金曜の夜、とある駅前にて。
はい、猪野です。
仕事終わりに、虎杖の彼女と共通の知り合いの男と偶然ばったり遭遇し、三人で少し立ち話をする流れになった。というか、なってしまった。
「もしかしてこれから、あいつと待ち合わせ?」
こっそり耳打ちすると、そっと彼女は頷いた。
「……そっか、オッケー」
その話を聞いた時点で、なんとなく嫌な予感がした。どうしても、脳内で暗闇からじっと覗くあの三白眼が思い浮かぶ。任務のときにしか見ることのない、呪霊にしか向けられるはずのない、その視線が。
「お、今日飲みじゃないんだ?じゃあさ、俺とごはん行く?」
男とは、いつかの飲み会で同じ席になった程度の知り合いだった。その時もこんな感じで、軽かったっけ?
「俺この辺まあまあ詳しいからさ。どう?」
その手が雑に、彼女の肩に触れる。制止する隙もなかった。あーあ、と思わず内心ため息が出る。
言っとくけど、彼女は全然悪くない。笑って受け流してたし、むしろちょっと困ってた。
あー…そうか。
こいつこの子に彼氏がいること、知らねえのか。しかもそれが、あの虎杖だということも。知ってたら、多分こんなことしない。ていうか、できない。
ちょっとややこしいことになるかもな、と思う。背中にひやりと汗をかいた。もちろん俺は、彼女と虎杖の関係を知っている。そして何より――虎杖の、彼女に関してだけ見せる、本気の顔も知ってる。なんかおっかねえの、マジで。
とりあえず彼女の方に乗ったその手をどけようと、手を伸ばした瞬間。
……あーあ、来ちゃったか。
すぐにわかった。
心の準備くらい、させてほしい。ポケットからスマホ取り出すフリをして、駅前の人混みをちらっと見た。
彼女の背後、二十メートル先くらいからこちらに向かってまっすぐに歩いてくるヤツがいる。遠くから見ても眼光が鋭すぎるのやめてください。めちゃくちゃ怖い。
「……何してんの」
それが虎杖の第一声だった。
呪霊にも、そんな声を出したことはないはずだ。
普段からは想像もできない、めちゃくちゃ低い声だった。荒げるわけでもない、落ち着いた声。むしろ、静かすぎて怖い。普段、太陽みたいな男なんて言われてるイタドリさんはどこ行った?
「お疲れ、虎杖」
俺があえて声を張って言うと、虎杖は軽く手を上げて応答した。いつもみたいに笑顔を向けてくれることはない。
男が振り向く。
「あれ、#name#ちゃん知り合い?誰?」
「あ、……えっと、」
まだ状況を理解できていないこの男がちょっと可哀想になってくる。多分虎杖の前で気軽に彼女の名前、呼ばない方がいいと思うんだよな。もう遅いけど。知らんけど。
「お前こそ、誰?」
予想通り、虎杖の表情はますます固くなっていく。
「……俺は何してんのって聞いてんだけど」
「あ?」
「いいから、その手どけろ。触る必要ねえだろ」
「ちょっと喋ってただけだって、なあ?」
「……ふーん、ちょっと、ね」
虎杖は完全に彼女の前に出て、片手でスッとその腕を引いて、自分の後ろに隠すようにした。この男から距離を置きたいというのと、多分、これ以上自分の表情が彼女から見えないように、だ。
「……あのさ、この子、俺の彼女なんよ。そういうの、やめてくれん?迷惑」
口調はあくまで乱れずに穏やか、でも目が死ぬほど冷たい。
まじでこわ。だから眼光鋭すぎるのやめてください。
「……いや冗談だって…え、マジで怒ってんの?」
「別に怒ってねえよ、近づくなって言ってるだけ」
そういうのを怒ってるって言うんだよ、とツッコミたくなるけど、まあ一旦黙っておく。だってそりゃもう、“ガルルル”って文字が後ろに見えるくらいの殺気が出てる。
「なに、お前ほんとにこの子のカレシ?」
「……だからそう言ってんだろ。聞こえてねえの?」
俺がハラハラする。死ぬほど。
「俺は乱暴なことがしたいわけじゃねえんだけど、どうする?」
そう言いながら、虎杖が右手の拳をぎゅっと握ったのが見えた。まずい。特級術師は軽く殴っただけで人が簡単に死にます。やめてください。
「ごめんって、冗談じゃん」
あまりの圧に、男は苦笑いしながらさっさと去って行った。逃げた、と表現する方が正しいかもしれない。懸命な判断です。
「……はぁ」
よかった、変な修羅場になんなくて。とりあえず、緊張していたその場の空気は解けて、虎杖がまとっている殺気も消えた。
「……あのさあ、イタドリくん」
「ん」
「あんまそういう、こえーの出すなよ」
「……別に出してねえよ」
そう言いながら、虎杖は彼女を見てすぐ柔らかい顔に戻った。
「ごめんな、大丈夫だった?」
いや、あのね。
温度差で風邪引くかと思った。
さっきまであんなに冷たかった視線は信じられないほど柔らかくなって、彼女を優しく見下ろしていた。それはなんというか、カップルがまとうそういう雰囲気で。好きな女の子を見るときの独特の視線、好きで仕方がないという感じが、言葉を発していなくても漏れ出ている。
「……えっと、一応俺もまだここにいるんですけど」
ぼそっと呟いてみる。
おーい、イタドリくん。まあいいんですけど。
いつもなら俺の前でそんなことはしないはずなのに、虎杖は彼女の髪を愛おしそうにゆっくり撫でた。呪霊をいとも簡単に殴り払うその手が、驚くほど繊細な力で彼女を包む。
「なんかされてねえ?」
「ううん、……大丈夫だよ」
「ていうか俺が遅れたからだよな。ごめん。行こっか」
いつも通りの虎杖に、彼女がほっとした顔で頷く。その手が、彼女の腰に回される。
「猪野さん、ごめん。もう行くわ」
「あー……、おう」
軽く俺に会釈して、二人はそのまま駅に吸い込まれて行った。
……何を見せられたんだ。
「あー……、おっかねえ」
とりあえず、めでたしめでたし、ということにしておく。
近くの自販機に寄って、缶コーヒーを開けた。
春の夜、駅前にて。
世の中の男たちへ。
虎杖を怒らせてはいけません。野獣だから。知らんけど。