「お前、なんか今日予定でもあんの?」
「え」
猪野さんが任務資料に雑に目を通しながら、缶コーヒーのプルタブをパキッと開けた。その音だけが、静かな車内に響いて消える。
突然の芯を突くような質問に、思わず身体が固まった。この人、いつもやけに勘が良いから厄介だ。動揺を悟られないように、平静を装って答える。
「……いや、まあ。…なんで?」
「やけに時間見てんなーと思って」
そうだ、いつもなら集中を高めるためのこの時間が、今日に限ってやけに長く感じる。ナビの画面に表示されたデジタル時計の数字を、無意識に何度も目で追ってしまう。見たって同じ時刻しか表示されないのに、スマートフォンの時計まで確認してしまっている。
「……あー、ちょっと待ち合わせがあるだけで」
「ふーん。デート?」
猪野さんの質問に深い意味はないし、確信もない。それはよくわかっている。それでも、反射的に耳が熱くなった。
「別にそういうんじゃねえよ」
そう、本当になんてことのない、待ち合わせ。ただ借りていたハンカチを返すためだけの。それだけだ。
数日越しに返したメッセージに、彼女はすぐ返信をくれた。今日の夕方会う約束はスムーズに決まった。決まってしまった。
本当は誰かと時間を決めて落ち合うのが苦手だ。大抵待たせることになるから。
術師の仕事は相手次第で長引くし、相手というのは呪霊で、そもそも「ちょっと急いでるんで」が通じるわけがない。急なトラブルも怪我も日常茶飯事で、自分の都合通りにいった試しがない。だから誰かと約束なんて作らないようにしていた、のに。
「まあ今日は早く片付くんじゃね?思ったよりややこしくなさそうな案件だしな」
「………って言ってるとなんか起きるんよな」
その嫌な勘は当たった。
◇
結局、「思ったよりややこしくなさそうな案件」なんてことは一切なく、むしろ聞いていたよりもややこしさは段違いで、予想以上に体力も時間も使う任務になってしまった。送迎車を降りたときにはもう待ち合わせの時間を数分過ぎていて、一旦帰宅してシャワーを浴びるという事前の計画は破綻した。
「………まあ一瞬会うだけだしな」
パーカーにこびりついた、乾いた泥や血を手のひらで雑に振り払う。そうしたところで、染みついた鉄くささや呪霊の臭いが完全に消えるわけじゃない。この格好のまま行くのかと、一瞬迷う。でも彼女からは待ち合わせ場所に着いたと連絡が来てしまっている。どうにもならなかった。これ以上待たせられない。人混みを縫うようにして、駅前の広場まで走った。
開けたその広場の、大きな街路樹の下。
「……あ」
視界に彼女を捕らえたとき、思わず足が止まった。
駆け寄らなきゃいけないのに、早く声をかけなきゃいけないのに。駅前の喧騒も、通り過ぎる人の姿も、全てが意識から遠のいて背景のぼやけた影のように消えていく。
灰色のコンクリートと行き交う人々の真ん中で、彼女の周りだけがぼんやりと照らされて、やわらかい光が満ちていた。その輪郭は透き通っていて、眩しい。息が止まりそうになる。
やさしい風が吹いた。その髪がそっと揺れる。彼女は誰かを待っている。顔を上げたその瞳が、こちらを見た。笑った。
彼女は俺を待っている。
「……待たせてごめん」
なんとか彼女の元に駆けつけて、息を整えようとした。胸の奥で、心臓が跳ね回っている。そのうるさい音が彼女にまで届いてしまいそうで、怖くなった。
「ううん。忙しいのに、ごめんなさい」
「……いや、大丈夫。怪我、治った?」
「うん、大したことなかったから」
「……そっか」
まだその頬に残る、うっすらとした傷跡。白くてきれいなその場所に、痕が残らなければいいと思った。
長い睫毛、自分に向けられたまなざし、微かに開いた唇。全部が木洩れ陽に照らされて光っている。直視したくないのに、目を逸らせない。
「あ、……これ、洗ったから。ありがと」
ポケットから丁寧に折りたたんだハンカチを取り出して、彼女に差し出した。自分の手の、無骨でささくれだった皮膚や、爪の隙間に残るうっすらとした汚れがやけに気になってしまう。伸ばされた彼女の手は、驚くほど白くて、小さくて、やわらかそうだった。
触れたら壊れてしまいそうなその清らかな指先と、俺の傷だらけの手。あまりに対照的で、差し出した手を思わず引っ込めてしまいたくなる。
彼女はそっとハンカチを受け取ったあと、その視線をゆっくりと俺の胸元へ泳がせた。
「ん?……あ、ごめん、汚くて。そのまま来たから」
焦って手でパーカーの汚れを隠すように体を少し引いた。鉄くささと泥の臭いが、一気に鼻をつく気がした。
「あ、その、」
彼女が何かを言いかけた、その時だった。
ぽつ、と冷たい何かが鼻先を叩いた。
「……雨?」
彼女がつぶやくのと同時に、ぽつぽつとアスファルトに黒いシミが広がり始める。灰色の雲が一気に立ち込め、息をつく暇もなく、パラパラと音を立てて大粒の雨が降り込んできた。夕立だ。さっきまでの夕空が嘘みたいに、あっという間に景色が雨の白さに霞んでいく。周囲の人々が一斉に傘を開いたり、駅へと走り出していくのが見えた。
雨粒が、彼女の白い頬を濡らした。傷跡をなぞるように、それはゆっくりと流れていく。
彼女と目が合う。最初に出会ったときに見た、不安を映したガラスみたいな瞳を思い出す。
「こっち」
ほとんど反射的に、その細い手首をそっと掴んで走り出していた。彼女の小さな体が驚いたように揺れるのを感じたけれど、離さなかった。すぐそばのビルの大きな軒下に向かって、静かに走った。
軒下には同じく雨を逃れるためにやってきた人たちが集まっていた。急に恥ずかしくなって、そっとその手首を離した。手のひらに残った熱と、やわらかさの余韻。じわじわと身体が熱くなる。
世界を分断するような、塗りつぶすような激しい雨音。流れていく雨が、目の前に水のカーテンを作っている。
「……ごめん、濡れちゃったな」
「ううん、…すごい雨ですね」
彼女が息を整えながら、濡れた前髪をふわりと手ぐしで払った。 雨に濡れたおくれ毛が、白くて華奢な首筋にひとすじ張り付いている。まつ毛の先に留まった小さな雨粒が、街灯の光を拾ってかすかに揺れて、透き通った瞳に濡れた光を落としていた。綺麗だと、素直に思った。息をするのもためらわれるくらいに。
彼女の濡れた髪から、やわらかくて甘い香りがふんわりと立ちのぼる。
この空間だけが、世界から切り離されたみたいに静かだ。すぐ隣にいる彼女の体温が、冷やされた空気の中で際立っている。聞こえるのは雨音と、自分の心臓の破裂しそうな音だけ。
「あの、……これ、使ってください」
遠慮がちに差し出されたのは、俺がさっき手渡したばかりの白いハンカチ。彼女はそれを小さく広げると、俺の濡れた髪や肩に向かって、そっと手を伸ばした。驚いて肩が強張る。ほんとに、息が止まるかと思った。
「……っ、いや、俺は平気だから。それ、さっき返したばっかだし」
「……でも、拭かないと風邪ひいちゃうから」
そう言って、彼女は手を引っ込めようとはしなかった。そのやさしい頑固さに、大人しく降参した。
「……ありがと。でもごめん、また借りることになっちゃったな」
受け取りながらそう呟くと、彼女がふっと目元を緩ませてこちらを見た。ドキッとして、反射的に目を逸らす。心臓の音がさらに激しくなる。それをなんとか紛らわせたくて、額や首筋を伝う雨粒を丁寧に拭くことに集中した。泥でハンカチを汚してしまう気がして、パーカーは拭けなかった。
「しばらく止みそうにないですね」
「………だな」
ふたりで雨空を見上げた。叩きつけるような雨足は一向に弱まる気配がない。どのくらい続くのだろう。どうせ濡れてしまっているのだから、諦めてもう一度駅まで走れば、帰ることはできる。でも。
「……あの」
「ん?」
「……もしよかったら、そこのカフェに入りませんか?」
彼女が指さしたのは、ビルの一階にあるガラス張りのカフェ。あたたかそうなオレンジ色の光が、雨の街にぽつんと浮かんでいる。
ハンカチを返したら、すぐに帰るつもり、だった。だから一瞬返事に迷って、喉の奥がぐっと詰まった。断るべきだと、わかっているのに。
「……じゃあ、雨が止むまでなら」
気がついた時には頷いてしまっていた。
◇
ガラス張りの店内は、香ばしいコーヒーの香りや甘い匂いに満ちていた。カウンターの奥から聞こえるエスプレッソマシンの蒸気音や、控えめに流れる音楽。外の雨音もここではどこか遠く、やさしく落ち着いた音に聞こえる。
案内され、木製の小さなテーブル席に座った。
天井から吊り下げられたランプが落とすオレンジ色の光が、濡れた彼女の髪や白い肌をあたたかく照らしている。向かい合っていると、途端に視線のやり場に困ってしまう。頼むわけでもないのに、メニューを隅から隅までじっと見つめた。それこそ呪力で穴が開けられそうなくらいに。
しばらくすると、湯気の立つカップが運ばれてくる。彼女はそれを包むように持って、冷えた指先をあたためていた。今度はその細い指先を、ぼんやり眺める。会話が上手く続かない。
「……あの、…虎杖、くん」
「っ、」
「……って、呼んでもいいですか?」
不意打ちすぎて、自分でも笑えるくらい動揺した。喉に詰まったカフェラテが落ちていかなくて、無理やり飲み込む。また心臓が跳ね上がって、一気に耳の裏まで熱くなるのが自分でも分かった。
「うん、好きに呼んで。……っていうかちゃんと名乗ってなくてごめん」
なんだかたまらなくなって、誤魔化すようにカップへと視線を落とした。
「……あの、怪我、大丈夫でしたか?」
顔を上げると、いつのまにか彼女の視線は俺のおでこや、首元に薄っすら残る傷跡に注がれていた。あの時、確かに頭を負傷して、気づかないうちに出血していたことを思い出す。
「あー……全然平気。俺さ、反転……えっと、怪我は自分で治せるから」
治し方が雑だったせいで、おでこにはうっすらと傷跡が残ったままだったはずだ。前髪をくしゃくしゃと乱してそれを隠した。こんなふうに心配させてしまうなら、もっと丁寧に治しておくんだったと後悔した。
「でも……いつもそんな風に、怪我、……しちゃうんですか」
「……まあ、たまに。でもさ、本当に平気だから。俺、すげー丈夫なの」
そう笑いかけると、彼女は切なそうに笑顔を作った。そしてそこで、自分の顔の中心や口元に大きな傷跡があるのを初めて思い出した。そりゃ、こんなのを見てしまったら心配するに決まっている。彼女の視線の意味をようやく理解した。
「あ、これはさ、結構昔の傷でさ……もう痛くもなんともねーし、大丈夫なんよ」
必死に言い訳をしてみる。でも、その瞳の色は変わらなかった。
「……いや、ちげーな。……心配してくれて、ありがと。気をつける」
そう言い直すと、彼女の瞳に溜まっていた不安の影が溶けて消えていくのが分かった。
「……うん。約束、です」
彼女はそっと笑ってくれた。
それからは、本当にたわいのない話をした。最近食べた美味しかったものの話とか、休みの日の過ごし方とか、最近よく見かける近所の犬の話とか。相槌を打つたびにやさしく揺れる瞳、俺の話を楽しそうに聞いてくれる、ころころ変わるその表情。
会話の端々から溢れ出る彼女のやさしさに触れるたび、胸の奥にずっとある冷たい塊が、少しずつ溶かされていく感覚がした。そんな感覚は初めてだった。ずっとこうしていたいと、思ってしまう。
「……あ」
ふと、彼女が小さく声を上げて窓の外を見た。つられて視線を向けると、いつの間にか外を覆っていた重い雨音が消えていることに気がついた。激しくガラスを叩いていた水滴はまばらになり、静かに滴り落ちるだけになっている。
分厚く立ち込めていた灰色の雲がすっと割れて、その隙間から、思わず目を細めてしまうほどの光が差し込んでくる。
「雨、止んだみたい」
目を細め、外を眺める彼女の姿。思わず息を呑む。逆光の中で、彼女の輪郭は黄金色の光を纏ってきらきらと輝いている。雨に濡れていた髪も、透き通るような肌も、繊細なまつ毛も、差し込むありったけの光を反射して、まるで光そのものが溶け込んでいるみたいだった。
天使、という言葉が頭に浮かんで、すぐに打ち消した。心臓がまた鳴り出している。ずっと眺めていたいと思った。
でも、雨が止むまで、という約束だった。
彼女がそっと、カップを置いた。寂しそうに見えたのは、ただの俺の願望かもしれない。
会計を済ませてカフェを出る。重いドアを開けると、雨上がりのアスファルトの匂いと冷たい風が一気に吹き込んできた。
「送るよ。駅まで」
夕陽に照らされた、まだ濡れたままの街。二人の影が長く伸びていく。その影の距離を見つめながら、歩幅を合わせてゆっくりと歩いた。改札前で別れたら、もう本当にそれが最後だ。
「……気をつけてな。わざわざ来てくれて、ありがと」
「……うん、……虎杖くんも、お仕事、無理しないでくださいね」
「ん、ありがと。……じゃあ、元気で」
またな、とは言えなかった。
そのまま彼女の身体は改札の向こう側へと吸い込まれていく。これでいいんだと自分に言い聞かせた。彼女が話してくれた、穏やかで平和な日常たち。それがただひたすらに続いてくれれば、それでいい。
だんだんと小さくなっていく彼女の後ろ姿。
その時だった。
人混みの中で、彼女がふと足を止めた。くるりと振り返って、俺を探しているように見える。視線が交わった瞬間、彼女は少し照れたように、胸の高さで小さく手を振った。俺もそっと振り返す。いや、……かわいい。
そして彼女は手元のスマートフォンを取り出し、何かを操作し始めた。
(……なんだ?)
首をかしげた瞬間、ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。画面を開いてみる。ぽつんと表示されていたのは、彼女からのメッセージ通知。急いでそれをタップした。
『また会いたいです』
そう書かれていた。
弾かれたように顔を上げると、彼女はまっすぐこちらを見つめている。スマートフォンを両手でぎゅっと握りしめて、きっと、俺の反応を待っている。
ドクンと、心臓が動き始めた。
断らなきゃいけない。もう会わないんだと、伝えなきゃいけない。理性はそう叫んでいるはずなのに、指先は勝手に画面を叩いていた。
『うん、会おう』
震える指で送信ボタンを押した。すぐに既読がついた。彼女は画面を確認して、そして花が咲いたみたいな笑顔になった。かわいい。嬉しそうに何度も頷いて、今度こそ手を振りながら人混みの中へ消えていく。
そして、本当にその姿は完全に見えなくなった。
もう、ダメだった。
「…………ずるすぎんだろ、もう……」
思わずその場でへたり込んだ。両手で顔を覆う。火が付いたみたいに、熱い。
「…………あんなの、勝てんよ」
ちゃんとわかった。ようやく、わかった。
俺はあの子のことが、好きなのだ。