little traveler

彼女の手を引いてタクシーに乗り、自宅マンションにたどり着いた。
外の冷たい秋風と街の喧騒が遮断されて、薄暗い玄関は二人きりの空間になる。
扉が閉まった音が、合図だった。
彼女の華奢な腰を吸い寄せられるように引き寄せ、小さく息をのむ彼女の唇を、そのまま衝動的に上から覆い隠す。
「……ん、……っ」
やっぱりやわらかくて、あまかった。離したくない。少しだけ強く食みついた。彼女の手が、そっと俺の胸元を掴む。
唇を離すと、潤んだ瞳が俺を見上げている。薄暗がりの中視線を下げると、唇が濡れて光っているのが見えた。迫り上がってくる何かをぐっと抑えて、彼女の手を取る。
「……ごめん」
「ううん、」
「……どうしても、我慢できんくて」
掠れた声で囁くと、彼女は頬を赤くして、俺の胸に額をそっと預けてくれた。それはたぶん照れ隠しで、かわいくて、俺もふと我に返って恥ずかしくなる。
「てかごめん、ここ寒いよな。早く上がって」
「う、うん……おじゃまします」
手を繋いだまま靴を脱ぎ、玄関を上がる。フローリングはひんやりと冷たく、硬い。普段ここに他人をあげることがほとんどないから、客人用のスリッパすらない。俺のを履いてもらうしかなかった。
「ほんとに何もない部屋だけど、……ごめんな」
最近は高専にほとんど篭りっぱなしだったから、長らく留守にしていた部屋は殺風景だ。必要最低限のものしかない、がらんとした空間。まあ散らかってるよりはいいか。
お互いの視線が、そわそわと泳ぐ。
「と、とりあえず座ってて。なんか温かいもん淹れるから」
「……う、うん、ありがとう」
キッチンに入って、湯を沸かす。人に出せるような飲み物、なんかあったっけ。焦って戸棚を漁ると、なんとか紅茶のティーバッグが見つかった。案の定マグカップはひとつしかなくて、仕方がないので彼女の分だけ淹れる。
リビングに戻ると、彼女はテーブルの前に、少し緊張した様子でちょこんと座っていた。湯気の立つカップを手渡すと、その表情が少し緩む。
「あちいから、気をつけて」
「うん、ありがとう」
彼女はそれをていねいに両手で包み込んで、ふうふう息を吹きかけている。そして口をつける前にこっちを見て、遠慮がちに笑った。かわいい。
「あれ、……虎杖くんは、飲まないの?」
「ん?あー…、俺んちマグカップが一個しかなくてさ。俺は大丈夫だから」
「じゃあ半分こする?」
「いや、……うん、じゃそうしよっかな」
彼女の隣へ、そっと距離を詰めて座り直した。その華奢な背中に手を回し、包み込むように横から体を抱き寄せる。
「……なんか、部屋帰ってきたら急に緊張すんな」
「……うん」
苦笑まじりに囁くと、彼女もふんわり笑った。ぎこちなくもたれかかってくれるその身体を、少し強めに抱きしめる。
「……#surname#さん」
名前を呼ぶと、彼女は少し首を傾げて俺を見つめ返してくれる。それだけで、めちゃくちゃにかわいかった。吸い込まれそうなくらいに透き通っていて、まっすぐだ。最初からずっと好きだった、その瞳。
「好きだよ。……ほんとに、好き」
思わず言葉にした瞬間、耳に熱が集中していくのが自分でも分かった。いや、耳だけじゃない。全身が熱くなって、心臓がドクドクとうるさい。
「……わたしも、好き」
「うん、……もっかい言って」
「……好き」
もう耐えきれなくなって、今度は彼女の頬を両手で包み込んで、そのまま夢中で唇を重ねた。
小さく漏れた彼女の吐息ごと呑み込むように、何度も何度も角度を変えて食んでいく。唇を吸い上げるたびあまいリップ音が聞こえてきて、聴覚まで満たされる。
「……っ、いたどり、くん、」
「……ん?」
か細い声に、ほんの数ミリだけ唇を離した。熱く濡れた彼女の唇と、荒い呼吸。潤んだ瞳で俺を見つめるその顔が、あまりにもかわいくて。
「ま、…まって、」
「……だめ、待たねぇ」
今度は彼女の後頭部に指を絡めて、逃げられないように固定した。やわらかい下唇を少し強めに喰んで、吸い寄せる。体温も思考も何もかも、全部奪い取って、自分のものにしたくなった。もう片方の腕を彼女の腰に回し、隙間を埋めるようにぐっと自分の胸元へ引き寄せる。
触れている場所から熱が移って、全身の血が狂ったみたいに沸き立っていく。もっともっと、近いところまで繋がりたくなってしまう。
「……ん、……力、抜いて、」
唇を少し離して、息を吸わせた。そのわずかに空いた小さな隙間から、容赦なく舌を割り込ませる。
「……っ、 ! ?」
驚いた彼女の身体が小さく跳ねて、胸元を掴む手にぎゅっと力がこもる。でも離さなかった。その小さな舌を、やさしく捉えて絡め取る。
「……んっ、……ふ、……っ」
吐息が混ざり合って、口腔の熱が直接溶け合っていく。やわらかくて熱い彼女の口内。舌を動かすたび彼女から漏れる鼻声が、本能をさらに煽っていく。もう止まらない。もっと深く、もっと奥まで確かめたい。ただひたすらに、ていねいに彼女を貪り続けた。
「……は、ぁ…っ」
「ん、……」
何度かの息継ぎのあと、ようやくゆっくりと唇を離す。銀色の糸がうっすらと引いて、熱く湿った息が空中に溶けた。
「……ごめん、苦しかった?」
「ん、ううん、……だいじょうぶ」
彼女の息はまだ荒く乱れている。背中をそっとさすりながら、彼女のおでこに自分の額を重ねた。
「……ほんとに、夢じゃねぇよな」
「……うん、夢じゃないよ。ほんもの」
ふふ、と彼女が小さく笑う。その息が俺の唇をくすぐって、またいとおしくなる。おでこや目元、頬に、唇でそっと触れる。
「……冷めちゃうね、紅茶」
「ん、そうだな」
身体を少し離して、冷めかけたマグカップに二人で手を伸ばした。彼女が一口飲んで、俺に手渡してくれる。
「……そういえば、虎杖くんのお部屋、すごく綺麗だね」
「あー……、最近ずっと高専…えっと、別の拠点に篭ってたからさ」
「……なんか、お部屋全体が虎杖くんの匂い」
「えっ」
焦ってパーカーの匂いを嗅ぐと、彼女は楽しそうに笑った。
「あ、変な意味じゃないよ」
「……汗くさいかと思って焦った」
「違うの、なんだか安心する、いいにおいだから……好き」
「……そ、っか」
「あ、……ごめんね、変なこと言って」
「……いや、その、……うん」
不意打ちの好き、に心臓が止まるかと思った。
心配そうにこちらを覗き込む彼女の手を、そっと包んで握った。この手の中にすっぽりと収まってしまう、小さくて華奢な手。
「ごめん、照れてるだけ。……嬉しくて」
「……そっか、ふふ」
「……なぁ、#surname#さんの手、やっぱ小せぇな」
「虎杖くんの手が大きいんだよ」
「え、そう?」
指と指を重ね合わせてみると、彼女の手は俺のそれよりひと回りもふた回りも小さくて。そのままゆっくり指を滑らせて、恋人繋ぎみたいに指を絡めた。
「……あの、…虎杖くん、ちょっと痩せた?」
「そうかな」
「なんか、……そんな感じがして」
同じことを、今日ちょうど補助監督に指摘されたばかりだ。だからきっとそれは事実なのだろう。
そんなこと言ったら、彼女もだ。華奢な首元、細い手首。最初に助けたあの日より、確実に痩せている。
「……この一ヶ月、ほんと長かったからさ」
ポツリと漏れ出た言葉に、彼女はまっすぐこちらを見た。
「ずっと会いたくて、……食べるの忘れてたかも」
「だめだよ、食べなきゃ」
「……うん、…これから一緒にうまいもん、食べて」
「ふふ、…うん」
絡めた指に少しだけ力を込めると、彼女は嬉しそうにぎゅっと握り返してくれた。
「わたし、虎杖くんの手も好き」
「……っ、…………ま、待って」
「う、うん?」
「いや、ごめん……照れてるだけなんだけど、その」
「……う、ん」
「あー……、もうほんと、……かわいい」
「え、っ」
「ずっとずっと思ってたけど、…めちゃくちゃかわいい。ほんとに、かわいい」
「……そ、そんなことないよ」
「いつもかわいくてさ、…会うたびに好きになってたから」
今度は彼女の方が赤くなる番だった。
「いやごめん、……なんか、ずっと思ってたこと、言いたくなって」
「……う、ん」
「色々さ、教えてよ。会えなかった間のこと。会う前のことも」
それから、ここまでの答え合わせをするみたいに色んなことを話した。会えない間、お互いが見ていた景色、考えていたこと。彼女が見てくれた、映画の話。言いたかったこと、言えなかったこと。どんどん話題は溢れて尽きなかった。
部屋の隅に置かれた時計にふと目をやる。気がつけば、時計の針はもう随分と遅くまで進んでいた。街の喧騒もすっかり途絶えて、静まり返っている。
「……あのさ」
「うん?」
「……もう遅いけどさ、今日、その、……どうする?泊まってってもいいし。帰るなら、ちゃんと送るから」
できるだけさりげなく聞いたつもりだった。
「……あ、えっと、……」
彼女の視線が泳ぐ。しまった、と思った。困らせるつもりはなかったのに。
「あ、いや、ほんとに、帰るなら家まで送るから。安心して」
「……うん」
静かに彼女の答えを待つ。彼女の指が、戸惑いながらも俺のパーカーの裾を握った。
「……わたし、虎杖くんともっと一緒にいたい」
「……うん」
「だから、……泊まってもいい?」
「ん、……もちろん、いいよ」
自然に答えられていたかどうか、自信がない。自分から聞いておいて、心臓がドキドキと鳴り始める。
「……あ、じゃあさ、風呂入んな。外寒かったし、ちゃんとあったまって」
バスタオルやスウェットを出して手渡した。彼女はそれを黙って受け取ったまま、どこか照れたように視線をぱちぱちと泳がせている。
「……一緒に入る?」
「えっ」
「はは、……うそ、ごめん。俺はここでおとなしく待ってるからさ、ゆっくり入っといで」
頭を撫でると、彼女は一瞬目を丸くしたあと、ふっとやわらかく笑った。
「うん、……じゃあ、お言葉に甘えて」
脱衣所へ向かう彼女の後ろ姿をそっと見送る。ドアが閉まる音、しばらくしてわずかにシャワーの音が聞こえてきて、ほっと安心した。
ソファーに倒れ込むようにして、大きく息を吐きす。
「………やっぱ、夢?」
ずっと会いたかった、好きな女の子が、自分の部屋にいて、シャワーを浴びている。
殺風景なこの部屋に、彼女の話し声、笑い声、生活音が響いて、空気をやわらかくする。そのことを考えると、鼻の奥がツンとした。しばらく目を瞑って、鳴り止まない心臓の音をぼんやり聞いていた。

「お風呂、ありがとう」
しばらくすると、ガチャリとリビングのドアが開く音がした。慌ててソファーから起き上がると、彼女が俺の服を着て立っていた。長すぎる袖からちょこんと出た指先や、湯上がりのほんのり赤い頬、そこから漂う石鹸の匂い。色々と、やばい。かわいい。好きな女の子の風呂上がりって、こんなにかわいいのか。見てられなかった。
「……お、俺も入ってくる。テレビとか、見てていいから」
「うん」
思わず触りそうになる。逃げるように脱衣所へ駆け込んだ。煩悩を振り払うように何もかもさっさと脱いでシャワーの栓をひねった。頭からお湯を被り、壁に片手をついてようやく深く息を吐き出す。
「……っあー……あぶねぇ……」
目を閉じる。彼女のさっきの無防備な姿や、部屋に漂う甘い匂いが脳裏に焼き付いて離れない。夢にまで見た彼女の実体はいとしくて苦しくて、かけがえがない。
タオルで髪を拭きながらリビングへ戻ると、部屋の中は思いのほか暗く静まり返っていた。
「………ん?」
ダウンライトだけが点いた暗がりの中、ソファの上で彼女が小さく丸くなって寝息を立てている。畳まれた俺のTシャツを握ったまま、すやすやと眠っていた。か、かわいい。
「……そうだよな、疲れたよな」
外でたくさん泣いて、温かいお風呂に入って、きっと緊張の糸が切れて安心したのだろう。
起こさないように足音を殺して近づいて、そっと彼女の身体の下に腕を滑り込ませた。膝裏と背中を支えて、そっと抱き上げる。
「……ん、……っ」
「……大丈夫、そのまま寝てて」
彼女は寝ぼけたまま俺の首元に顔を寄せて、擦り寄るように小さな吐息を漏らした。その体温がダイレクトに伝わってきて、また心臓が大きく跳ねる。
この子を助け出した時のことを、ふと思い出した。
「……まさかこんなに好きになるなんて、な」
ベッドの上に彼女をそっと降ろし、毛布をかける。
「……寒くねぇ?狭くてごめんな」
そのままソファーに戻ろうとすると、うっすら目を開けた彼女に腕を掴まれた。
「いたどり、くん……どこ行くの?」
「ん?ソファーで寝るだけだよ。どこにも行かねぇよ」
「……一緒に寝るのは、だめ?」
「え」
「虎杖くんと一緒がいい」
「……それは、……」
その瞬間、反射的に色んな可能性が頭を駆け巡る。それを、なんとか振り払う。
「……わかった、…じゃあそうしよ」
そのまま毛布の中に入り込んで、そっと身体を抱き寄せた。寝ぼけ眼の彼女は嬉しそうに笑って、胸元に顔を埋めてくる。軽くてふわふわしていて、あまくて、やわらかい。なんでこんなにかわいくて、いとしいんだろう。ただ隣にいてくれるだけでいい。ずっとこうやって、肌に触れていたい。その髪を指先でていねいに撫でた。
「……寒かったら言ってな」
「うん……、虎杖くん、あったかいよ。心臓の音、よく聞こえる」
「え、そんなに?」
「うん、ドキドキいってる」
「……そりゃ好きな女の子と一緒に寝てるから。いま人生で一番緊張してる、かも」
「そんなに?」
「はは、うん」
そうやって笑うと、彼女は俺の胸元に埋めていた顔を上げて、じっとこちらを見つめた。
「……虎杖くん、わたしのことはしあわせにできないって、言ってたよね」
「……う、ん」
「わたし、今すでにすごくしあわせだよ」
「……うん、」
「虎杖くんと同じくらい、いっぱいドキドキしてる」
そして彼女は、身体の位置を少し上にずらして、自分の鼻先と俺のそれをくっつけて笑った。なんだか喉の奥がぎゅっと詰まる感覚がして、上手く言葉が出てこなくなる。泣きそうだ。
「一緒にいるって決めてくれて、ありがとう」
「……それは俺のセリフ、」
目頭が一気に熱くなって、視界が滲む。俺、こんなに泣き虫だったっけ。彼女の髪に顔を埋めて、なんとか誤魔化そうとした。
「……虎杖くん?」
「ごめん、……嬉しくて。俺もしあわせで、なんか、…っ、ごめん」
彼女は泣かないで、とは言わなかった。ただその小さな手を俺の頬に当てて、そっと撫でてくれた。
「虎杖くんがしあわせだったら、わたしもしあわせ」
「……っ、それは俺もだけど、…」
「うん?」
「………天使みてぇなこと言うな、って思って」
「……てんし?」
「うん。たぶん、そうなんだよ」
そのまま、彼女の唇にキスした。

自分の運命も、過去も、そして未来も。そこには必ず冷たい寂しさが横たわっていて、きっと完全になくなることはない。それでも、この女の子が、世界で一番大切な人が隣で笑っていてくれたら。それだけで自分の人生は意味のあるものになる。そう思える。そう、信じられる。
「……好き。ずっと一緒にいたい」
そう呟くと、彼女はやさしく頷いて笑って、目を閉じた。
「うん、……約束ね」

まだ、夜明けはやってこない。でも何も怖くなかった。彼女の寝息だけが聞こえるこの真夜中、俺もそっと、目を閉じる。

2026-09-21