水族館を飛び出し、指定された路地に停まっていた補助監督の車へ飛び込む。
急いで後部座席のドアを開けると、そこには先客が座っていた。
「うお、……釘崎? なんで乗ってんの」
ブランドの紙袋や買い物袋をいくつも膝の上に抱えた釘崎が、不機嫌そうに眉をひそめた。
「こっちのセリフよ。私は買い物中に捕まったの ! せっかくの休みが台無し」
「……そか、釘崎も休みだったか」
シートに腰を下ろしドアを閉めると、すぐさま車は静かに走り出した。
「誰かと買い物中だったん?」
「そ、真希さんと。服見てたのに急に呼び出されて、真希さんのこと置き去りにしてきちゃった……ってかアンタ、こんなとこから乗ってきてどこ行ってたのよ?」
じろりと探るような視線。釘崎はいつも鋭い。思わず視線を車窓の外へ逸らした。
海の底を照らすような青い光、繋いだ手のぬくもり、胸元に収まっていた彼女の儚い横顔。つい数分前までそこにあった時間の余韻が思い出される。そして、最後の寂しそうな表情も。
「……んー、……別に」
そうやって、言葉を濁す。
「……ふーん。怪しいわね」
釘崎はそれ以上深追いしてこなかった。つまらなさそうにスマートフォンを操作し始めたので、俺もシートに深くもたれかかり、目を閉じる。
車内に落ちる短い沈黙。目を閉じたまま、ポケットの上から自分のスマートフォンをそっと撫でた。それは一度も震えていない。彼女からの返信はまだ、ない。
そのまま車に揺られること一時間余り。都内から少し外れた山中に到着する頃には、空からポツポツと冷たい雨が降り始めていた。
車を降りた瞬間、目の前の深い山林から放たれるどす黒い呪力が肌を刺す。
「相手は等級不詳の大型呪霊です。が、おそらく一級か特級かと」
「まあこの雰囲気だとそうでしょうね」
「お二人とも、くれぐれもお気をつけて」
「ん、すぐ終わらせるから」
補助監督の声に短く返し、頭の中のスイッチを強引に切り替えようとした。思考を切り替えなきゃ死ぬ。それは分かってはいるのに、胸の奥にこびりついた彼女の面影が、どうしても頭から離れない。
だって普通は、俺が普通だったら、呪術師じゃなかったら、彼女をあそこで置いていくことにはならなかった。あんな顔させなかった。その思考がどうしても拭えない。
雨が鬱蒼とした竹林を濡らす中、巨躯の呪霊が咆哮を上げて立ちはだかる。
「……釘崎、左頼む。俺は正面からいくわ」
「了解」
ぬかるむ地面を蹴って、交戦に入る。拳に呪力を宿し、何度か打ち込んだ。重い打撃音が辺り一帯に響くけれど、焦りからか間合いの踏み込みがいつもよりほんの少し甘い。自覚はあった。
ほんの一瞬。 彼女の寂しげな瞳がまた脳裏をよぎり、コンマ数秒、思考が戦場から逸れた。
「っ……ぐ、……っ」
呪霊の巨大な腕が、死角から鞭のようにしなって襲いかかる。油断した。咄嗟に腕を交差させてガードしたものの、強烈な衝撃で身体ごと吹き飛ばされる。
視界が激しく回転する。吸い込まれるように迫る、太い大木。さすがにまずい。身体が叩きつけられる直前、身体を捻り受け身を取った。背中への直撃を避け、腰から側面にかけて体幹で衝撃を殺そうとした。
ドカンと凄まじい衝撃音が響き渡り、泥の中に滑り込むように着地する。それと同時に、バキ、と何かが割れる音が聞こえた。
「……いってぇ」
立ち上がり、肺の空気を吐き出して身体の状況を探る。受け身のおかげで大きな怪我は免れている。致命傷はない。問題なく動けそうだ。パーカーにはべったりと腹部からの血が染み込んでいる。まあこれくらいは仕方ない。
手のひらについてしまった血を拭いながら、ふと彼女との約束を思い出す。
怪我しないように気をつけるって、言ったんだっけ。
約束は何一つ守れていない。
「……とにかく戻らねえと」
再び呪霊の方へ足を向けようとしたとき、一気にその気配が弱まり、消えていくのを感じた。どうやら釘崎がトドメを刺したようだ。終わった、のだろうか。そのまま立ち止まり、じっと周辺を警戒した。低級の呪霊がオマケのように現れることも時々あるからだ。しばらく身を潜めていたが、どうやら今回はそんな気配もなさそうだった。じきに帳も上がるだろう。歩いて釘崎の方へ戻ろうと思った。
そこでなんとなく、いつもの癖でポケットに手を突っ込んだ。
「……ん、?」
手に触れた違和感に、すぐそれをポケットから取り出した。現れたスマートフォンの黒い画面は、細かく蜘蛛の巣状に割れていて、内部の基盤が剥き出しになって原型を留めていない。焦って電源ボタンを押すも、その画面は二度と光を灯さなかった。当たり前だ。こんな状態で、電源がつくわけがない。
「……マジか」
完全にやらかした。心当たりがあるとすれば、さっき受け身を取って地面に着地した時だ。変な音、してたし。
雨が、ただの破片となってしまった画面を容赦なく濡らしていく。
スマホが壊れるなんてことは、過去に何度も経験がある。こういう仕事をしているのだから仕方ない。それに、壊れても特に困らなかった。連絡先は、伏黒や釘崎ならまた聞けばいい。それ以外の仲間だってどうにかなる。写真も、別にどうにかなるだろう。
……でも、今回は。
すぐに彼女の顔が浮かぶ。番号は覚えているわけがない。アドレスはそもそも知らない。連絡先を交換して満足して、どこにも書き留めてなんていなかった。
彼女との連絡手段は、今完全に絶たれてしまった。俺のせいで。
「ちょっと、虎杖、……虎杖 ! 」
その声でハッと正気に戻る。顔を上げると、暗がりから釘崎が歩み寄って来ていた。足を止めた彼女は、俺の泥と血で汚れたパーカーと、その手元に落ちた視線に気づいて訝しげに眉をひそめる。
「なに、怪我? ……って、うわ。また壊したの?」
「……あー、いや。なんでもねーよ。ちょっと受け身失敗しただけ」
「アンタ、スマホ壊しすぎじゃない?どんだけ雑に扱ってんのよ」
「いや、雑に扱ったわけじゃねぇんだって」
慌ててそれをズボンのポケットへ押し込む。力のない笑いを浮かべて誤魔化すのが精一杯だった。
「怪我は?大丈夫なの?」
「ん、平気。あとで治すから……とにかく、帳上がったし戻ろうぜ。車待たせてる」
◇
帰り道、夜道を走る車内は静まり返っていた。冷房の風が、雨と泥で冷え切った身体をさらに冷やしていく。隣の釘崎は、買い込んでいたらしい甘そうなドリンクを飲みながら、自身のスマートフォンを滑らかに操作している。
シートに深く背を預け、窓の外を流れる雨の高速道路をぼんやりと眺めた。またすぐに、彼女の表情やぬくもりを思い出す。今頃、あの子はどう思っているだろう。急に置いていかれて連絡も来なくなって、きっと怒っているか、あきれ果てているか。もう会いたくないと思わせているかもしれない。いや、彼女はやさしいから、怒らずに、ただ悲しんでいるかも。確認できないからこそ、ネガティブな想像ばかりが脳裏を駆け巡って、胸が苦しくなる。
「……なぁ、釘崎」
「なに」
視線も上げず、画面をタップする指を止めないまま釘崎が応じる。なるべく世間話を装って言葉を紡いだ。
「……もしさ」
「ん」
「もし……非術師の友達と約束しててさ。急な仕事で途中で帰らなきゃならなくなったら……やっぱ相手って、怒るのかな」
声が震えないよう、いつも通りの気のないトーンを意識して呟いた。釘崎はスマートフォンを膝の上へ置くと、ハッと鼻で笑うように息を吐き出した。
「まあ普通は怒るんじゃない。わざわざ時間作って会ってるわけだし」
「……そうだよな」
「当たり前でしょ。っていうか」
釘崎はいつだって鋭い。
「それ、アンタの話?」
「ん、いや?……一般的な話」
「ふーん。てっきりアンタの話かと思ったわ。合コンで会った子の」
「ぶっ…… ! ?な、なんで合コンのこと知ってんの」
「猪野さんのやつでしょ。そんなのとっくに知ってるわよ」
高専は噂が広まるのが早すぎる。頼み込まれて参加したのは事実だけれど、ここは弁明したかった。
「言っとくけど、好きで参加したわけじゃねえから。どうしてもって言われて……ああいうの苦手なんだよ」
「ふーん……とはいえ、連絡先は交換したりしたわけでしょ。随分人気だったみたいじゃない」
どこまで漏れ伝わっているのか、怖すぎる。
「別にんなことねぇって」
「その場にいた全員が虎杖狙いになって、合コンクラッシャーってあだ名がついたとかつかないとか?」
「……な、なんだそれ。誇張されすぎじゃね?」
「知らないわよ、そう聞いたんだから」
「そりゃどうしてもって言われたらさ、連絡先くらい交換するしかねーじゃん、……興味なくても」
まあその連絡先たちも、さっき消えてしまったんだけど。それはどうでもよかった。むしろ、返信する義務がなくなって助かった。
「……まあ誰の話か知らないけど。私たちいつ死ぬか分かんないでしょ。理由も明かせないまま急にいなくなって、向こうに一生のトラウマ植え付ける覚悟がないなら、やめた方がいいと思うわね」
「………」
「中途半端に優しくして期待させるのが、一番タチ悪いのよ。こっちは住む世界が違うんだから」
「……はは、そりゃ、そうだよな」
なんとか返事をしたものの、もうそれ以上は聞いていられなかった。さらにシートに身を沈めて横を向き、無理やり目を閉じた。
「寝る。着いたら起こして」
「はぁ?聞いといて急に寝落ち?」
「んー……、ごめん」
忘れていた腹部の傷跡がズキズキと痛み出す。眠るのに邪魔だったから、テキトーにそれを意識下で治した。
聞こえてくるのは、タイヤが濡れた地面を弾く音、そして釘崎がスマートフォンの画面をフリックする微かな摩擦音だけ。ポケットの中にある、ただの黒いガラスの破片が、太もも越しに冷たく佇んでいた。
◇
高専まで運ばれ事務的な手続きをいくつかこなしたあと、自宅に戻る。その頃にはすっかり夜中になっていた。
泥と血で汚れた服をテキトーに脱ぎ散らかし、上裸のまま洗面所に立つ。蛇口をひねり、勢いよく吐き出される冷水を両手で何度も顔へ叩きつけた。
「……っ、はぁ、」
冷たさが皮膚を刺し、感覚を麻痺させていく。それでも、胸の奥にあるドロドロとした熱は消えてくれない。濡れた髪から水滴がポタポタと滴り落ち、鏡の中の自分を濡らしていく。
視線を落とし、呪霊の衝撃を受けた腹部を確かめる。テキトーに治したわりには、肌の表面は滑らかで、傷はうっすらとしか残っていない。広げた右手の指先を、その腹筋の隆起にそっと滑らせた。
「……っ……」
熱を帯びた指先を、撫でるように、確かめるように這わせる。ドクドクと心臓が鳴る。
ここに、あのとき彼女の華奢な身体が収まっていた。背後から覆いかぶさるようにして、壁との間に包み込んだときの、やさしい匂い。耳元で囁いたときの息遣い。繋いだ指先から伝わってきた、やわらかい体温。
触れたい。抱きしめたい。
荒くなった吐息が、目の前の鏡をうっすらと白く曇らせた。
「……なにやってんだ、俺」
洗面台の両端を、指先が白くなるほど強く握りしめる。
呪術師としての日常は、常に死と隣り合わせだ。昔に比べれば随分強くなったと思うけれど、誰かの死と、自分の死を感じながら生きていかなければならないのは、これからもずっと変わらない。
誰かのことを好きになって、付き合って、幸せにする。そんなことが、こんな自分にできるわけがない。許されるわけがない。ちゃんとわかっていたのに。
今日だってそうだ。急に呼び出されれば、彼女の手を振り払って走らなきゃいけない。それをわかっていて、なんで会ってしまったんだろう。
急に連絡を絶ってしまって、心配させているだろうし、きっと傷つけた。安易に触れるべきじゃなかった。受け入れさせるべきじゃなかった。
蛇口から流れ続ける水の音が、洗面所に虚しく響く。
側にいたい、もっと一緒にいたい、触れたいと、本能的に思ってしまった。でもそれはただのワガママだ。押し通していいはずがない。彼女の未来や平和な日常を守りたいなら、関わらないほうがいい。
「……そもそも、もう連絡すらできないんだけどな」
溢れそうになる感情を殺すように、もう一度大きく冷水をすくい、顔を洗う。滴り落ちる水滴に混ざって、目元から溢れ出たものが何なのか、そんなことはわかりたくもなかった。