ベランダと缶ビール、きみの横顔

その日の風は少しだけ湿気を含んでいて、冷たいのにしっとり濡れたような、そんな切なさを保っていた。

虎杖くんの家に行ったのはその夜が初めてだった。
バイトが時間内に終わらなくて、少しだけ遅刻してしまうことになってしまって。それだけでなんだか緊張してしまったけれど、インターホンを鳴らすと虎杖くんが笑顔で出迎えてくれた。また、胸のドキドキが増す。
「バイトお疲れ。迷子にならんかった?」
「うん、あのこれ、お土産」
「お、こんなに買ってきてくれたん?重かったっしょ」
入って、と招かれ足を踏み入れた玄関は靴でぎゅうぎゅうで、すでにリビングからは賑やかな声が聞こえてくる。
今日は虎杖くんの家で、いわゆる宅飲みなのだ。
彼とはそんなに頻繁にたくさん話すわけではないけれど、同じゼミの同級生で、グループでよく飲んだり、遊んだりしていた。いつも明るくてにこにこしていて、さりげない気遣いが心地よい男の子。そんな印象だった。周りの女の子たちがそうであるように、わたしも彼のことが当たり前のように好きで、でもだからといって付き合いたいとか、そういうわがままは考えたことがなかった。
うまく言い表せないけれど、彼の大きなやさしさは特定の誰かのものではなくて、広く多くの人に適用されるべきなのではないかと、どうしてかそんなふうに感じさせる男の子だから。
リビングにはすでに参加者全員が集まっていて、もう飲み会がスタートしていた。
「こっち座りな」
虎杖くんが隣に誘導してくれて、わたしはそこに腰掛けた。男の子の一人暮らしの部屋、に詳しいわけではないけれど、虎杖くんのお部屋はシンプルですっきりしていて、なんだか少し意外だった。
「何飲む?」
「じゃあ……ビールもらおうかな」
少し離れたところに置かれた缶ビールを、虎杖くんが腕を伸ばして取ってくれた。ふわっと、彼の甘い香りが鼻をかすめる。
「これうまい。え、虎杖が作ったやつ?」
「うん、そう」
「こっちもうまいよ」
テーブルに置かれたたくさんのお皿たち。みんなが口々に勧めるので食べてみたら、たしかにそれは本当に全部美味しくて、虎杖くんが料理上手なことを初めて知った。時々キッチンに立っては、空になったお皿にまた美味しそうなおつまみをいっぱいにして運んできてくれる。缶ビールを片手にフライパンを振る虎杖くんを、時々男の子たちが興味本位で覗きに行っていた。
バイト終わりでお腹が空いていたから、たくさん食べて飲んで、初めて来た他人の、しかも虎杖くんの家なのに、なんだかわたしは勝手にリラックスしてしまう。居心地がよくて、お腹の底があたたかくなるような、そんな感じ。それはここが、彼の家だからだろうか。彼のことが好き、だからだろうか。
「虎杖くん、料理ぜんぶおいしい、ありがとう」
あっという間に空になったお皿たちを重ねて持って行くと、洗い物中の虎杖くんはこちらを向いて、やさしく笑った。
「よかった、ちゃんと食べれた?」
「うん、ありがとう」
「……ちょっと顔赤い。酔った?」
「え、ほんと?」
不意に顔を覗き込まれ、体温が上がるのが自分ではっきりとわかる。顔が赤いのは、お酒のせいだけじゃないよ。なんて、言えないけれど。
「みんなすげー飲むからさ、ついていかんくていいからね」
「…うん」
「ベランダ開けてあるから、しんどくなったら外の空気吸ったらいいよ」
そんなふうに声をかけられてやっと、少し自分がふらついて、結構酔っていることに気がついた。そんなに無理な量を飲んでいるわけではないけれど、バイト終わりで疲れていて、酔いが回るのが早いのかもしれない。
それで彼が言ってくれた通り、相変わらず賑やかなリビングを抜けて、ベランダまで出ることにした。そこはほんのり、誰かが吸ったたばこの匂いがする。でも、風はしっとりと冷たく、酔い冷ましにはちょうどよかった。
ベランダからは川と大きな橋が見える。水面は静かにゆらゆらと揺れ、そして辺りの光をわずかに反射し、きらきらしている。それがとてもきれいで、リビングの喧騒を背に、わたしはただひたすら、宇宙のようなその瞬きをぼんやり眺めていた。
「だいじょぶ?」
どのくらい眺めていたのだろう、窓が開く音が聞こえて、振り返ると虎杖くんがベランダに入ってくるところだった。ドキドキと、心臓の鼓動が再開する。
「うん、ありがとう、だいぶ酔い冷めたよ」
そっか、と言いながら彼はわたしの隣に立つ。その瞬間、ふわりと風が吹いて、わたしたちの間を通り抜けた。
見上げるそのピンクの髪や白いTシャツが、ゆっくりと夜風に揺られる姿。月明かりに照らされる横顔。夜の光を反射する瞳。
それは初めて見るはずなのに、なんだか無性に懐かしくて、そしてわたしにとって泣けるくらいに、ほっとするものだった。
「あのさ、」
「うん?」
「ふたりで買い出し行かん?」
お酒、なくなったから。虎杖くんはこちらを見てはにかんだ。嬉しくてドキドキして、すぐに頷いた。彼はほっとしたように笑った。

「寒くない?」
「うん、平気」
上着を持って、引き続き盛り上がっているみんなを置いて外に出る。ベランダで吸い込んだものと同じ空気が、しっとりと流れていてほっとする。ひんやりと冷たいのに、すこし湿ったやわらかい風。
コンビニまでの道、この時間がずっと続けばいいのにと、そう願いながら進んだ。たくさん話してみたいことがあると思っていたのに、でもそんなに言葉は必要ないような気もして。時々流れる沈黙も、どうしてかわからないけれど居心地がよくて、それはまるで、さっき眺めていた川の流れのように、静かで冷たい、でもなんだかあたたかい、不思議な気持ちだった。
「#surname#さん」
「ん?」
「嫌だったら、嫌って言ってね」
なにを?そう反射的に聞こうとしたとき、彼の手がわたしの手をそっと握った。あたたかくて、骨ばった手がわたしのそれを包む。びっくりして、心臓が一瞬跳ねる。わたしのそのわずかな動きを、虎杖くんは見逃さなかった。
「……急にごめん」
嫌だったら、離していいから。
彼の瞳は、そう言いたげに揺れていた。
嫌じゃないよ、だいじょうぶ。
小さくそう答えたら、手を握る力が少し強くなった。心臓の音が、手を伝って聞こえるかもしれないと思うくらい、どんどん速くなる。
この手の意味を、どうやって、どう聞いていいかわからなくて、時々握り返される手を、弱々しく返すことしかできなくて。
コンビニに着いても、虎杖くんは手を離さなくて、彼が持ったカゴにわたしが適当にお酒たちを投げ入れた。
「そんくらいでいいよ」
「これで足りる?」
「うん、少なめで大丈夫」
お会計をして、コンビニを出て、それでもずっと手は離れなかった。荷物はすべて虎杖くんが持ってくれて、わたしたちはできるだけゆっくり帰路をたどった。
不思議だけど、こういうときって帰りはやたらとあっという間に時間が過ぎてしまう。もうマンションのすぐ近くの、公園のそばまで来てしまった。
まだ着きませんように。時間がゆっくり流れてくれますように。そう願いを込めて、虎杖くんの手を、ぎゅっと握る。同じくらいの強さでそれが握り返されたあと、彼は立ち止まった。
隣を見上げたら、真剣な瞳がわたしを見つめている。
「…おれさ」
「うん」
「…これが、部屋戻ったらなかったことになるの、嫌なんよ」
「…虎杖くん、」
「でも、#surname#さんが嫌だったら、ちゃんと言って。おれは、なかったことにはしたくない。せんけど、いい?」
永遠かと思うくらい、その目に捉えられる時間は長くて、わたしたちの間を吹き抜ける冷たい風とは対象的に、その視線は懸命で、熱くて、わたしの体温を上げるには十分だった。
「…なかったことに、わたしもしてほしくないよ」
なんとかそう答えたら、その瞬間手はほどかれて、代わりにわたしは虎杖くんの胸の中にぎゅっと収まっていた。あたたかくて、ドキドキうるさい心臓の音はわたしのものなのか、彼のものなのかわからないくらい、近かった。
「……強引なやり方でごめん」
「…ううん、そんなことないよ」
「……めちゃくちゃ緊張した…」
その声は小さくて絞り出すみたいで、わたしは思わず彼の背中に手を回して、そっとさすった。
「ちゃんと、好きって言いたいから」
「…うん、」
「このあと戻ったらさ、みんなのこと帰すから…もっかい、ちゃんとやり直していい?…部屋で」
「…うん、いいよ」
耳元にかぶさる彼の声は熱くて、なんだかじんわりと涙が出た。
しばらくして、虎杖くんはそっと顔を上げて、わたしのおでこと自分のそれを、こつんとくっつける。目も鼻も唇も、全部が近くて、顔が熱くなる。虎杖くん、と呼んだら、その瞳が揺らいだ。
「……好きって言ってからって決めてるから、今は我慢する」
鼻と鼻をちょんと合わせられて、体が離される。そうして自然と手を繋いで、わたしたちはもう一度、マンションまで歩き出す。
ふたりきりの部屋で、ちゃんと気持ちを伝え合うまで、あともう少し。

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2026-02-07