傷だらけになりながらわたしを助けてくれたときの、広い背中や手のぬくもり、やさしくて低い声が、ずっと頭から離れなかった。
この人は、どんなひとなのだろう。そう思って近づくたび、新しいカードが捲れていくたびに、やさしく強くて、そして繊細なひとなのだと知る。
虎杖くんは、なんだか不思議な人だな、と思う。
あのときは、まるで海の底にふたりでいるみたいで、心臓はずっと痛いくらいにドキドキしていたのに、でも心地よい安心感に包まれていた。
大きくてあたたかい手に包まれるたび、肩が触れ合うたび、心臓が跳ねて息が止まりそうになるのに。
彼の隣にいる時間は、息をするのと同じくらい自然で、ずっと前からこうしていたみたいな、これからもそうするのが当たり前みたいな気がして、心がそっと解けていく。
「全部綺麗だよな。……俺、水族館なんて久しぶりだわ。爺ちゃんと来た以来で」
そう言って青い水槽を見上げる虎杖くんの横顔は、とても綺麗だった。ちゃんと彼と会うのは2回目だったけれど、最初の印象よりなんだか少し幼くて、年相応の男の子に見えた。伏目がちにそっと、自分の話をしてくれる。それがとても嬉しかった。
「虎杖くんは、お爺ちゃんとよくお出かけしたの?」
「そう、…俺さ、ずっと爺ちゃんと住んでたんよ」
「……そうなんだ」
「もう死んじゃったんだけどさ。そういえば電車に揺られて行ったんよ、たぶん夏休みで」
懐かしそうにはにかむ虎杖くんはしあわせそうで、けれどどこか寂しそうだった。
「すっげぇ混んでてさ。俺、小っちゃかったから前が見えなくて。そしたら爺ちゃん、俺をひょいって抱え上げて、肩車してくれたんだよな」
「……お爺ちゃん、虎杖くんのこと、すごく大切にしてくれてたんだね」
「まあ、口はクソ悪かったけどな」
自慢げに笑いながら、でも過去形で語る彼に思わず胸がぎゅっとなって、繋がれた手に少しだけ力を入ってしまう。彼が抱える寂しさを、捕まえてあげたくなった。虎杖くんは、それに応えるように握り返してくれた。心臓が、ドキドキと鳴る。
「……虎杖くん」
「ん?」
「あの、……大切な思い出、教えてくれてありがとう」
「いや…、むしろ、聞いてくれてありがと」
「……そういえばね、知ってる?」
「うん?」
「亡くなった人のことを思い出すとね、天国にいるその人のところに、お花が降るんだって」
見上げた先で視線が絡む。虎杖くんは一瞬だけ驚いたように目を丸くして、それから少し照れたように笑った。
「……じゃあ今頃爺ちゃん、花まみれだな」
「……うん、きっとそうだよ」
「それはそれでなんか怒りそうだなあ、頑固だし」
虎杖くんが笑うと、なんだかあたたかくてやわらかい風が吹くような気がする。ここにもなんだか、花が降るような。
だからずっと一緒にいたいと、思うのだろうか。
手はずっと繋がれたまま、気がつけばクラゲのエリアに差し掛かった。思ったより水槽は小さくて、流れる人混みに押し潰されそうになる。
「ちょっとごめん」
背後から降ってきた声に、また心臓が大きく跳ねた。逃げ道を塞ぐみたいに、虎杖くんのもう片方の手がわたしの頭上の壁へと滑り落ちてきた。背中に触れている体温が、熱い。服越しでもちゃんとわかる、しなやかで硬い、筋肉の質感。
「……こうしたら、ちゃんと見える?」
頭上から降ってきたその声は低く掠れていた。熱い吐息がわたしのうなじや耳たぶをかすめていく。勝手に首の後ろが熱くなって、息の仕方を忘れてしまいそうになる。
「……#surname#さん」
わたしを呼ぶ声に、息が震える。
自分の身体が、自分じゃないみたいだ。
「……うん?」
ひとつ深呼吸して、ゆっくりと向き直る。その瞬間わたしの身体は、今度は正面から虎杖くんの胸元にすっぽりと収まる形になった。
お願いだから、わたしの心臓の音、虎杖くんに聞こえませんように。そう願いながら、恐る恐る顔を上げる。
見上げる視線のすぐ先に、水槽の青い光に照らされた虎杖くんがいた。
見下ろしてくる彼の瞳は、さっきまでのやわらかい光を潜めて、なんだか少し熱を帯びている。
それがあまりにもまっすぐで、けれど少し潤んで揺れていて、吸い寄せられるように視線が固定されてしまう。
彼が小さく息を吐き出すたび、熱い吐息はわたしの唇に触れる。
「……っ、」
やっぱり上手く息ができない。頭の中が真っ白になっていく。
「……虎杖、くん……?」
名前を呼んだわたしの声は、たしかに震えていた。彼の視線がゆっくりと落ちてくる。わたしの頬や唇を、そっと撫でるみたいに。喉仏がごくりと大きく上下するのが見えた。重なりそうな距離。彼の茶色い瞳に映る小さな自分の姿。
視線が絡み合って、ほどけない。
虎杖くん。
声にならない声の代わりに、その手をぎゅっと握った。
その瞬間、虎杖くんのスマホが鳴ってしまった。
激しく鳴るバイブ音が、全てを現実に引き戻していく。
「……ごめん」
そこからは記憶がぼんやりしている。
ゆっくりと解かれていった指先の冷たさ。
申し訳なさそうに眉を下げて何度も謝る彼の表情。
電話に出ると同時に、さっきまでとは違う、最初にわたしを助けてくれたときのような、険しい雰囲気に切り替わっていくその早さ。
「気をつけてね、怪我……しないでね」
そう声を絞り出すのが精一杯だった。
走っていく彼の背中は、人混みの中にあっという間に飲み込まれて消えてしまう。
さっきまで彼に包まれていた手のひらには、まだあたたかい温度が残っている。深くて冷たい海の底に、ひとりぽつんと取り残されてしまったような気持ちになる。これから彼が向かうところは、もっと冷たくて寂しくて、怖い場所なのだろうか。考えるだけで胸が痛んだ。
「……泣いちゃだめ」
小さく声に出して、自分に言い聞かせた。
下を向いたらこぼれ落ちてしまいそうだったから、頑張って上を向いた。見上げる水槽は相変わらず綺麗で、だけどやっぱり寂しかった。
ここに置いて行かれてしまったことも、何があっても過酷な場所に向かわなければならない彼のことも、それを引き止められないことも、全部が寂しかった。どうしてこんなに寂しいのだろう。
それからどうやって水族館を出て、どうやって電車に乗って家に帰り着いたのか、あまりよく覚えていない。
玄関の鍵を閉めた瞬間に、張り詰めていた糸がプツリと切れてしまった。
靴を脱ぐのもそこそこにベッドへたどり着き、バタンと倒れ込むように体を横たえる。着替えもせず、電気もつけないまま、暗い部屋で一人。
重たい体と、痛いくらいに脈打つ胸の奥。目を閉じる。寂しさが涙になって、溢れ出してくるその理由。
「……そっか、」
それが、ようやくちゃんとわかった。
わたしは虎杖くんのことが、好きなのだ。
ずっと前から、きっと最初から。
熱に浮かされたように疲れていた身体は、感情の波に耐えきれなくなった。
溢れる涙の海に吸い込まれるように、わたしは深い眠りへと落ちていった。
その夜から、メッセージの返信は一切来なくなった。
既読すらつかなくなった画面を、何度も何度も祈るように眺めた。
彼の身に何かあったのだろうか。怖い想像ばかりしてしまう。それとも、単純にわたしと連絡を取ることが嫌になったのかな。
水族館、楽しくなかったのかな。
まだ伝えたいことがたくさんあった。聞きたいこともたくさんあった。
見てきた世界も、これから住む世界もちがうこともちゃんとわかっているけれど、それでももう少し一緒にいたかった。
鳴らないスマートフォンを握りしめるのが悲しくて、ついにはもう、画面を見ることもやめてしまった。
一緒に過ごした思い出もぬくもりも寂しさも、全部あの海の底に置いてきてしまえばよかったと、何度も後悔した。