ここで夜明けと君を待つ

言葉は、お守りのようなもの。だから、効果があるときとないときがある。
効果がないときにどうするべきかは、よくわかっている。そのタイミングを予測することは難しいけれど、きてしまったときは、ちゃんとわかる。
大抵は、悠仁くんが悪夢を見て真夜中に目覚めるとき。そういうとき、悠仁くんはひとりで静かに起きて、わたしのことを抱きしめる。普段ならわたしを起こさないように慎重に行動するのに、そのときだけはぎゅっと力強く抱きしめてくるから、わたしはすぐにびっくりして目が覚める。
どうしたの、とはもう聞かなくなった。理由はちゃんとわかるから。いまだに過去の悪夢が悠仁くんを取り囲み、苦しめていることは知っている。それは一種の呪いのようなもの。簡単に消し去れるものではないと知りながら、わたしは抱きしめ返して、自身の体温でなんとかそれを溶かそうとする。
大丈夫、わたしはどこにも行かないよ。
そうつぶやいても、こういうときは効果がない。どこかに行ってしまって、もう永遠に戻らないひとたちのことを、彼はたくさん知っているから。そして、その別れと悲しみは突然やってくるから、約束は全く意味がないものだということも、このひとは知ってしまっている。だから効かないのだ。
ぎゅ、とわたしの肩口に顔を埋めて、ゆっくりと深呼吸する悠仁くんの背中をさする。
「悠仁くん」
「……怖い」
「…うん、」
「どこにも行かんで」
うん、大丈夫、わかってるよ。何度もそう繰り返す。それでも抱きしめられる力はどんどん強くなるばかりで、表情は見えないけれど、だんだん自分の肩が熱くなっていくから、きっと泣いてるんだろうと思う。
言葉が効果を発揮しないとき。そんなときは、何度も伝え続けるか、それでもだめなら、言葉の代わりに行動で示してあげるのだ。
「悠仁くん、わたしどこにも行かないし、安心するまでずっと起きてるよ。朝になるまで」
永遠、を証明することはとてもむずかしい。だからそれにはほど遠いけれど、目の前の時間を少しずつ積み重ねていくしかないのだ。
今夜はひどく冷え込む夜で、寝室はひんやりとした空気が張り詰めていた。わたしは少し起き上がって、大きな毛布を引き寄せて頭から被る。すっぽり、ふたりの体が包まれるように。あたたかくて、ふたりを妨げるものは何もないのだと、そうやって安心できるように。
「悠仁くん、寒くない?」
「ん、だいじょぶ、ごめん」
「寝たほうがよさそうだったらそれでもいいし、また夢見るの怖かったら、起きててもいいよ。どっちでも隣にいるから」
「うん、」
怖い夢を見るタイミングは、いまだにはっきりと解明できているわけではない。疲れているときとか、なにか悲しいことがあったときとか、心に少し隙間ができてしまったときに入り込んでくるのだと思う。だから何度も、その隙間を埋めるのだ。あたたかいきもちとか、しあわせで。
「……このまま寝たら、さっきの夢、続き見そうな気がして」
「うん」
「だから、起きてても、いい?」
「うん、いいよ」
たぶん、日の出まではあと二時間くらい。昨日食べたご飯が美味しかったとか、起きたらどこに行こうとか、そういう話をした。うんと小さかったときの話を思い出して、もう数え切れないほどの夜をこうして一緒に過ごしているのに、まだお互い知らないことがあるんだねと言い合ったり。あとはほとんどの時間を、ぎゅっと抱きしめたり、お互いの瞳を見つめ合って、頬を撫でて、時々溢れてくる悠仁くんの涙を拭いたり、そんなふうにして静かに過ごした。
こわばっていた悠仁くんの身体がふと緩んで、涙も乾くころ、空がほんの少しだけ明るくなってきたのをカーテン越しに感じる。
このままもう一度眠ってもいいけれど、なんだかそれももったいないような気がして。
「朝日、見に行きたい」
自然とそう言っていた。それは完全に思いつきだったのだけれど、悠仁くんはすぐ了承してくれた。
ふたりで半分パジャマみたいな格好のまま上着を着て、マフラーを巻いて外に出る。
あたりはまだ薄暗く、吹き抜ける風はとても冷たい。まだ眠ったままの街はしんと静かで、世界がふたりだけになったような、そんな気がした。
「ほら、手これであっためて」
そう言ってあたたかいペットボトルを差し出してくれる悠仁くんは、寒さでちょっと鼻を赤くさせていた。吐く息は白い。わたしたちは自然と寄り添いながら、誰もいない静かな町並みをゆっくりと歩いて行く。目的地は言わなくてもわかりあっていた。

そこは、近くの川にかかる大きな橋。
緩やかな坂を登って、その橋の真ん中にたどり着く。なだらかに揺れる水面と、それを囲むビルやマンションの群れたち。そして向こうには、同じような橋が点々と見える。それを一気に見渡せるこの景色を、いつだってふたりで眺めてきた。悲しいときも、うれしいことがあったときも。
冷たい風がますます強く吹き抜け、時折その強さに目をつぶる。思わずよろけそうになったとき、ぎゅ、と悠仁くんが後ろから抱きしめて支えてくれた。もう少しで、きっと太陽が登ってくる。お互いをあたためあいながら待つその時間は、静かで穏やかで、永遠のように感じられた。
あんなにも遠いように感じた永遠の時間が、いまは目の前にある。
「…あ、」
頭上から聞こえる悠仁くんの声を合図に、ビルの輪郭が一斉に明るくなる。まぶしいくらいの光がビルから漏れ出て、そして一気に水面をキラキラと照らした。光がさす範囲はだんだんと大きくなり、照らされたところから、朝が始まっていく。
「すげえ、きれい」
「うん」
朝の光はあまりに神聖で、わたしたちは目をそらすことができずに、美しく光り輝く川や街を永遠に眺めていた。世界にはこんなに美しい景色があるのだと、その事実だけでこれからも生きていけるような、強烈な光。
「…あのさ、」
「うん?」
「ありがとう、そんでごめん」
「謝ることないよ」
「結局全然眠らせてあげれんくて」
「気にしないでいいのに」
「……おれ、時々全部怖くなんの」
「…うん」
「#name#がいなくなったら、とか、そういう、考えてもどうしようもないことが頭から離れんくて」
「うん」
「考えんのやめようと思っても、目つぶったら浮かんできて、そんで」
「悠仁くん、」
思わずその手を取る。冷たくかじかんだ両手を包むようにして握った。
「怖くなってもいいよ。いつも一緒にいるから」
「…うん」
「また怖い夢見たら、一緒におしゃべりして夜更かしして、朝日見に来ようね」
冷たいままの彼の手を、自分の頬に当てる。見上げる悠仁くんの目は光を反射して、うるうると揺らいでいた。
朝日に照らされるその姿は、とてもまぶしくて、かけがえがなくて、鼻の奥がツンとする。彼のその姿を、この光を、わたしは一生忘れないだろう。そう確信できた。
握り返してくれたその手は大きくて、少し乾燥していて、まだ冷たかったけれど。繋いだまま家に戻る頃には、あたたかくなっているといいなと、静かに祈る。
「…なんかわたし、お腹すいたかも」
「んじゃ、朝ごはんどっかで食べる?」
「いまマックしか空いてないよ」
「朝マック好きっしょ?」
じゃあ決まりな、と笑う悠仁くんは、いつも通りのやさしい笑顔で。
わたしはこれから始まる一日が、このひとにとってしあわせなものになりますようにと、そっと願うのだ。

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2026-02-05