残照

時刻は深夜2時を少し回ったところ。静まり返った高専の待機室に、無機質なアラート音が鳴り響いた。反射的に身体が起きる。夜中に起こされるのは珍しいことではない。
管轄内で発生した突発的な呪霊の出現。推定で一級もしくは特級クラスだろう、ということだった。そうなると、出動の任が下される術師は決まっている。
特級術師、虎杖悠仁。
胃の奥がキュッと収縮する。彼が今日、久しぶりの非番であることを知っているからだ。慌ててデスクの携帯を握り締め、彼の番号をタップする。耳元で鳴り響くコール音。出ないでくれ、とは願えなかった。
いつもなら、どんなに遅い時間であっても3回も鳴れば弾んだ声が返ってくる。けれど今日に限っては5回、6回、7回と呼び出し音が重なったまま、出る気配がなかった。無理もない、こんな深夜だ。それに、直近まで遠方に長期任務に出ていた彼が自宅に戻れたのは確か今朝だったはず。きっとまだ眠っているに違いない。誰か代わりの術師も念の為呼んでおくべきだろうか、そう考え始めた矢先、コール音が途切れた。
繋がった受話器の向こうから、わずかに生活の気配が滑り込んでくる。
「……おう。お疲れ」
低く、かすかに掠れたひどく気怠げな声に、心臓がドクリと跳ねる。普段高専や任務の現場で聴く快活なトーンとは、明らかに違う声。寝起きというよりも、もっと別の理由で喉が使われていたかのような、独特の艶を含んだ響き。そんな声を聞くのは初めてだった。
「……虎杖さん、夜分遅くにすみません」
「んーん、どうした?」
「特級案件で、緊急の招集がかかってます。今から迎えに行きます」
「あー……了解。……わりぃ、ちょっと待たせるかも」
「大丈夫です。お迎えは、ご自宅でいいですか?」
「いや、…もういっこの方」
その返答だけで、色々と察してしまった。ナビを叩くまでもない。”もういっこ”とは、彼女が住むあのマンションのことだ。過去に数回、任務後に彼を送り届けたことがある。
「わかりました。あと20分ほどで、そちらへ到着します」
「ん、おっけー。……あ、待って、それ俺の。……大丈夫?痛いとこねえ?」
最後の言葉は、こちらに向けられたものではなかった。
受話器の向こうで、衣類がベッドのシーツと擦れるような柔らかな摩擦音が聞こえた。くすぐったそうに小さく笑う、女性の甘えたような声も。聞き覚えのある声だ。虎杖さんはそれをなだめるように、深く、やさしく鼻を鳴らして低く笑った。小さく会話が聞こえる。
「……あ、ごめん。いつも迎えに来てもらって悪いな。じゃ、後で」
いつものように、淡白に電話は切られる。
そのまま立ち上がり、送迎車のある駐車場に向かいながら、俺の脳内は先程の電話の声を反芻していた。
普段とは違う、鼓膜にじっとりと張り付くような、湿り気を帯びた低い声。その後ろで聞こえた、彼女の小さな声。布の擦れる音。
……それって、そういうことだよな。
色々と想像がついて、でもそんなことを想像すること自体が傲慢で失礼な気がして、強制的に思考をシャットアウトした。ただ、二人の時間を強引に遮ってしまったことには変わりない。
そう思うと、深夜の都道を走らせるアクセルを踏む足が妙に緊張でこわばり、ハンドルを握る指先がじっとりと汗ばんでいくのが分かった。



指定されたマンションの前に車を滑り込ませ、ハザードを焚く。
2時32分。深夜の住宅街はしんと静まり返っていて、カチカチと規則的に鳴り続けるウィンカーの音だけが、車内の異様な緊張感を浮き彫りにしていた。虎杖さんはまだ下りてきていない。いつもであれば、到着の連絡を入れるとほぼ同時にエントランスから元気よく飛び出してきてくれるはずなのに。
到着を知らせるために鳴らしたワン切りにも反応はない。マンションの窓たちを伺っても、どの部屋も暗く、全てが眠りについている。
催促はしなかった。闇夜に沈んだ車内で、バックミラーをじっと見つめながら待つ。ここまで着くのに、あっという間に20分。そんな時間は、男女が名残惜しさを断ち切るには、あまりにも短すぎるように思える。
急な仕事が入ってしまった彼を、あのやさしい彼女はどんな顔で見送るのだろう。引き留められることがあるのだとしたら、そんな甘い誘惑を、虎杖さんはどうやって振り払うのだろう。
待たされている数分間が、秒単位で生々しさを増していく。ずいぶん長い時間待っていたように感じたけれど、実際はほんの数分だった。
2時35分。エントランスの自動ドアが開き、こちらに向かってくる人影がバックミラーに映った。
ガチャリ、と重苦しい音を立てて車のドアが開く。滑り込んできた虎杖さんは、夜の冷気など一切纏わず、息の詰まるような熱気を帯びていた。
「……ごめん、待たせた」
ドサリとシートに深く身体を沈めながら、大きく息を吐き出す。機嫌が悪いわけではない。けれど、その表情には隠しきれない気怠げな余韻が張り付いていた。彼の筋肉質な身体そのものが、強烈な熱源として車内を支配していく。
「いえ、とんでもありません。……あの、虎杖さん、お疲れですか?」
「んー?いや、別に。……ただ、ちょっと急だったからさ。まだ頭がぼーっとしてるかも」
焦って着替えたのだろう。いつもならきっちりと閉められているはずのフロントのジッパーが、鎖骨の下あたりまで緩んだままになっている。覗いた首元は、まるで熱でもあるかのようにほんのりと赤く上気していた。そして何より、いつもは短く綺麗に整っているはずのピンク色の髪が、誰かの指に何度も掻き乱されたみたいに、あちこち不揃いに跳ねている。
見ているこちらがドキドキする。思わず目を逸らした。
「……到着するまで、少しでも休んでください」
「ん、ありがと。着くまでどんぐらい?」
「飛ばします。恐らく20分ほどかと」
「りょーかい」
出発と同時に、エアコンのスイッチを押す。閉ざされた車内の空間に、冷たい風に乗って、ふわりと新しい匂いが充満していく。
ほんのり甘い、花や果実を思わせるシャンプーの匂い。それを力任せに圧し潰すような、汗と体温の匂い。それが虎杖さんが身じろぎするたびに広がっていく。
こういうのを、なんと呼ぶのだろう。……フェロモン?
「……ごめん、あと5分で切り替えるから。そしたら状況教えて」
そのままシートの背もたれに頭を預け、天井を仰ぎ見る虎杖さん。バックミラー越しに、ジッパーの隙間から彼の喉仏が大きく上下するのが見えた。その首筋からは、まだじっとりと薄い汗が引いていない。
「……急に呼び出したりして、彼女さん、怒ってらっしゃいませんでしたか?」
「いや? 怒ってはねぇよ。……ただ、すごい寂しい顔はさせちゃったな」
「……そうですよね、こんな時間に」
「いいよって言ってくれるけど、でも俺のこと掴んで離さねぇの。……んで、ちょっと泣いてんの」
「……」
「……そんなん見たらさ、…俺だって離したくなくなるよ」
ぽつりぽつりと語られる言葉の温度が、あまりにも甘くて、生々しかった。
赤信号で車を一時停車させる。彼の表情を、またミラー越しに盗み見た。物憂げにシートに身体を預け、自分の掌に残っている感触を確かめるみたいに、ゆっくりと大きな指を曲げ伸ばしている。
「泣いてんのを止めるのってさ、難しいよ」
「……そうですね」
「だからちょっと、なんか、…強引に寝かしつけちゃって。……せめて俺がいない間、眠ってくれてたらいいんだけど」
「夜明けまでに、必ず帰りましょう」
「……そうだな」
強引に、の内容が気になったけれど、反射的にその煩悩を振り払う。
車はそのまま大きな交差点を曲がり、目的地へと近づいていく。窓の外の景色が、住宅街から不気味な静寂を纏ったビル街へと変わっていくにつれ、車内の空気がわずかに張り詰め始めた。呪霊の気配が、だんだんと濃くなっていく。
彼は大きく一つ深呼吸をすると、迷いのない手つきでパーカーのジッパーを首元まで一気に引き上げた。キュッと金具が噛み合う音は、まるで世界の境界線を引くシャッターの音のようだ。車内が、圧倒的で冷徹な特級術師の覇気であっという間に塗り替えられていく。その奥にある瞳の光が、完全に「戦う者のそれ」に変貌する瞬間を目撃した。
こちらが状況を説明するのを、彼は目を閉じて聞いている。問題ない、と一言だけつぶやくと、そのまま車から降り、ひとり帳の中へ向かっていく。それはいつもの光景だった。
「んじゃ、すぐ戻ってくるから。あとはよろしく」

遠ざかっていく彼の、広くて逞しい背中を見送りながら、俺はようやく、止まっていた呼吸を大きく吐き出す。
カチカチと鳴り続けるウィンカーの音だけが、再び車内に戻ってくる。

後部座席には、もう彼の熱の残り香しか、残っていなかった。

2026-07-09