心拍音しか聞こえない、そんな夜だった。
狭い浴室に満ちた白い湯気は、輪郭のない孤独を、やさしく曖昧にぼかしてくれる。
「ふたりで入るとさ、やっぱり狭いな」
「……うん」
浴槽に向かい合って座って、けれどしばらくお互いに話さなかった。しずくが水面に当たる音だけが、やけに大きく響く。
湯気に濡れた彼女の肩、浮き出た鎖骨のライン、伏目がちな表情、全てが甘くて懐かしい。本当はすぐにでも触れたいのに、壊してしまいそうで躊躇する。だって、数ヶ月前より確実に痩せている。その華奢な肩を見ただけで、彼女が一人でどんな生活を送ってきたのか想像できてしまって、胸の奥が激しく痛んだ。しあわせになってほしいと背中を押したはずの自分の手のひらが、今、焼けるように熱くなる。
「……一回だけ、いい?」
掠れた声で聞くと、彼女は小さく頷いた。頬に触れた指先が熱くなる。近づくと、濡れたまつ毛やその瞳に映る光がはっきりと見えた。心臓がドキドキする。ずっと水の底に沈んでいた俺に、彼女の小さな吐息だけが、鼓動を直接揺らすように届く。重なった唇は柔らかくて、懐かしくて、苦しくて、甘かった。世界から音が消えたみたいだ。ただここにある彼女の体温だけが、泥のように重たかった俺の身体を、内側から作り替えていくのがわかった。
「……やっぱり、好き」
「うん、わたしも」
言葉が重なる。そっと笑ってくれる彼女は本当にかわいくて綺麗で。なんで俺たち、離れちゃったんだっけ。こんなに好きなのに、好きだから、しあわせになってほしいから、そして傷つきたくないから、傷つけたくないから、離れたのに。自分がした選択は、ただ彼女を突き放していただけだった。
「……おれさ、怖かったんだ」
少しずつ、言葉を紡いでいく。彼女の瞳は、俺を真っ直ぐ見つめていた。
「これ以上◯◯が……大切になるのが」
失った時のことをすぐ考えてしまう。俺の悪い癖だ。大切なものほど、俺の手からこぼれ落ちていく。大切なものが大切であるほど、心が張り裂けそうになるほどつらい。だから、彼女を好きになるたびに、一緒に過ごした思い出が増えていくたびに、怖くなった。しあわせを感じるたびに、その影に怯えていた。
「だから逃げた。逃げただけだったんよ」
「……悠仁くん」
「けど結局、離れてもおれは…生きてないのと同じだった。死んでるみたいな気分だった」
彼女の手が伸びて、慈しむようにそっと、俺の頬に触れた。いつだって俺に触れる彼女の手はやさしくて、それが何よりもしあわせで、何よりも恐ろしかった。
「おれは◯◯のことが、世界一大切だから…もう世界一なのに、一緒にいると毎日大切さが増していくんよ」
「……うん」
「離れても、世界一大切なのは変わらんかった。……だからもう、怖いままでいい。おれ、やっぱり一緒にいないとだめなんよ」
彼女の瞳から溢れた涙はその赤い頬を伝って、お湯の中にそっと消えていく。それは止まらなかった。後悔をかき消したくて、もう一度唇を重ねる。
「傷つけてごめん、……弱くてごめん」
「謝らないで」
「……でも、…ごめん」
「謝るんじゃなくて…好きって、いっぱい言ってほしい」
この子は俺を決して悪者にしない。やさしく微笑む彼女の姿が、今度は俺の方が涙で見えなくなった。離れてから一度も流せていなかったそれが、一気に溢れ出したみたいだった。
「好き、…大好き」
「うん、わたしも好きだよ」
彼女は俺の涙を、自分の指先で何度も丁寧に拭ってくれる。その指の柔らかさに、張り詰めていた心の根っこが、ようやく緩んだ気がした。泣きすぎて息が浅くなる。でも、ようやく正しい呼吸の仕方を思い出せた。だから大丈夫。
「……なんかいつもより、のぼせちゃうの早いかも」
「ごめんな、そろそろ出よう」
「うん、…一緒に入ってくれてありがとう」
「………やっぱ待って」
その濡れた前髪をそっと整えて、もう一度キスした。好きで好きで仕方がなくて、世界の何よりも、俺の命なんかよりも大切で。そう思ったらなかなか止められなくて、何度も何度もキスした。案の定、のぼせてしまった彼女に怒られた。そういうやりとりさえ、あまりにいとしかった。
◇
明け方、目が覚めた。
隣から聞こえてくる規則正しい彼女の寝息。シーツが擦れる微かな音。隣にある確かな熱が、俺を現実に繋ぎ止めている。暗闇に目が慣れてくると、彼女の背中の柔らかな曲線が浮かび上がった。そっと指を伸ばして、その肌に触れる。触れるたびに、指先からじわじわと生きている感覚が戻ってくる。
「……夢じゃ、ねえよな」
一緒にいることをやめてしまってから、眠ることがまた怖くなっていた。目が覚めたとき、彼女がいない現実を一から受け入れないといけないから。そんな作業を毎日繰り返したくなくて、俺は眠っていなかった。ようやく眠れた今夜も、こうして彼女の存在を確かめてしまっている。静かにそっと、声にならない声で、彼女の名前を呼んだ。その声に呼応するように、彼女のまぶたが開く。
「……どうしたの、眠れない?」
「ごめん、起こした?」
ぼんやりした表情のまま、彼女は俺の手を握ってくれる。俺の不安や葛藤はこの子にバレているんだと、それだけでわかる。いつも俺が眠れているかどうか、心配してくれていたから。
「……もう、離したくねぇな、と思って」
背中に腕を回し、引き寄せる。ふんわり香るシャンプーの匂い。柔らかな体温。目を閉じれば遠くからやさしく、眠気がやってくる。悪夢を見た夜、かつて俺はそうやって過ごしてきたのだ。
「……離れないでね」
「……うん、もう離さんよ」
その掠れた声に応えるように、さらに腕に力を込めた。壊さないように、けれどもう、二度とこぼれ落ちたりしないように。
カーテンの隙間からは、少しずつ青白い光が差し込み始めている。隣に並んだ呼吸は静かに重なり合って、ひとつになる。遠くで聞こえる街の目覚める音も、窓を叩く風の音も、この夜明けの光も、今は嫌いじゃなかった。俺が生きている証拠だと、素直にそう思えた。
彼女の髪に額を寄せる。息を吸う。それはひさしぶりの、深く、長い呼吸だった。