雨が上がったばかりの8月の夜気は、ガラス越しにも伝わってくるほどどこかひんやりとしていた。そんな夜は珍しい。ここ最近は、昼間の熱気を吸ったまま、夜も蒸し暑いことが多かったから。重ったるい湿った空気がべったりと肌に触れるたび、夜も活動しなければならない彼のことを想った。
しんと静かな部屋に、クーラーの機械音だけがかすかに響いている。悠仁くんのスウェットを借りて、毛布にくるまってソファーに寝そべってみると、段々と気だるい眠気が押し寄せてくる。それに抗うことなく目を閉じていた。夢と現実の狭間を行ったり来たりしながら、彼のぬくもりを思い出す。
どのくらいそうしていたのだろう。手元のスマートフォンが短く震えた。画面に浮かび上がった文字に、胸がどくんと小さく跳ねる。すぐに画面をタップし、耳元にあてた。
「……もしもし」
「あ、#name#ちゃん、……今大丈夫?」
鼓膜を低く揺らしたのは、少しだけ雑音の混ざった、彼の低くて落ち着いた声だった。
「寝てた?起こしちゃってごめん」
「ううん、大丈夫だよ。どうしたの?」
「あのさ……」
そこで、少しの沈黙があった。
「……今日、釘崎と久しぶりに任務被って、そのまま飯食うことになってさ。伏黒も呼んだんだけど……」
「うん?」
「……釘崎が『彼女も呼べ』って聞かなくて」
「……わたし?」
「そう、#name#ちゃんに会いたいって」
語尾に向けて少しだけ声を低く落とした彼の口調には、仲間への苦笑いと、ほんの少しの照れくささが滲んでいた。釘崎さんと、伏黒くん。いつも悠仁くんの話に登場するふたり。わたしはまだ会ったことがなかった。
「……いや、急な話だからさ、気分が乗らなかったら全然いいんだけど、……来てって言ったらさ、困んねえ?」
「困らないよ。大丈夫」
わたしがそう答えると、電話の向こうで悠仁くんが息を呑む気配がした。
「……ほんとに?無理してねえ?」
「ふふ、……うん、大丈夫だよ。わたしも行きたい」
「……ありがと、じゃあ家まで迎えに行くよ。車出してもらうから」
「ううん、うれしいけど、みんなを待たせちゃうから。駅集合にしよう?」
「ん、……そっか。でも気をつけてな?」
悠仁くんはいつも、わたしがどこか異国の地に大冒険しに行くような口調で心配してくれる。電話の向こうで目尻を下げている姿が目に浮かぶようだった。
「駅前で待ってるから。なんかあったら電話して」
「うん。すぐ行くね。……ちゃんと、かわいくして行く」
「ん、いつだってかわいいよ。楽しみにしてる」
通話を切ると、耳元に残った彼の声の余熱で、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
急いでクローゼットを開ける。ひとつ深呼吸した。
何を着ていけばいいんだろうとか、どんなふうに挨拶すればいいんだろうとか、仲良くなれるかなとか。行くと決まったら色々考えてしまって、途端に緊張が押し寄せてくる。なんだか緊張が顔に出てしまっているような気がして、無理やり口角を上げてみた。
「……ふう」
鏡の前で、もう一度深呼吸した。
◇
雨上がりの夜風は思いのほか冷たくて、駅へ向かう道すがら、思わず身を縮めた。さっきまで毛布にくるまれていた身体には、少しだけ外気が身に染みる。
駅に着いてロータリーに出ると、スマートフォンを片手に佇む彼の姿がすぐに目に入った。彼を見つけた瞬間、胸の奥の緊張がふっと解けて、心があたたかくなる。この瞬間がいつだって好きなのだ。心の中で、名前を呼んでみる。声に出さなくても、だいじょうぶ。
悠仁くんはいつも不思議なほどに、わたしの気配を察知するのが早い。ぱっと顔を上げたかと思うと、すぐにわたしを視界に捉えて、表情を和らげてくれる。
「来てくれてありがと」
「待たせちゃってごめんね」
「ううん、おれも今着いたとこ。 ……つーか、なんか今日涼しくね?それだけじゃ寒いだろ」
「……あ、」
わたしが返事をする前に、悠仁くんは迷うことなくパーカーを脱ぐと、わたしの肩にふんわりと掛けてくれた。
「……でも、悠仁くんが寒くなっちゃうよ」
「おれは全然平気。ほら、ちゃんと袖通して」
促されるまま袖を通すと、彼の身体の大きさをそのまま映し取ったようなパーカーに、すっぽりと上半身が包み込まれる。首元から立ち上ってくるのは、いつもの彼の匂い。大好きな、悠仁くんの匂い。
「行こ。店さ、すぐそこだから」
駅前からお店までの短い道のり、悠仁くんはわたしの歩幅に合わせてゆっくりと並んで歩いてくれた。隣を歩く彼の身体がふれるたび、そのあたたかい体温が伝わってくる。
「……緊張してる?」
「……うん、少しだけ」
「そりゃ、そうだよな」
ぎゅ、と繋いだ手に力を入れると、そっと握り返してくれた。その温度はどこまでもやさしかった。何も言わなくても、悠仁くんは全部わかってしまう。
「見た目は怖いねーちゃんと無愛想なにーちゃんだけど、ふたりともいいヤツだから」
悠仁くんは嬉しそうに笑った。その表情からだけでも、彼がどんなにふたりのことを大好きで、信頼しているのかよくわかる。わたしもつられて思わず笑顔になる。
「……あ、やっと笑った」
悠仁くんの大きな手が、わたしの頭をそっと撫でる。
「大丈夫、きっと楽しいから。でも不安になったらちゃんと教えて」
「……うん」
お店に近づくと、路地の少し奥に立つ二人の人影が見えた。人混みの中でも一目でわかる、凛とした佇まいの女の子と、その隣で少しだるそうに壁に背をあずけている黒髪の男の子。
ふたりもこちらに気づいたようで、女の子——釘崎さんがパッとこちらを振り返る。
「やっと主役が来たわね」
開口一番、賑やかで通りやすい声が響く。
「ごめんごめん、お待たせ」
笑いながら手を振って、悠仁くんはわたしを庇うように少しだけ前に立ちながら距離を詰めた。挨拶、そう思って見上げると、悠仁くんは耳をほんのり赤くしながらわたしを紹介してくれる。
「えーと、……#name#ちゃん。俺の、彼女です」
「はじめまして、よろしくお願いします」
緊張しながらなんとか頭を下げる。そっと、悠仁くんが背中を支えてくれた。釘崎さんは目を丸くしたあと、パッと華やかな笑顔になった。そして、勢いよく悠仁くんの腕をバシバシと叩いた。
「いってえ ! 」
「虎杖にはもったいなさすぎるわ。私、釘崎野薔薇。よろしくね。んで、こっちの無愛想が伏黒」
「やめろ。……伏黒です。虎杖が急に呼び立ててすみません」
伏黒くんも、少し恐縮したように丁寧にあいさつを返してくれる。ほっとした。
ちらりと悠仁くんを見上げると、大丈夫、と目を細めてくれた。
お店の暖簾をくぐると、店内は賑やかな熱気と香ばしい匂いに満ちていた。通された奥の個室に入る。
「#name#ちゃん、奥座って。狭くねぇ?」
「うん、だいじょうぶ」
悠仁くんはごく自然な動きで、わたしを一番奥の壁際の席へと促してくれた。なんだか守られている感じがする。
向かいに釘崎さんと伏黒くんが座って、早速メニューを開く。
「何飲むー?ここコースなんだっけ?」
「いや、アラカルトにしたはずだろ。どうせお前らコースにしても余計に頼むハメになるんだから」
「んー、俺ビールにしよっかな。#name#ちゃん、なに飲む?」
3人はすぐに盛り上がり始め、場は一気に賑やかになった。 狭い個室の席で、悠仁くんの大きな身体と肩がぴったりと触れ合っている。それだけで安心した。
「カンパーイ ! 」
釘崎さんの明るい声とともに、グラスがぶつかり合う小気味良い音が響く。
「#name#ちゃん、何か食べたいものあったら遠慮なく言いなね。じゃないとこの男が全部食べちゃうから」
「食わねーよ ! #name#ちゃん、好きなの頼みな。……あ、これとか好き?」
「虎杖、さっきの軟骨唐揚げもう一皿追加ね。あと明太ポテトフライ」
「食ってから追加しろよ。まだきてもねーじゃん」
「どうせアンタが食べるってわかってんのよ」
「お前ら声がデカすぎだ。店内に響いてるぞ」
ふたりと楽しそうに笑う悠仁くんの表情は、いつも通りのようで、でもわたしの知らない表情も含まれている。なんだか不思議だった。
釘崎さんは本当に裏表のない素敵な人で、わたしが話しやすいように話題を振ってくれる。伏黒くんも呆れたようにため息をつきつつ、空いたグラスにすぐ気づいてくれる細やかなやさしさがあった。
でも、自分の知らない任務の話や、いつかの思い出話。先輩や後輩の話。3人で重ねてきた時間の呼吸みたいなものに触れるたび、胸の奥が少しだけ、ほんの少しだけ、チクリと痛む。自分だけが立ち入れない世界を見せられているような、勝手な寂しさ。心の底の水面に、それがじんわりと広がっていく。そんなもの、感じる必要はないとわかっているのに。
思わず俯いてしまった、その時だった。
視界に入らないテーブルの下。 膝の上に置いていた左手を、不意に大きな熱がそっと包み込んだ。思わずびくりと肩が揺れそうになるのを堪える。悠仁くんの分厚くてあたたかい手のひらが、わたしの指の隙間を探るように滑り込んできて、深く、逃がさないように指を絡めとる。
横目でちらりと隣を見ると、彼は何食わぬ顔で伏黒くんと話をしている。でも、繋がれた手は絶対に離れなくて、彼の親指がわたしの手の甲をそっと撫でるように動いた。
……もしかして、気づいてたのかな。
そのやさしい力加減と熱量に、張り詰めていた緊張がじんわりと溶けていく。そばにいるよ、と言われたような気がした。ぎゅっと、絡められた指を握り返す。顔を上げると、ふと、悠仁くんの口角がわずかに上がった。
「で、虎杖。そろそろ本題に入るけど」
「……ん」
「馴れ初めを聞かせなさいよ」
「げっ? ! 」
「げ、じゃないわよ。それを聞きにきたのよ今日は」
「……ま、前に説明せんかったっけ、俺」
「大した話聞いてないわよ。アンタすぐはぐらかすから」
「はぐらかしたっつーか、別にいいじゃん、そんなのは」
「よかないわよ、聞かされたときにはもう付き合って3ヶ月でしたーなんて、ふざけてるにも程があるでしょ」
「だってさ、……いや、まあ」
「……あ、もしかして#name#ちゃんがそういうの嫌なタイプ?なら聞かないけど」
「ちげーの、俺が言ってないだけ」
「結局アンタじゃない」
「いや、……そういうことはさ、俺の中だけに留めておきたいって思うこと、あんじゃん。好きな子のことは」
「…………」
「…………」
「……飲め、虎杖」
「いただきます」
ビールを勢いよく流し込む悠仁くんの耳は赤かった。
「ねえ、なんかムカつくこととか言われてない?殴りたくなったら私が代わりに殴るから」
「なんで俺釘崎に殴られんの」
「ふふ、今のところ大丈夫です」
「今のところ? ! 」
「いつもやさしくて、どんなに忙しくても会ってくれて、うれしいよ」
「…………そ、そっか」
「アンタ顔赤すぎでしょ」
「さ、酒のせいだから ! 」
ますます赤くなる悠仁くんがかわいくて、思わず笑ってしまった。そんなふうに照れてくれるのが嬉しかった。
そのタイミングで大皿の料理が運ばれてきて、さらにテーブルは賑やかになった。野薔薇ちゃんがお酒を追加注文している。
ふと視線を感じて横に目をやると、悠仁くんが、会話の喧騒を忘れたようにじっとわたしを見つめていた。
(……どうしたの?)
声に出さずに目で問いかけると、悠仁くんはフッと柔らかく目尻を下げて、少しだけこちらへ顔を寄せた。
「なんでもねぇよ。ただ……#name#ちゃんが笑ってんなと思って」
言葉と同時に、テーブルの下で繋がれた手に、ぎゅっと心地よい力がこもった。 わたしが笑っていることが、ただそれだけで心底嬉しいのだと伝わってくるような強さ。
「楽しい?」
「……うん、楽しい」
わたしは隠すように小さく笑い返し、その大きな手をこっそりと握り返した。
◇
「じゃあな、また近いうちに」
「#name#ちゃん、今度は二人で買い物行きましょ、虎杖抜きで。愚痴聞くわ」
「なんで愚痴あんの前提なの? ! 」
駅の改札前で、野薔薇ちゃんと伏黒くんを見送る。手を振りながら去っていく二人の背中が見えなくなるまで見届けてから、ほっとひとつ、息を吐いた。
「……ふう」
「……大丈夫だった? 疲れたよな」
覗き込んでくる悠仁くんのその目は、どこまでもやさしい。
「ううん、全然。本当に楽しかったよ」
わたしがそう答えると、悠仁くんは安心したようにそっと笑った。
賑やかだった宴の余韻を残したまま、二人で駅前を離れ夜道を歩き出す。
雨上がりの夜風は相変わらずひんやりとしていたけれど、悠仁くんから借りた大きなパーカーと、彼と繋いでいる右手のおかげで、少しも寒くなかった。
「……あのね、悠仁くん」
「ん?」
「今日、行けてよかった。ふたりに会えて嬉しかったよ」
彼の隣でそう呟くと、繋がれた手がぎゅっと少し強めに握られた。
悠仁くんは前を見つめたまま、少しだけ耳を赤くして、ぽつりと呟く。
「……実は俺もさ、すげえ緊張してたんよね」
「……そうなの?」
「うん。大切なひとに大切なひとのこと紹介できんのって、すげえことじゃん」
「……そうだね」
「おれの好きなひとのこと、あっちにも好きになってほしいって勝手に思ったりさ、でも#name#ちゃんが居づらかったらどうしようとかさ。なんか色々考えちゃって」
「……うん」
「だからさ。#name#ちゃんが笑ってくれて、楽しかったって言ってくれて……すげぇ嬉しかった。来てくれて、ホントありがと」
悠仁くんは立ち止まって、真っ直ぐわたしの方を見た。街灯の光に照らされた彼の瞳には、やさしい光が宿っている。
「……悠仁くん」
「ん?」
「……キス、する?」
「えっ、……する」
返事と同時に、悠仁くんの手がわたしの腰へと回され、ぐっと熱い体温が押し寄せてくる。視界がふわりと陰ったかと思うと、顎を指先でそっと掬い上げられた。視線が絡み合う。
「……好きだよ」
少し身をかがめた悠仁くんの、熱くてやわらかい唇がわたしのそれと重なる。
「……ん、っ」
すぐに離れると思っていたのに、じっくりと角度を変えながら続けられる動きに、息が止まりそうになる。自分の体温を全部、わたしに移そうとしているような、熱くてあまいキス。
ようやく唇が離れるとき、ちゅ、と小さく水音がして、それは夜の静寂に溶けていった。
「……ごめん、止められんかった。早く帰ろ」
わたしを捉えたままのその瞳は、切なく揺れている。赤くなった顔を誤魔化すように頷くと、悠仁くんは目尻を下げて、困ったように笑った。
「……なあ、手、繋ご?」
右手を差し出すと、わたしの指の隙間に滑り込むように、悠仁くんのそれが深く絡められる。
「風、まだちょっと冷てぇな。寒くねえ?」
「うん。悠仁くんの匂いがして、あったかい」
歩幅を合わせ、ゆっくりと並んで歩く夜道。街灯が作り出すわたしたちの影は長く伸びていて、時折りそれは重なってひとつになる。
しっかりと握られた右手の熱が、身体の芯にまで伝わって、そっと心を満たしていく。
彼の大切なひとに囲まれて過ごした今夜のことを、わたしはきっと、ずっと忘れないだろう。
繋いだ手に少しだけ力を込めると、悠仁くんもすぐにそっと、やさしく握り返してくれた。