッとするのに、目を閉じるとどうしてだか、今日の嫌な記憶が再生されてしまう。そして、その記憶に呼び起こされた全く別の、関係ない悲しみたちが、頭の中で連なってゆく。
じわじわ。まるで自分の中に積もった不安や悲しみがお湯の中に溶け出していくかのような、どんどん沈んでいくような、吸い込まれていくような感覚になる。
ぽろり。スイッチがどこかで押されたかのように、一度許すと、涙はそのまま止まらなくなってしまった。それはそのまま頬を流れてお湯に溶け、ひとつになる。まるで涙の中につかっているようで、わたしはぶくぶくとお湯の中に顔を沈ませた。
「……#name#?」
そのとき、そっと扉が開いて、隙間から悠仁くんが顔を出した。
きっといま、わたしの目は泣き腫らして赤くなっているだろう。それを彼が見逃すはずがなかった。たぶん、帰ってきてからのわたしの様子がおかしかったから、心配して見に来てくれたのだ。
「なーんでひとりで泣いてるん」
「….…なんでもないよ、大丈夫」
「大丈夫なわけないっしょ、そんな顔して」
彼が眉を下げて困ったように笑うので、これ以上ごまかすのはなかなか難しくなってしまった。
「……いま、落ち込み中なの」
そんなふうに打ち明けたら、わたしを捉えている視線がもっとやわらかくなった。
「そっか、……おれも風呂まだなんよ、一緒に入っていい?」
「……うん」
わたしが頷くと、一度扉が閉まって、すぐに服を脱いだ彼が入ってくる。そのたくましい身体を見ると、ちょっとドキドキする。悠仁くんは軽くシャワーを身体にかけるとすぐ、湯船にわたしと向かい合せで座った。
「なんか嫌なことでもあったん?」
「……仕事で、ちょっと」
「そっか、」
そして彼の大きな手が、わたしの濡れた髪をそっと撫で、頬やおでこに張り付いた髪をゆっくり整えてくれた。
「頑張って偉いよ」
その手付きがどうしてもやさしくて、そしてあたたかくて、一度は引っ込めたはずの涙がまたぽろぽろと溢れてくる。もう止められなかったし、彼も特に何も言わなかった。泣いたらいいよ、とやさしく言われているみたいだった。
涙が落ち着くまで、彼は何も聞き出そうとはせず、でも時々わたしの髪を撫でながらずっと待ってくれた。
「ひとりでお湯に浸かってたらさ、なんでか悲しいこと思い出さん?」
「……うん」
「ん、だから悲しいときはひとりで風呂入るの禁止ね」
まだまだ涙が止まらなくて、頷くのが精一杯だったけど、彼が小指を差し出してくるので、わたしも同様に差し出して、指切りげんまんをした。どうしてこのひとは、誰かにやさしくする方法をこんなにたくさん知っているのだろう。彼の与えてくれるきもちや行動はわたしにとって全て正解で、あたたかくかけがえがない。
「……ねえ、悠仁くん」
「ん?」
「悠仁くんはひとりで悲しくなったりすること、ある?」
彼はちょっと考えて、また困ったように笑った。
「おれは大丈夫。#name#がいるからさ」
そう言いながら、わたしの涙のあとを親指の腹で拭う。そして何度も大丈夫、と言い聞かせるように呟いた。それはきっと、わたしを安心させようとしてくれたのだろう。
いつもやさしくて、他人にばかり目を向けている彼にとって、世の中は悲しいことで溢れているように見えるだろう。わたしに向けてくれたその返答は、わたしのためであってきっと真実そのものではない。彼にだって、ひとり悲しい夜や、どうしようもなく泣きたくなる現実だって、きっとある。そしてそれを、わたしには悟らせないようにしていることも、よくわかっている。
「……ごめんね、ありがとう」
「ん?それはこっちのセリフよ」
そうして悲しみを全部お湯に溶かして、一緒に湯船から上がった。狭いスペースにぎゅうぎゅうに並んで髪を洗って、身体も洗って、泡だらけになりながら笑いあった。
「じゃあ今日はさ、悪いこと思いっきりたくさんしような」
「悪いこと?」
「夜中にさ、映画観ながらゆうじくん特製のラーメンと、アイス、どう?」
いたずらっぽく微笑む彼は、わたしの気持ちを回復させる方法をたくさん知っている。
生きている限り、悲しいことはなくなりはしない。悲しみや孤独はどの人生にも必ずセットされているものだから。
でも、そのたびにこうして溶かしてくれるひとがいること。一緒に眠って、明日を迎えられるひとがいること。それだけが真実で、それだけをふたりで大切にあたためて、生きていくのだ。