仲直り

居酒屋の煙草の煙が少し苦手だ。
それでも猪野さんと飲むときは、なぜか気にならなくなる。むしろ懐かしい気持ちにすらなる。
そういえば、煙草の匂いをまとって帰ると、彼女はいつも笑って「猪野さん?」と聞いてくれる。そういうことを思い出して、胸が痛んだ。

「……喧嘩、したんよね」
「ん、なんで」
猪野さんがジョッキを口に運びながら眉を上げる。
「いや、別に全然大したことじゃないけど。ラインの既読がつかないとか、そんなん……」
「はは、高校生みてえ」
そう言いながらも、俺を見るその視線は優しくて、思わず小さく笑ってしまう。それは、昨夜の話だった。
「なんか、ちょっと寂しくなって、言わんくていいこと言っちゃって」
「言わなくていいこと?」
「返信遅いとか、…なんかそういう」
「お前が言ったの?」
「うん」
「お前、俺のLINE全然返さないときあんじゃん」
「それは猪野さんが意味わからん写真とか送ってくるからじゃん。それとはちげえよ」
俺が思わず反論すると、猪野さんが笑いを堪えるように口元を抑える。
「お前、そういうこと言う彼氏だったんだなぁ」
「やめてマジで……」
顔が赤くなるのが自分でもわかって、とりあえずジョッキを煽る。酔ってくる。いつもよりペースが早い自覚はあった。そしてその理由も、ちゃんとわかってる。要は俺は、彼女と喧嘩して動揺しているのだ。
「何があってもすぐ俺は返すようにしてるけど、でもあっちが昨日は飲んでて全然連絡なくて…別にいいけど、でもなんか寂しくなって、なんか、その、…キツい言い方した」
「はは、なるほどな」
猪野さんはタバコに火をつけて、ふっと笑う。
「虎杖、可愛いとこあんのな」
「……俺は別にかわいくねえよ」
喧嘩は滅多にしない方だと思う。彼女はいつだってやさしいし、笑っていてくれるし、わがままを言われるのが俺は好きだし、嫌いなところなんて本当にひとつもない。全部が好き。なのに時々、傷つけてしまう。俺が弱くて、色んなことが下手くそなせいで。
「じゃあさ、その子の何が好きなんだよ、そんなに」
「……聞いてどうすんだよ」
「言ってみ?」
「…………そりゃ、笑った顔とか、声とか、やさしいとことか、…」
「ほうほう」
「怒った顔も、寝起きも、拗ねてる顔もかわいいし、俺のTシャツ着てるとことか、電話で眠そうな声出すとことか……」
「ふむふむ」
「映画見てすぐ泣くとことか、美味しそうにご飯食べるとことか、」
「なるほどねえ」
「ほんとに全部好き、で、ずっと一緒にいたい、大事にしたいと、思ってて」
「……ふうん」
「でもこれであってんのかなとか、幸せにできてんのかなとか、色々思って」
「ほお」
「いつまで続けんのこれ」
静かに笑みを浮かべて、猪野さんがグラスを置く。
「ほんとに好きなんだな」
「……笑うなよ」
「いや笑うわ、眩しすぎて」
「うるせえわ」
またジョッキを煽ると、炭酸が喉を焼くように通っていく。鼻の奥が少しだけツンとした。
猪野さんは笑ってタバコを灰皿に落としながら、横目で俺を見ている。店内のテレビからはスポーツニュースが流れていて、その音もなんだか遠くに感じた。彼女は今何をしているんだろうと、頭の隅でぼんやり考える。
「ちゃんと好きなら問題ねえだろ」
「……それだけじゃダメなときも、あるんだろ」
「さあ、そんなもんないんじゃね?ひとりで生きるのはやめたんだろ。それが一番だって」
ひとりで生きるのは、やめた。それは確かにそうだ。過去の色々な経験も思い出も、誰かと生きることを臆病にさせるようなことばかりだった。それでももうひとりじゃないのは、彼女のおかげなのだ。
「普通に謝って、また一緒にいりゃいいだけだって」
「……けど、」
そう言いかけた時だった、ポケットの中でスマホが震えた。
無意識に画面を開くと、彼女の名前が表示されている。

『ごめんね、昨日、連絡できなくて。今日、帰ったらちゃんと話すね。大好きだよ』

「…………」
呼吸が、一瞬止まった。
「ん? どした?」
「……っ、いや、」
顔が、勝手に熱くなる。耳まで赤くなっていくのがわかる。やばい、好きだ。かわいい。全身が熱くなる。酒のせいじゃ、なくて。
画面を見つめたまま、どうしようもなく口元が緩んだ。
「おーおーおー」
全てを察した猪野さんは目の前で爆笑している。さすがに笑いすぎだろ、と思うものの、それを咎める余裕はなかった。だって、嬉しすぎる。
「お前、恋愛偏差値15歳すぎるだろ」
「……うっせえな」
赤くなった顔を隠したくてジョッキを持ち上げる。心臓がうるさい。でも仕方ない。彼女が打ったその文字が、脳裏で何度も何度もリフレインする。会いたくてたまらなくなる。喧嘩しててもしてなくても、彼女からの連絡にはいつも心臓がバカみたいにうるさくなるのだ。
「まあ、ちゃんと大事にしてること、伝わってる証拠なんじゃねえの」
知らんけど、と猪野さんはまた煙草を燻らす。
「……そっかな」
文字を何度も目で追った。昨日、勝手に不安をぶつけてしまったのは俺なのに。好きすぎて、上手く説明することもできなかったのに。その不安も、彼女は抱きしめ返そうとしてくれるんだと、ちゃんとわかる。そういうところが好きなんだって、言いたくなる。
「ほら返信、しろよ」
猪野さんが小さく笑う。
「…わかってるって」
心臓の音がうるさい。まだ耳まで熱い。店内のテレビの音も、周りの笑い声も、ジョッキを置く音も遠くなる。深呼吸して、ゆっくり言葉を選びながら送信した。

『俺こそ、言い方きつくてごめん。帰ったらちゃんと話そう。俺も大好き』

なんで俺、こんなに死ぬほど緊張してるんだ。そう思うけど、仕方ない。
「返信した?」
頷いた瞬間、またスマホが震えて、そこに表示されたのはかわいいスタンプ、追加で『帰ってきたらぎゅってしてね』の文字。
「………」
な、なんだこのかわいい生き物。俺の彼女か。
「お前わかりやすすぎるだろ」
早く帰れと爆笑する猪野さんにからかわれながらさらにスタンプで返信した。また耳まで熱くなる。ぎゅってする。させてください。
「…ごめん、俺、帰るわ」
「おう」
席を立つと、猪野さんは笑いながら言った。
「そのゆっるゆるな顔直してから帰れよ」
「……うるせえ」
そう言いながらも、緩んだ口元は戻らない。煙草の匂いが少しついたジャケットを羽織って、ポケットのスマホを握りしめる。この匂いに気づいて、いつもみたいに「猪野さん?」と笑ってくれる彼女を想像して、胸の奥が熱くなる。早く帰ろう、と思った。帰って、抱きしめて、ちゃんと話せたらそれでいい。帰る場所がちゃんとある。それだけで、生きていけると知っている。

2026-05-04