ホットケーキ

帳が上がる。血と呪いの匂いが充満する戦場から、彼らを日常へと連れ戻す。

「……虎杖さん、お疲れ様です。今回も、難儀でしたね」
「……いやー、……容赦ねえよな」
バックミラー越しに声をかけると、後部座席に沈み込んだ虎杖さんは低く掠れた声で応える。
特級術師というランク柄、仕方のないことではあるけれど、基本的に彼らは任地に単独で送り込まれ、呪霊を払うまでずっとひとりで帳の中だ。その時間が長ければ長いほど、人間としての自我を取り戻すためのクッションのような時間が必要になる。それを確保するのも補助監督の仕事だと、俺は思っている。
任務直後の彼の三白眼には、呪霊を完封した直後の、射貫くような冷徹な殺気が宿ったままだ。しばらくエンジンをかけずに、その空気が緩むまで静かに待つ。ふう、と大きくて深い溜め息が聞こえる。
「あ、…悪い。出して大丈夫だから」
「高専に戻りますか? それとも、マンション……」
「いや」
食い気味に、鋭い声が飛ぶ。
「スーパー寄ってもらっていい?卵、切らしててさ」
「…………卵、ですか?」
予想外の言葉に、思わず聞き返してしまった。
今、拳一つで世界を揺らすような戦いを終えてきたばかりの男の口から出た単語が、「卵」。その生活感に脳の処理が追いつかない。虎杖さんは柔らかく笑った。
「そう、卵。悪いけど、一番近いとこ頼むわ」
もちろん虎杖さんの頼みなら。カーナビを最寄りのスーパーに設定し、車をゆっくり走らせる。窓から差す夕焼けが眩しい。
今まで送迎途中に色んなところに寄ったことはあるけれど、スーパーを指定されたのは今回が初めてだった。普段虎杖さんに生活感があまりないせいか、ふたつが結びつかない。というか、他の術師の送迎でも頼まれたことがない。無意識にミラーに目をやる。そんな俺の思考はバレてしまったようだ。
「いや……その、さ。最近あんま、帰れてなくて」
「……繁忙期ですからね」
「んで、彼女に埋め合わせするって言ったらさ…悠仁くんのホットケーキ食べたい、って言われちゃって。……だから作んなきゃいけねえの」
そう言って虎杖さんは嬉しそうにはにかんだ。なんとなくわかる。彼女からのリクエストが、この人にとってはどんな極秘任務よりも優先されるべき「最重要ミッション」なのだということが。
「虎杖さん、お料理されるんですね」
「まあな。爺ちゃんと暮らしてたし、高専でも寮生活だったからさ」
「ホットケーキ、いいですね」
「んー、#name#ちゃん、…あ、いや、彼女が、好きって言ってくれるから。俺の得意料理ってことにしてんの」
それはあんまり気合いを入れずに、ゆるっと焼くのがコツらしい。じっと焼き加減を見つめたりしないで、彼女とおしゃべりしたり、ただぼーっとしたりしながら待つ。休みの日の朝、そうやってのんびり作るのだと。
「そもそもさ、…埋め合わせっつーのがなんか、おこがましいじゃん」
「……そうですかね」
「ひとりにさせた時間は取り戻せない。……だからなんでもやってあげたい、って思うけど」
だんだんと、その声が小さくなる。
「……ホットケーキでいいなんて、ずるいよな」
バックミラーに映る虎杖さんの瞳は、夕焼けの残光を反射して、少し寂しそうに揺れていた。この人は、自分がどれほどの地獄を肩代わりしてこの世界の日常を守っているか、決して口にしない。それが自分に与えられた唯一の役目で、だからそうするのが当たり前なのだと、いつも全身がそう言っている。
「それは彼女さんが、虎杖さんの存在そのものに救われているからじゃないですか」
「……だといいんだけどな」
虎杖さんは力なく、けれど優しく笑った。

スーパーの駐車場に車を滑り込ませると、虎杖さんは「すぐ戻る」と言って車を降りた。 俺も思わず彼の後を追う。上着を着替えてもらい、返り血や汚れはある程度隠しているものの、彼が纏うオーラは全く隠しきれていない。今の俺の役目は保護観察だ。
自動ドアをくぐる。買い物カゴを手にした彼が歩くと、周囲の客が本能的に道を空けていく。
……虎杖さんと買い物カゴ、合わなさすぎる。
「ごめん、電話すんね」
そう断ったあと、虎杖さんはポケットからスマホを取り出し、耳に押し当てた。数回のコールのあと、花が咲いたように明るい表情になる。だから相手が誰なのか、すぐに察しがついた。
「あ、もしもし? うん、いまスーパー着いたよ。……ごめんな、遅くなって。任務長引いちゃってさ」
それは解け落ちる雪みたいに柔らかくて丸い声。彼女を不安にさせないよう、努めて穏やかに笑う。俺はそれを見るのが好きなだということに気がついた。
「いいんよ、おれが寄りたかっただけだし。……んで、他にいるものあった?」
きっと彼女は電話の向こうで、あれもこれもとたくさんリクエストしているのだろう。その声を、虎杖さんは頷きながら目を細めて聞いている。
「ん、オッケー、覚えた。あと牛乳と、バターな。…いちご?りょーかい、一番美味そうなやつ選んでいくわ」
電話を切り、虎杖さんは売り場へと足を進めていく。傷だらけの大きな手のひらが、今は10個入りの卵パックを、まるで世界で一番壊れやすい宝物のように慎重に抱えている。
「……ホットケーキにさ、フルーツいっぱい乗せると喜んでくれるんよね」
そう言いながら次はいちごやバナナ、ブルーベリー、りんご、手当たり次第にフルーツを入れていく。カゴの中が一気にカラフルになった。そこに牛乳やバター、ホットケーキミックスも追加される。ひとつひとつ確認して、彼女からのリクエストに漏れがないか確認する虎杖さんは幸せそうだった。
「……よし、これで大丈夫そう」
「よかった。レジ、あっちです」
「あ、ごめん、まだ買いたいものあってさ」
もちろん行きましょう。最後に向かったのはお菓子コーナー。棚を見つめ、伸ばされる手に迷いは全くない。定番のチョコレートや、新作のクッキー。たぶんそれは、彼女の好きなお菓子たち。きっとリクエストされたわけではないんだろうな。なんとなくわかる。これまで何度か虎杖さんの買い物に付き合ったことがあるけど、買うものはいつも自分のものではなく、彼女のための何かだった。
いつだってこの人は、彼女のことが大好きなのだ。

会計を済ませ、車に戻る。パンパンのレジ袋は虎杖さんの隣に降ろされた。
「今日もありがとな。助かった」
「買えてよかったです。このままマンションに向かいますね」
「ん、サンキュ」
静かにアクセルを踏み込む。助手席にある、特級術師が命懸けで(?)選び抜いた卵のパックを、決して揺らさないように。すでに日は暮れ、ビルの明かりや車のヘッドライトが夜の街に浮かんでいる。
「……ていうかさ、ほんとにありがとな」
「いえ、どこかに寄りたいときはいつでも言ってください」
「いや、…そうじゃなくて。明日の俺の休みさ、調整してくれたんだろ」 
「あ、……はい」
そう、本人に頼まれたわけではないけれど、俺が勝手に休みにした。だって虎杖さんは働きすぎなのだ。何でも引き受けすぎだし、こなしすぎている。それでもこのひとは自分から休みたいと滅多に言わない。実際は彼女に1日でも会えないと寂しくて死にそうになっているのに。
「すみません。でも休んでもらいたかったので」
「……めちゃくちゃ助かる。嬉しい。ありがと」
「美味しいホットケーキ、作ってあげてくさだいね。そしてゆっくり休まれてください」
そう返すと、虎杖さんはまた柔らかく笑う。
「#name#ちゃんが喜んでくれたら、もうそれだけでさ、……なんでもいいんだよな」
マンションまで、あと30分。それまで少しでも休んでもらえるよう、オーディオの音量を切る。聞こえるのは車の走行音だけ。夕暮れも、朝焼けも、こんなふうな夜の光も、彼はいつも車窓にもたれかかり、それをそっと静かに眺めている。そこには何が映っているんだろう。誰にも共有されていない、彼だけの何かがある。寂寥感、孤独感、なんだかそんな風な匂いのするもの。そういうものがあることはわかるのに、決してそこに他人は触れさせてもらえない。それが許されているとしたら、たぶんひとりだけなのだろう。一緒に過ごすと、なんとなくわかるようになった。
大きな手でレジ袋を抱え、彼女に「お菓子も買ってきたよ」と報告する虎杖さんの姿を想像する。きっと誰も見たことがないくらい、穏やかな顔で笑うのだろうと思う。
彼が特級術師から一人の人間に戻る瞬間を、これで少しでも手伝えているのだろうか。
もしそれができているとしたら、俺はこの仕事を、とても誇らしく思う。

2026-05-09