haven

「……虎杖さん、今回もお疲れ様でした」
バックミラー越しに声をかけると、後部座席に深く沈み込んでいた虎杖さんは、小さく手を振った。
「ありがとな。助かったわ、ほんと」
そう言って見せる笑顔はいつも通り爽やかだけれど、その首元や袖口から覗く肌には、戦いの激しさを物語る傷跡や残穢の不快な匂いがうっすらと残っている。反転術式で傷自体は塞がっているものの、特級案件をひとりで片付けてきた直後の疲労感は隠しきれていない。
「寝てもらってて大丈夫ですからね」
「ん、ありがと」
車は夜の首都高を、滑るように走っていく。静まり返った車内で、彼はじっと窓の外を眺めている。
「明日、せっかくのお休みなのに、夜遅くまで引きずり回してしまってすみません」
「いや、全然。むしろ明日休みだから余裕だわ」
ミラー越しの虎杖さんは、嬉しそうに目を細めた。
「明日はご自宅でゆっくりされるんですか?」
「んー、なんか見たい映画があるらしくて。…なんだっけ、いまやってんじゃん、あの、なんかかわいい」
「……ああ、あの、ちいさくてかわいいやつ、ですか」
「あ、そうそう。それ」
誰の見たい映画なのか、虎杖さんは主語をはっきりとは言わなかったけれど、もうちゃんとわかる。そういうことは全て、大切な彼女の話なのだ。
「最近流行ってるんよね。俺あんま知らんけど」
「たしかに、毎日見かけますね」
「毎日説明されてるとさ、だんだん覚えてきて。あいつらもモンスターの討伐が仕事らしいよ」
「え、そうなんですか?……知りませんでした」
「な、俺と一緒だな」
虎杖さんは楽しそうに笑った。そのキャラクターについて彼女が一生懸命説明するのを、にこにこと聞いている彼の姿を想像した。
「……あ」
しばらくそのキャラクターたちの話をしたあと、虎杖さんからポツリと小さな声が漏れた。
「どうかしましたか?」
「いや、なんでもねえ。……明日ちょっと探すわ」
そう答える彼の声はさっきより低くなって、心ここにあらずといった様子だった。落ち着かない様子でポケットの中を探っている。
何を探すのだろう。気にはなったけれど、大丈夫と言われてしまった手前、踏み込むのも不躾かと思い口をつぐんた。背後でひとつ、深い溜め息が聞こえる。オレンジ色に光るナトリウム灯や街路灯たち。規則的な間隔で設置された明かりが、フロントガラスを滑って彼の横顔を照らしては、また暗闇の中へと追い去っていく。
シートに沈み込んでいる虎杖さんは、さっきとは打って変わって、気配を消したようにとても静かだ。彼がふとポケットからスマホを取り出すと、暗い車内に小さな画面の青白い光がそっと灯り、傷だらけの無骨な指先や細い鼻筋が浮かび上がる。画面を眺めるその瞬間だけ、眉間のシワがほんの少しだけ和らぐ。
「あ、ごめん。今日から送り先、変わってんだ」
「そうなんですね。どちらに向かいましょう」
「うん。ナビ入れていい? ……ここ」
示された住所はこれまで送り届けていたエリアとは異なった。そこはタワーマンションや戸建てが集まる、いわゆる高級住宅街、だ。そしてそのマンションの名前は聞いたことがあった。都心の一角に聳え立つ、最近完成したばかりの超高級タワーマンション。いつかの任務帰り、彼がマンションを探しているというので、色々と条件を聞いて一緒に調べたことがあった。そのとき候補に出てきた物件だったのだ。家賃がとんでもない金額だったからよく覚えている。ミラー越しに目が合うと、虎杖さんは少し照れくさそうに笑った。
「……いや、最近引っ越してさ。まだ誰にも言ってねえんだけど」
「……そうだったんですね」
「だからさ、今度からずっとここでいいから。よろしくな」

マンションの前で、彼を降ろす。
見上げるほど高くそびえるガラス張りの外観、そして重厚なフレームに縁取られた二重のガラスドア。その奥には静まり返った格式高いロビーが広がっているのが見える。おそらくかなり厳重なセキュリティなのだろう。どこをどう見ても、一朝一夕で住めるような場所ではない。
とはいえ、虎杖さんならそれが可能なことは知っている。「特級術師」という希少価値の高い、最高ランクの立場。渋谷事変、死滅回游や新宿での戦いを経て、術師の価値は国家レベルで上昇の一途を辿っている。そんな彼に圧倒的な報酬が支払われることはごく自然なことだ。
彼が自分の贅沢のためにそれを使うイメージはない。だから、この城はきっと、彼女のためだと思った。大切な人を、安全で快適な場所に住まわせたい、という虎杖さんの心。それがここを選ばせたんじゃないかと、勝手に想像した。それにしても、デカすぎるマンションだ。
「いつも夜遅くにごめん。気をつけて帰れよ」
「いえ、お疲れ様でした。虎杖さんもゆっくり休んでくださいね」
ようやく明日、虎杖さんは非番なのだ。急な呼び出しがありませんように。エントランスに入っていく彼の背中を、そっと見送りながら祈る。
車を車道に止め直し、ほっと一息ついて車内の清掃と最終チェックを始める。最近、緊急の出動が多い。呪霊の動きが、いわゆる繁忙期に近づいている。きっと虎杖さんも酷使されることになるだろう。だから、彼が恋人と一緒に住み始めたのは、勝手ながらとても喜ばしいことだと思った。
それは、後部座席のドアを開け、シートの様子を確認していた時だった。足元のフロアマットの上に、ぽつんと小さな何かが落ちているのが目に入った。
「……ん?」
手を伸ばして拾い上げる。
それは、手のひらにすっぽりと収まるサイズの、柔らかい布地だった。かわいらしい淡いピンク色。そして端には、丁寧な刺繍で描かれた花の刺繍。
「…………虎杖さん?」
思わずそのタオルを二度見する。どう見ても、先ほどまで山のような呪霊を粉砕してきた特級術師の所有物ではない。明らかに、若い女の子の持ち物だった。でも直近で、女性の術師を乗せた記憶もない。
そういえば、とさっきの車内での彼の不自然な様子を思い出す。ポケットの中を探り、「戻ったら探す」と言っていたこと。……もしかして、これを探していたのだろうか。
「……とりあえず聞いてみよう」
少しの躊躇のあと、スマホを取り出し、先ほど降りたばかりの彼の番号を呼び出した。
「……もしもし? おー、どうした? 」
数回のコールで出た彼の声は、すでにリラックスしたものに変わっていた。
「すみません、さっきお送りしたばかりなのに。あのですね、車内にハンカチが落ちてまして」
「……あー、…どんなやつ?」
「えーと、…かわいらしいピンクのハンドタオルです。花の刺繍が入っていて」
俺は少しだけ言葉に詰まりながら、手の中の布地をそっと見つめる。
電話の向こうで、一瞬だけ完璧な静寂が訪れた。
「…………ごめん、それ俺のだわ」
「あ、本当ですか。よかったです」
「よかった、…高専に置いといてくれたらさ、取りに行くから」
「いや、今まだマンション近くにおりますので、エントランスまでお持ちしますよ」
「マジ?すげー助かる。ありがと」
明るい彼の返事と共に、通話が切れた。
それで、ようやく車内でのあの表情の理由に合点がいった。きっと、現場で落としたかもしれないとでも思って焦っていたのだろう。車の中に残っていたと分かった瞬間のあの声の切り替わりようは、見ていなくてもかなりの安堵ぶりが伝わってくるほどだった。
そういえば、いつだったか現場で見かけた彼の鍵束にも、明らかに彼の趣味ではない可愛らしいキャラもののキーホルダーが揺れていたのを思い出す。そんなふうにして、彼は大切なひとの存在をやさしく持ち歩いているのだ。

車を、先程停車したエントランス前へと引き返す。入口に入ってみたものの、部外者はエントランスのオートロックすら解除できず、居住者に開けてもらうしかない仕様になっていた。さすがのセキュリティだ。
インターホンを押し、待つこと数分。ガラス張りの向こう、奥のエレベーターが静かに降りてくるのが見えた。自動ドアがすっと左右に開き、中から二つの影が現れる。
「ほんとごめん。こんな遅くに」
出てきた虎杖さんは、グレーのラフなスウェット姿に着替えていた。そしてそのつむじのあたりには、急いで走ってきたからか寝癖のような髪の毛がぴょんと跳ねている。いつもと印象が違う。なんだか、柔らかい感じがする。戦場での殺伐とした空気の微塵もない、新しい生活の匂い。
そしてそのお隣、彼の一歩後ろでくっつくように歩いてきたのは、小柄でかわいらしい女性だった。以前、一度だけお会いしたことがある。酔っ払った彼女を、虎杖さんと一緒に拾いに行ったのた。
「虎杖さん、こちらです」
手渡しやすいよう折り畳んだハンドタオルを差し出した。それを受け取る虎杖さんの手首に、あの傷だらけの大きな手首に、なぜか、小さなキャラクターがついた、可愛らしいピンクのヘアゴムがちょこんと通されている。……このひと、彼女のものを身に着け過ぎじゃないだろうか。思わずツッコミそうになったけれど、必死に顔の筋肉を固定して耐えた。
「ほんと助かった、見つけてくれてありがと」
虎杖さんは心底ほっとしたような表情でそれを受け取ると、そのまま隣に立つ彼女さんに向き直って、その小さな手にタオルをそっと握らせた。
「ごめんな、いっつも使ってるからさ、落としちゃって。気をつける」
慈しむような、目尻をふにゃりと下げた笑顔、甘すぎる声。こちらが恥ずかしくなる。
「なんでもポケットに入れちゃうから落とすんだよ。お財布もスマホも、危ないよ」
「ん、そうだよな。気をつける」
そう答える虎杖さんの口元は、ゆるゆる嬉しそうに緩んでいる。
「夜遅くに、わざわざ届けていただいて……本当にありがとうございました。ご迷惑おかけしました」
彼女が丁寧に頭を下げる。その腰をそっと支えて、虎杖さんは微笑んだ。
「いつも頼りにしてる。また次もよろしくな」
「はい。ほんとに、無事にお渡しできてよかった」
「じゃ、気をつけて帰れよ。……報告書、明日でいい?」
「いや、虎杖さん非番ですよね。俺やっておきますから」
「………マジ?今度なんか奢るわ」
じゃあ、ラーメンで。冗談でそうリクエストしてみると、虎杖さんは笑って承諾してくれた。
「ほんと、……ありがとな」
彼が手を振り、彼女が軽く会釈する。そして軽く寄り添うように、オートロックの重厚なガラスドアへと戻っていく。
虎杖さんの大きな手は自然な動作で伸ばされ、彼女の華奢な背中にそっと回された。そのまま、包み込むように自分の体へと引き寄せていく。当たり前みたいな、ごく自然な仕草に思わず視線が釘付けになる。
そして自動ドアが、静かに閉まり切る直前。
狭まっていくガラスの隙間から、彼が彼女の頭に頬を寄せるようにして呟いた、甘く低い声が漏れ聞こえてきた。
「……ごめん、ちょっと寒かったよな」
「大丈夫だよ。早くお部屋入ろうね」
そして彼女が虎杖さんに身を寄せる。そんな彼女を優しく見下ろし、ふと目元を崩して笑う横顔が、閉まり切るドアの向こうに見えた。
その姿を、最後まで見送った。ドアが締まり、ロックが重なる音がホール中に響いた。


夜風が冷たい。そのまま車に戻り、運転席のドアを閉めた。
「………よかった、本当に」
思わずハンドルに額を押し当て、深く、長く息を吐き出す。なんというか、尊さの過剰摂取でしばらく発進できそうにない。
“今度からずっとここでいいから。”
虎杖さんが先ほど車内で放った一言を、ふと思い出す。

静かにエンジンをかける。
あの温かい二人の新しい城を後ろにしながら、夜の街へと車を走らせた。

2026-08-01