水底

午前4時。それは世界が朝を迎える前の、一番暗くて深い時間。
鼓膜を低く圧迫するような、くぐもった重低音で目が覚めた。それは窓ガラスを激しく叩く、6月の長雨の音だった。
「……さむい」
小さく零した独り言は、濃密な雨音に遮られて、わたし自身の耳にすら届かない。自分の身体の感覚に耳をすませてみると、こめかみがズキズキと痛むことに気がついた。その痛みをごまかしたくて寝返りを打とうとしたけれど、身体はずっしりと重たい。ここ数週間、ずっと降り続いている雨の湿度のせいだろうか。何があったわけでもないのに、心臓の奥が冷たく固まっていて、なんだか指先ひとつ動かすのすら億劫だった。
寝返りは諦めて、目線だけを動かして薄暗い部屋を見渡した。まるで深い海の底のようだと思った。
天井に、窓を伝って流れる雨粒と、小さな街灯の光が乱反射して、ゆらゆらと青く揺らめいている。その水の紋様が白いシーツや床一面にも映り込んでいて、まるで寝室ごと深い水底に沈んでしまったみたいで少し怖い。外の世界が激しい雨のカーテンで真っ白に塗り潰されてるところを想像した。 なんだかここが、世界から完全に切り離されてしまった気がして、心細くなる。だからこっそり、深呼吸した。
「……ふう」
吸い込んだ朝の空気は湿り気を帯びていて、自分の肺はますます冷たい水で満たされていくような気がする。 底のない、理由のない不安がじわじわと這い上がってくる。正体のわからない不安。すぐ隣には、布団を押し上げている、悠仁くんの大きな身体の輪郭がある。いつもなら、そのあたたかさに縋りたくなって、手を伸ばせるはずなのに。なんだかそれすらも億劫で、自分の冷え切った指先では、彼の温もりに触れることができなくなってしまっていた。長期任務から戻った彼が眠りについたのはまだ数時間前のことだから、こんな理由で起こしたくなかった。心がきゅっと縮こまって、動かない。
水面のように青く揺れる天井を見つめる。溺れるように呼吸を繰り返すことしかできない。悠仁くん、と心のなかで何度も名前を呼んだ。
……悠仁くん。
カサ、と小さく布が擦れる音がした。 冷えたシーツの上で、耐えかねてほんの少しだけ身体を揺らした、その瞬間だった。
「……#name#」
低く、掠れた声が、雨音を割って鼓膜を震わせた。
驚いて視線を横に向けると、暗闇の中で、悠仁くんがすでに目を開けていた。
「起きてたの?」
「ん、……なんか、呼ばれた気がして」
眠っているのだとばかり思っていた。青い水光を反射する薄暗がりの中で、彼の茶色の瞳はわたしをまっすぐ見つめている。それはなんだか、まるで迷子を見つけたような切実さで、冷たかった心臓がどくんと跳ねる。その瞳は、夜の闇と雨の重たい湿度をそのまま吸い込んでしまったみたいに、見たこともないほど深くて、どこか寂しげに揺れている。
目が合うと、悠仁くんは何も言わずに、布団の中で大きな腕をまっすぐに伸ばしてきた。わたしの腰に回された手のひらは、熱くて大きい。やさしく、けれど確実な力で、わたしの身体を自分の胸元へと引き寄せてくれる。
「どうした、眠れねえの?」
冷え切った身体が、悠仁くんの肌の柔らかい質感と体温に触れて、じわりと痺れるような感覚になる。わたしの髪にそっと顎を乗せるようにして、悠仁くんはさらに腕の力を強めてくれた。
「……なんか、目が覚めちゃって」
「そっか、……頭痛い?」
「うん、…痛い」
小さくそう答えると、悠仁くんの手のひらが、わたしの背中をゆっくりと撫でてくれる。
「……なんでそんな泣きそうな顔してるん」
「……そんな顔、してる?」
「してるよ、……どうしたん」
うまく説明できない。だからそのまま彼の胸に密着して、しばらく黙っていた。悠仁くんは催促しなかった。ただ静かにわたしを抱きしめてくれた。
外の雨は、さらに勢いを増していく。 ゴウゴウと鳴り響く激しい雨音のせいで、わたしたちの境界線はだんだん曖昧になっていった。それはちょっと怖いことのようで、だけどなんだか嬉しいことのようにも思える。本当に、この部屋の、このベッドの中の熱だけが、世界に遺された唯一の光みたい。彼の規則正しい、けれどいつもより少しだけ速い心臓の音がトク、トク、と鼓膜に響く。それだけで安心した。
「おれさ……」
雨の音に紛れ込ませるようにして、悠仁くんがぽつりと言葉を漏らした。 その声は、いつもよりもずっと低くて、なんだか甘くて、少しだけずるい男の子の響きを孕んでいた。
「おれ、今みたいな雨の日の夜明け前がさ……たまに怖くなる」
「……怖いの?」
意外な言葉に、彼の胸元を見上げる。悠仁くんの視線は、まだ青く揺れる天井のどこか遠くを見つめていた。わたしの髪をそっと指先で弄りながら、彼は掠れた声のまま続ける。そっと、世界の秘密を教えてくれるみたいに。
「なんか、世界中が雨の音だけになってさ。窓の外も真っ白で何も見えなくなるじゃん」
「……うん」
「 ……そういうとき、ふとさ、#name#ちゃんが、雨の音に紛れてどっかに行っちゃう気がして」
「そんなことしないよ」
「ん……おれの気のせいならいーんだけどさ。つい考えちゃう」
その言葉に含まれた、切ない彼の本音に、わたしは息を詰めた。どうして悠仁くんがそんなふうに考えてしまうのか、なんとなくわかる気がしたから。
大切なものほど、腕をすり抜けてこぼれていく。気が付かないうちに失ってしまう。守れなかった、守られてしまった。そういう記憶が、悠仁くんをやさしく、そして臆病にしている。
この海の底みたいな暗闇の中で、子供みたいに傷つくことを恐れているわたしたち。
悠仁くんはそれ以上何も言わなかった。言葉にはしないけれど、わたしを抱きしめる腕の強さがどんどん強くなっていく。静かだけど、生々しい独占欲。肌の感触からちゃんとわかる。いつもはきっと、わたしのために抑え込んでいるはずのそれが、雨の湿度のせいで、決壊するみたいに溢れ出してくる。
「……ごめん、変なこと言った」
「ううん、教えてくれてうれしいよ」
「……夢をさ、見てたんよ」
「夢?」
「夢の中でも、雨が降ってんの。何も聞こえないし、何も見えない。ひとりでそこにいた。このまま雨に消えるんだなって思ってたら、#name#ちゃんの声がして」
「……うん」
「それで起きたら、ちゃんと#name#ちゃんがいた。絶対離したくねえなって、思った」
わたしは思わず、彼の胸元に預けていた腕を伸ばした。広い背中に手を回して、今度はわたしの方から、その大きな身体をぎゅっと抱き返した。ただ、そうやってあげたかった。彼の胸の奥にある孤独感や不安を、わたしの体温で全部消してあげることができたら、どんなにいいだろう。精一杯の力で、その背中にしがみついた。お互いの存在を確かめるみたいに。
「んなあ、なんで泣きそうな顔してたん」
「……どうしてかな、…ひとりで目が覚めちゃったからかな」
「……そっか、怖かった?」
「うん、…でも悠仁くんがいるから」
悠仁くんはすぐには答えなかった。ただ、わたしの首筋に深く顔を埋めて、ひとつ深呼吸した。その呼吸の熱に、触れ合っている肌がじわりと痺れる。
「……すぐかわいいこと言う」
「悠仁くんだって、同じこと言ってたよ」
「#name#ちゃんが言うのは、また違うじゃん」
「……どうして?」
「……#name#ちゃんは、おれの天使だから」
窓の外から流れ込んでくる空気はこんなにも冷たくて、指先を凍えさせるのに、彼が回してくれた両腕のなかだけは、熱いくらいの体温で満たされている。世界を濡らす6月の雨の冷たさと、ふたりの孤独を溶かしていくわたしたちだけの熱。
「…大げさだよ」
「んーん、本当のことだから。…ずっと、おれの天使だよ」
額がこつん、とやさしく寄せられて、視線がまっすぐに絡む。
「#name#ちゃんがあったかくてかわいくて、おれ、生きてる心地がする」
悠仁くんはそのまま、わたしの目元や髪に、そっとキスをいくつも落とす。そのやさしさは、なんだか雨上がりの光みたいだと思った。目を閉じてその温もりに身を委ねているうちに、あれほど鼓膜を圧迫していた激しい雨音が、だんだん静かになっていく。まだ頭は重いけれど、でも胸を締め付けるような不安はどこかに溶けて、なくなってしまっていた。
部屋を満たしていた深い海の青に、夜明けのほんのりとした白い光が混ざり合っている。水面みたいな天井の模様が、青から、柔らかな白銀のグラデーションへと移り変わっていくのを、わたしたちは抱き合ったまま、静かに見つめていた。
「……悠仁くん」
「ん?」
「わたし、どこにもいかないからね。ずっと一緒にいるから」
わたしがそう言うと、悠仁くんは嬉しそうに「うん、知ってる」と呟いて、やさしくキスしてくれた。
「……もう一回寝る?」
「うん、そうだね」
「ん、もっとこっちおいで」
彼の胸の音を子守唄代わりに聴きながら、わたしはゆっくりと心地よい、泥のような眠りへと落ちていく。 薄明の光は、新しく始まった朝を、静かに照らし始めていた。

2026-06-25